ふながしのこと
氷輪が時折雲に隠れながら、ぼんやりと朧に浮かんでいる。透き通った水面は鏡のように月の輪郭を描き、ゆらゆらと揺れていた。
滝が勢いよく落ちゆく音がする。肌を撫でる風は冷気を帯びて、時折、葉擦れの音がざわざわと響く。人気はなく、虫が飽きることなく合唱を繰り返している。辺りには静かな喧噪が広がっていた。
白磁のように白く華奢な足が、勢いよく不安定な真白の円を踏み抜いた。
ばしゃり、ばしゃりと音を立てて、白い襦袢に身を包んだ少女が、滝つぼへと向かって歩いていく。黒く艶々した髪を頭の後ろでみずらに結わえた彼女は、鋭い目つきが怜悧な印象を受けさせる美しい少女だった。年は十代の半ば、花の盛りだろうか。闇の中で、黄金の双眸が猫のように爛々と輝いていた。
その手には、ひとつの小さな笹船。
白くとおったうなじと鎖骨に、豊満で柔らかそうな乳房、くびれた腰つき、すらりと細い足。薄い絹は肌に張り付き、身体のかたちをまざまざと見せつけるだけではなく、淡い肌の色までもを露出させてしまっている。
彼女は名を
彼女の家では、代々、先代が死んでから半月のあいだ「ふながしの
遠い遠い昔、この
しかし、時を経るにつれ、舟を作るだけの労力もなくなってしまった。
かつては村全体で行われていた舟流しの祭りは、今では小さな笹船を流すだけの祭事へと変わった。
「ふながし」の起源は、この「
ふながしは、当主が亡くなって最初の新月の晩から満月の晩になるまで毎夜執り行われる。一度限りであったこの祭事が、いつから二週にわたり執り行われるようになったのか、なぜそうなったかのはよく分からなかった。舟の粗末さを回数で補おうとしたのかもしれない、と彼女は考えている。
しかし、今の多紀にとってそんなことはどうでもよかった。
二週間前、多紀の姉が亡くなった。
父が亡くなり、その舟流しを終えた直後のことだという。この父の死後、傾いていた家は持ち直し、ひと月も経たないうちに盛り返し始めていた矢先のことだった。姉は当主であった父の長子で、すぐに当主の座につくと同時にふながしを始めた。
こういったことはままあるのだと、老獪は言っていた。
脳裏を過ったのは、伝承の宝を乗せた舟の話だ。
ふながしには、何かある。
多紀は、なんとなく、姉の死の真相を突き止めたくて、姉がどんな思いをしていたのかを知りたくて、ふながしの任についた。
生前の、日に日にやつれていく姉の顔を思いだす。何でもないと虚勢を張り続けた姉が、一度だけ妙なことを口にしたことがあった。
獣くさい、と。
多紀の家にペットはいなかったし、家畜もいなかった。飼ってはならないのだという。
滝つぼの中央まできた多紀は、周囲をぐるりと見まわした。
少し見上げるぐらいの高さの滝と、その周囲を囲む森。空には月。水面はきらきらと月の光を跳ね返し、紅葉した葉がゆらゆらと水の流れの停滞しているところを彷徨っている。水際には、入る前に三つの石を積み上げた小石の塔が五つ。辺りは清純な空気に包まれている。おかしなところは何もなかった。
多紀は辺りを警戒しながら、両手に乗せていた笹船をそっと水に浮かべた。
同じところをゆらゆらと漂っていた笹船は、やがて水の流れに乗って川下の方へ流れてゆく。川は森の中を通っていたため、ゆっくりと流れて行った舟は、やがて闇に呑まれて見えなくなった。
それを見届けてから、多紀は身体全体を水の中に沈めた。頭のてっぺんまで浸かり、全身が冷たい真水にさらされ、震えが走る。
ごぼごぼと水の中特有の音がする。両腕を抱きかかえた多紀は、何の気なしにゆっくりと目を開けた。
滝の底に見えたのは、光り輝く一対の赤。
多紀は慌てて浮上した。足元が、水底が無くなったような錯覚に襲われ、全身ががたがたと震えだした。
なんとか立ち上がると、ゆっくり、後ずさるように、滝から離れる。
なんだ、あれは。
なにか、いた。
かちかちと歯が鳴るのは、寒さのためか、はたまた恐怖からなのか、多紀には分からなかった。
やがて完全に水から抜け出した多紀は、家に向かって走り出そうとして――思いとどまる。震える腕で積み上げられた石の一つを手に取り、地面に転がす。これで一日目がおわり、一五個の石すべてを崩し終えた時がふながしの完遂の時である。
