祭囃子のそのあとで
荷物もほとんどないままこの街に越してきて数ヶ月。毎日買い物に来ている商店街の人たちとは、いつの間にかすっかり仲良くなっていた。
暑い盛りなので今日の夕飯は素麺でいいかなんて考えていた翔を、肉屋の女将さんが呼び止める。
「翔ちゃん、今日は夏祭りなのよ、知ってる?」
「夏祭り?」
肉屋のショーケースの前には近所の奥様方が屯っている。
「そうそう。貴方もいらっしゃいよ」
言ったのは町内会長の奥さんだ。
「翔くんが来てから、町内会費が滞らなくなったんですもの。あの引きこもりも外に引っ張り出して遊びにいらっしゃい」
***
「祭り?」
町内会費を滞らせていた引きこもり―もとい、ここの家主であるジャックは、箸ですくえるだけの素麺をつゆの中に潜らせた。
「俺、祭りなんて小学生ぶりだから、行きたいんだ」
キンキンに冷えたトマトを頬張って翔が言うと、ジャックは欠片も興味がないふうに箸を回した。
「行ってくりゃいいじゃん」
「ジャックは行かないのか?」
「面倒くさい」
ずぞぞと音を立てて素麺を啜る。
「ひとりで行っても楽しくないだろう。一緒に行こう」
この一ヶ月、ジャックの外出がアパートの一階のコンビニだけ(しかも、たったの三回だ)なのを知っているので、なんとか外の空気を吸わせようとしつこく誘ってみた。
仕事になると、部屋のカーテンも閉めっぱなしでパソコンとにらめっこを始めるので不健康なことこの上ない。
「今は仕事もないんだし、行こう」
「えー……」
まだ口を尖らせて不満を表しているジャックを明日の夕飯をハンバーグにすることで黙らせるのは至極簡単なことだった。
***
「次はわたがし食う」
ジャックの両手にはいか焼きやフランクフルトを始め、様々な屋台で買った食べ物が握られている。
あんなに行くのを渋っていたくせに、この満喫の仕方は一体何なのか。翔は呆れながら、財布を開いた。
「あまり無駄遣いは……」
そこまで言った時、小さな兄弟がふたり、翔たちの横を駆け抜けていった。楽しそうに笑い合いながら。
「どうした?」
立ち止まって彼らを見送っている翔に、ジャックは数歩近づいて問うた。
「夏祭りか。小学生の時、弟と行ったのが最後だな」
あれは自分が小学五年生で、弟はまだ小学一年生の時だった。たまたま両親が仕事でいなくて、ふたりきりで夏祭りに遊びに来たのだ。
与えられたお小遣いの千円を握り締めて屋台を物色しているうちに、小さい弟は勝手にひとりで歩いて行ってしまった。あとの時間は弟を探すことに費やしてしまったのだった。
「見つけた時には俺は大泣きしてるのに、翼はケロっとしててさ。どっちがお兄ちゃんなの、って母親に叱られた」
かき氷をすくったスプーンを口に入れると、甘い蜜の味が口に広がる。
「ジャックは? 祭りの思い出とかないのか?」
一歩前を行くジャックに問いかけると、彼は「うん」と曖昧な返事をよこす。
「俺は記憶にある限り、祭りに来たことないからさ。ほら、お前が言ったとおり、ひとりで来ても楽しくないじゃん。祭りなんてさ。だから、来ようと思ったこともなかった」
「友達もいなかったのか?」
「いたよ。でも、若い時は斜に構えてたから、上辺だけの友達だったんだよね。だから、こんなとこ一緒に来ない」
あはは、と軽く笑う。その笑顔にまったく寂しさがないので、翔は思わず彼の腕を掴んだ。
ジャックと暮らし始めて数ヶ月経ったが、彼の口から家族や友人の話を聞いたことがない。自分が信頼されていないからかと思っていたが、もしかしたら、話さないのではなく話すことがないのではないかと思い当たった。
突然手を取られたジャックは少し驚いて翔を見た。
「まだ、まだ人生は長いんだし、これからでも『初めて』を埋めていけるだろ? ほら、なんかお前、もっと普通の経験してなさそうだしな」
早口にまくし立てると、ジャックは思わずといった感じに吹き出した。
「なんで笑う……、」
「いや、翔ちゃん優しいわ」
まだ笑っているジャックの足を踏みつけると、彼は大袈裟に「痛い」と飛び上がってみせた。
「本音なのにひどくね?」
「馬鹿にするからだろ」
翔は年甲斐もなく両頬を膨らませたが、すぐにジャックに向き直った。
「なあ、どうだった? 初めての祭り」
彼の思い出の一ページに何か刻んであげられただろうか。
急く気持ちを抑えながら聞くと、ジャックはりんごあめをカリと囓った。
夏の熱気を含んだ風がさあっと吹いた。髪を揺らした風はすぐにまた止む。
「楽しかったよ、友達と来れたから」
祭囃子のそのあとで、彼は笑顔でそう言った。
サークル名:ばらいろ*すみれいろ(URL)
執筆者名:かやの一言アピール
その時の気分によって話のジャンルは変わりますが、主に現代が舞台。青春小説を書くのが好きです。短いお話を書き散らしながら。今回のお話は拙作「切り裂きジャックを待ちながら」の番外編になります。