イル・カルネヴァーレ・ディ・ヴェネツィア

 謝肉祭カルネヴァーレ、すなわち「肉よカルネさらばヴァーレ」。復活祭パスクア前の四旬節、主の受難を悼む四十日の断食と物忌みに備え、人々は心ゆくまで肉を食らい、祭の歓楽に身をゆだねる。
 各地に名だたる祭はあれども、ここヴェネツィアのカルネヴァーレに勝るものがあろうか? この時ばかりは、誰もが誰にでもなれる。石膏や張り子の仮面で顔を隠し、突飛な仮装で素性を偽り、農夫が王様に、娼婦が女王様に、貴族が乞食になることだってあるだろう。
 ある年のカルネヴァーレの話をしよう。かつて地中海の覇者と言われたヴェネツィア海軍が、相次ぐ戦争に少しずつ力を失い、終わりが無いかに見えた栄光にも翳りが見え始めた、そんな時代の話だ。

「トルコ人の飛行」という催しをご存じだろうか? カルネヴァーレの最後の木曜、「肥沃な木曜日ジョヴェディ・グラッソ」に行われる最大の見世物だ。
 絶えず波の音が響くヴェネツィア。二月の澄み切った空を、突き刺すように高くそびえる、サン・マルコ広場の大鐘楼。その上から、なんと総督ドージェの宮殿の露台バルコーネまで、広場の上空を横切って長い長い綱が渡されている。
 派手な衣装の軽業師が、鐘楼の上に現れる。赤と黄色の布を上下左右に継ぎはぎした服が目立つので、広場から見上げてもよくわかる。軽業師は広場の観衆に手を振って、露台から見守る総督に敬礼すると、綱に通した輪っかに手をかけた。
 地上の人ごみの中で見守りながら、ペルシアの王子は固唾を呑み、傍らのエジプトの王女の肩に回した手に力を込めた。王女は、大丈夫だと言うように王子の手に触れた。――もちろん本物の王子と王女であるはずもなく、そういう仮装をしているのだ。
 輪っかにぶら下がった軽業師が鐘楼の欄干を蹴った!
 滑空する鳥のように一息に滑り降りる。人々が一斉に歓声を上げる。見る間に彼は宮殿の露台に降り立って、総督ドージェの拍手に迎えられた。サン・マルコ広場が喝采に包まれる。
 数十年前、やって来たトルコ人が披露して大評判となって以来、毎年、若い軽業師がこの曲芸に挑戦するのが習いだった。
 ペルシアの王子は夢中で拍手を送っている。石膏の仮面の下から、エジプトの王女は笑い声を漏らした。
「シニョール、まるで初めて御覧になるかのような興奮ぶり」
「こんなに良い場所から見るのは初めてさ。そういう君は何度も見たことあるって口ぶりだ、シニョリーナ」
「まあね、何度見たっていいものですよ」
 二人はこの広場でついさっき出会ったばかりで、今日一日行動を共にすることにしたのだった。仮装の雰囲気があまりにもぴったりなので、一緒にいたほうがずっと素敵に見えるから。それだけだ。
 互いの名前も素性も、もちろん何も知らない。――本当に?
 ペルシアの王子の仮面は顔の上半分だけを隠すもので、あらわな口元には左側にだけえくぼが浮かんでいる。王女はそれを無言で見つめ、高鳴る鼓動に気付かれないように胸を押さえる。
――まるで本物の王女様だよ、アントニーナ。これならどんな王子様だって、あんたに恋せずにいられない。
 ヴェネツィア一の高級娼婦コルティジャーナだったヴェロニカが、自分のお古の仮装衣装を着せ付けながら言ってくれた。その言葉を思い出し、勇気を振り絞る。今日一日だけは、自分はエジプトの王女様なのだ。

 ペルシアの王子とエジプトの王女は、祭の熱に沸き返るヴェネツィア中を笑い転げながら遊び回った。大運河にかかるリアルト橋の上から、行き交うゴンドラに向かって花を投げつけ、見世物小屋でインドから来た仔象を見物し、道端のリュートの演奏に耳を傾けつつ揚げ菓子をかじる。
 魚市場の近くでは人形芝居が繰り広げられていた。高い台座にしつらえられた箱状の舞台の中、人形たちはまるでそれ自体が意思を持つかのように生き生きと動いている。
――ああ、誰か王様のお傷を治せる者はいないのか!
――わたくしめにお任せを。この膏薬を用いれば、いかなる傷も立ちどころに癒えまする。
「大変! 行きましょう、シニョール!」
 エジプトの王女が小さく声を上げて、芝居に見入っている王子の袖を引いた。
「ここに居たら、あの変な膏薬を買わされてしまいますよ!」
 その言葉の終わらぬうちに、人形遣いは芝居に登場した「万能の膏薬」とやらを取り出し、ありがたい効能を説き始めたではないか。王子と王女は身を屈めて観衆の中をすり抜けると、手を繋いで走り出し、その場を後にした。
 その日の夕焼けは美しかった。たなびく雲に日が照り映えて、まるで空に薔薇が咲き乱れているかのように見えた。それを背にして影絵のように浮かび上がる、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の玉葱型の屋根。そこから、二人が並んで座っているスキアヴォーニ河岸まで、海の上を光の橋がずっと延びている。
 エジプトの王女は、丈のたっぷりしたパンタローネに包まれた足をぶらぶらさせていた。もうすぐ夢は終わる。このペルシアの王子とも、間もなく別れなくてはいけない……。
「まだ、帰りたくないな」
 傍らでぽつりと呟く声に、王女は顔を上げた。仮面の向こうに輝く褐色の瞳で、王子は王女をじっと見つめた。
「ねえシニョリーナ、君さえ良かったら、これから一緒にゴンドラに乗りたいんだけど」
 エジプトの王女は目を瞬かせる。カルネヴァーレの夜に二人きりでゴンドラに乗る。その意味するところはただ一つだ。
「本気でおっしゃっているのですか?」
「嫌かい?」
 王子は笑う。左の頬にだけえくぼを浮かべて。王子の手が、王女の肩を抱き寄せる。
「僕のことが嫌いかい?」
 王女は褐色の瞳を見つめたまま、ゆっくりとかぶりを振る。