多紀は駆けだした。何歩か進んで立ち止まり、ちら、と後ろを見やる。辺りを見回してみても、静まり返ったままだ。不気味だった。何もいないのを確認してから、再び家へと走り出した。
その場に、何か、言いようのない違和感を覚えながら。
十日目にもなると、恐怖心よりも好奇心の方が勝るようになっていた。
日中、終始、ふとした瞬間に獣の匂いが鼻をかすめるようになった。
原因はなんとなくわかっている。
あそこにいる、何か。
そしてあれこそが、姉の死の原因。
ただ、突き止めようにも方法がなかった。恐怖心が薄れたはといっても、あちらが何もしてこないことが分かっているからであって、近づくのはまた別の話である。
もう一つだけ、変わったことがあった。水の中にいるのが、心地よくなったのである。出たくないような、名残惜しいような心地がして、昨晩も後ろ髪を引かれる思いで水から抜け出したのだ。
「――……」
多紀は全身から力を抜き去り、ぷかりと水に浮いていた。月がよく見えた。三日月の光は弱く、辺りは十日前に比べてひどく薄暗い。
時折、姉の顔が脳裏を過った。姉はどんな思いで死んだのだろう。なぜ、死んだのだろう。
そういえば、と多紀は思い起こして、気づいた。
自分は、姉の亡骸を目にしていない。
あのもの言いたげな赤い瞳は――姉なのではないだろうか?
十五日目。
最後の日がやって来た。
多紀は心に決めていた。今日が最後なのだから、あの赤い眼の正体を暴いてやろうと。
そうそうに最後の笹船を水に落として、見送る。そして、一気に水底へと潜る。
そこにはまだ、赤い光があった。恐怖を押し殺して、近づく。
すると、何もないはずの闇の中から、人の手が伸びてきた。
「!」
その手には、姉の、姉にしかない傷が刻まれていた――ように見えた。
ああ、やはり姉だったのか、と。何かが腑に落ちた気がして、多紀はその手を掴んだ。
つかまえた。
――そんな声が聞こえた気がした。
多紀の中に、何かの記憶が洪水のように流れ込んでくる。
遠い遠い昔。
貧しい家に、舟で流れ着いた青年が宿を求めてやって来た。家の者たちは、貧しいながらめいっぱい呪術師をもてなした。青年は感激し、その家の者にある術を教えた。
それは人ひとりを生贄にし、生き神として祀ることで、家に莫大な富をもたらすというものだった。ただし、その術を解くときは、一族が滅びる時でもあるという。
家の者は喜んだ。そしてあろうことか、その青年を生き神に据えた。青年は死ぬことのできない身となり、そのまま水底に沈められてしまった。
一家にとって術などどうでもよかった。彼の乗ってきた舟に、見たことのないような財宝が積んであったのである。証拠隠滅のため、舟はそのまま川に流してやり、そして口封じに青年を殺したのだ。
やがて貧しかった家は裕福な商家となったが、家の者の怪死が続いた。旅の行者に尋ねれば、滝の底で呪詛が渦巻いているという。家の者をある方法で生贄に捧げることで、それを封印することができる、と。参っていた家の主はそれに従った。
しかしそれは封印などではなかった。生き神を入れ替える方法だったのである。
術が本当であったと知った時には、もう遅かった。代々の当主は家が途絶えることに怯え、生き神を取り換え続けた。
残された呪詛には終わりがなく、のちにそちらは別の方法で一時的に封じられることとなる。しかし封印は当主が生きている間しか続かない。その間の不安的な期間は、舟に呪詛をうつし、流し続けることになった。
人はそれを「ふながし」と呼んだ。
ふと気づくと、目の前には生前の優しい姉の顔があった。いつもと変わらず、はかなげに微笑んでいる。
これは姉であって姉ではない。
――姉は、自分を身代わりに据えようなどとは思わないはずだから。
そこで、多紀の意識はぷつりと途切れた。
翌日、身元不明の死体が川の下流で見つかった。
頭は割れ、臓物がそっくりそのまま抜き出された状態で発見された。臓物は川の中に散らばり、引っかかり、あるいは流れて行ったようだった。
人は言った。クマにでも、獣にでも食われたのだろうと。
だがある家の者たちは口々に言った。
「
サークル名:朱に咲く(URL)
執筆者名:朱暁サトレ一言アピール
NL・BL・GL問わず恋愛ものを書き殴っています。ほのぼのからがっつりまで。ハッピーエンドもありますがメリバをよく書くのでご注意ください。かなしいお話が大好きです。