 小さなゴンドラの真ん中には、黒い帳に覆われた小さな船室フェルツェがついている。これはつまり、そういう目的のためのものだ。
 せっかくだから少し景色を見ようと言って、ペルシアの王子は小窓の覆いを上げた。カルネヴァーレの夜のヴェネツィア。飲み騒ぐ人々の歓声があちこちから響いてくる。街の明かりが漆黒の水面にゆらめいて、二人を乗せた船は夢幻の中を進んでいくようだった。
 王子の方を窺いながら、エジプトの王女は溜息を押し殺す。今日、この人がここに来ることを知っていた。この人に会うために、カルネヴァーレに来たのだ。それが今、二人、こうしてゴンドラに乗っている……。
 総督ドージェの宮殿、ドゥカーレ宮の、レースのように繊細な壁の模様がほの白く浮かび上がっている。夜闇の中の宮殿は、昼間に軽業師が鳥のように舞い降りた時とはまた違った印象を受ける。
 ペルシアの王子は押し黙ったまま、しばらくそれを眺めていた。
「あそこに住んでいる女の子のことを知っているだろう? シニョリーナ」
 出し抜けに尋ねられて、エジプトの王女はどきりとする。ドゥカーレ宮に住む少女を知らぬ者などいない。総督ドージェの姪のことだ。
 幼い頃に両親を亡くし、伯父夫婦に育てられたジアネッタ・モロシーニ。外出することなど滅多になく、時々宮殿の窓から運河を見下ろす姿が目撃されるだけの、深窓の令嬢……。
復活祭パスクアのあと、パドヴァに嫁いでいくんだってね。この前、相手の男がヴェネツィアに来ていたろう?」
 仮面から覗く目を伏せながら、王子はつぶやく。そう、間もなくジアネッタは伯父の命令に従い、四十歳も年上の男と結婚するのだと、ヴェネツィアっ子たちの良い噂の種だった。
「優しそうな男に見えた。きっと年若い妻を可愛がり、彼女は幸せになれるだろう」
 王子は膝の上で拳を握ったまま、じっと視線を夜の水面に注いでいる。
「でも、淋しくなる……」
 切なげな口調で王子は言った。王女は胸を押さえながら顔を背けた。
「どうして、私にそんな話をなさるのです? シニョール」
「どうしてだろう……。君に聞いて欲しくてさ」
 風が冷たくなってきたからと、ペルシアの王子は小窓の覆いを下ろした。船室の中が闇に閉ざされる。
 王子の手が、エジプトの王女の二の腕に伸びる。こういう時でも仮面は外さないのがカルネヴァーレの約束事だ。
 身を固くした王女を引き寄せながら、その耳元で、王子はささやいた。
「シニョリーナ、君は……、本当は男の子なんだろう?」

 四旬節が過ぎ、復活祭パスクアが終わった。誰もがこの度の祝日の催し事の話で持ちきりで、カルネヴァーレのことなど既に遠い夢だった。
 大貴族チコーニャ家に代々仕える年若いゴンドリエーレは、黒い船体を布で磨いていた。総督ドージェ一家のゴンドラが、この佳き日に汚れていてはいけない。
「アントニオ、お見えだぞ」
「大丈夫です」
 家令の先触れに、ゴンドリエーレは強く頷く。
 長い褐色の髪に宝石をちりばめ、重たげな花嫁衣裳の裾を侍女に持ち上げられて、ジアネッタ・モロシーニが姿を現した。
 人々が口々に花嫁を祝福して花びらを投げかける。あのカルネヴァーレの日、リアルト橋の上から下を通るゴンドラに花を投げてふざけ合ったことを、若いゴンドリエーレは思い出していた。
 ゴンドラに乗り込む令嬢ジアネッタに、ゴンドリエーレは手を貸した。主人の晴れ着を濡らさないよう気をつけながら、侍女が続いて乗る。一族にゆかりのクロチフェリ礼拝堂まで彼女を送り届けることが、彼の今日の仕事だった。
 ゴンドラの船尾近くにすっくと立ち、ゴンドリエーレは細く長い櫂を操る。褐色の髪を結い上げたジアネッタの後ろ姿を見つめながら、彼は何も言わない。
 サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の玉葱型の屋根を遠く望みつつ、精緻な装飾が施された壮麗なドゥカーレ宮を後にし、大鐘楼の真下を行き過ぎ、リアルト橋の下をくぐって大運河を進む。その間、花嫁は一言も口をきかなかった。
 目的の場所に彼女を下ろす時、再び手を貸しながら、ゴンドリエーレはそっと告げる。
「お幸せに、シニョール」
 令嬢ジアネッタは褐色の瞳で彼をまっすぐに見つめ返すと、
「君も、元気で。シニョリーナ」
 そう言って、左の口元にえくぼを浮かべて笑った。


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サークル名:銅のケトル社(URL
執筆者名:並木 陽

一言アピール
今回新刊は無い予定ですが「えすたし庵」様の竜×人アンソロジー『心にいつも竜を』(通称ここドラ)に寄稿させて頂きました。尚、普段は主に西洋ものの歴史・時代小説を書いております。既刊は中世グルジアが舞台の『斜陽の国のルスダン』、7世紀のイギリスを描く『ノーサンブリア物語』他。よろしくお願いいたします。

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