二百十日
ちりん、と風鈴が鳴った。
夕暮れに向かう空の色は澄んだ青で、真夏の鮮やかさから秋の気配を帯びた深い色合いに変化していた。今日は夏の終わり、
けれど、町外れにある従姉が叔父と暮らすこの家までは祭りの喧騒は届かない。ざわざわと庭木の葉擦れの音が鳴り響くばかり。途切れることのない耳鳴りのようで、従姉を見舞いにきた
と、グラスと冷たいお茶の入ったポットと水菓子が載った盆を手に、従姉の
体を冷やさぬように肩にカーディガンをかけて、薫は不器用にお茶の準備をする史生の手元をぼんやりと眺めていた。史生が訪れるまで休んでいたのだろう、部屋着のゆったりとしたワンピースは薫の線の細さをさらに強調している。頬はほのかに赤いのに肌の色は血の気を感じさせぬ青白さだ。昨日、薫が熱を出したと医師である父が言っていたけれど、この様子だとまだ熱は下がりきっていないのだろう。
「……、大丈夫、」
グラスを薫の前に置きながら、ぼそり、と史生はそう言った。
問いかけと確認の間のような、中途半端な自分の声の調子にため息が零れ落ちそうになる。心配を、まっすぐに伝えることができない不器用さと変な自意識が忌々しい。これが例えば、薫と共にこの家で暮らしている叔父ならばもっと上手い言葉をかけられるのだろうか。自分の情けなさに表情が強張った史生に、大丈夫よ、と薫は安心させるように言った。
「大したことはない。いつものことよ」
夏はどうも苦手なのだ、と、どこか他人ごとのように薫は言った。その落ち着いた態度は史生よりもたった三つだけ年上とは思えない。薫の大人びた
薫は生まれつき体が弱い。まだ短いその人生をほとんどベッドの上で過ごしてきたこの従姉が苦手でない季節なんてほとんどない。春や秋といった季節の変わり目は、気温の変動についていけず熱を出してばかりだった。夏の暑さや冬の寒さは脆弱な薫の体から力を削っていく。
史生が知る限り、薫はほとんどこの屋敷から出たことはない。
ちりん、と風鈴が鳴った。
夏の終わりの、秋の気配を帯びた澄んだ風が部屋に吹き込む。ふわりと窓辺でカーテンが揺れる。風に乗って、遠くから祭囃子が聞こえてくる。
「いい風。風鎮めをしてしまうのがもったいないくらい」
そう独り言のように呟いて、薫は気持ちよさげに目を細めた。熱で
「寒くない? 窓、閉めようか」
「ええ。……でも気持ちいからもう少しこのままで」
ちりん、と吹く風に、風鈴がまた鳴る。薫の髪をゆるく結っていた紐がほどけて、さらさらと、癖のない長い髪が風に乱れる。
薫の青白い肌に黒髪が青い影を落とす。まるで
この強い風が、薫をどこかへ連れて行ってしまいそうな。
「
思わず、史生の口から薫の名がついて出た。理由もなく名を呼んできた史生に、どうしたの、と乱れた髪を抑えながら従姉は顔を上げた。きょとん、と目を丸くしてこちらを見つめてくる薫は、自分よりも年上の少女とは思えない無垢さだ。
かおるねえさんの、そのしろさをかぜのかみさまがほしがっても、おかしくない。
薫が連れていかれないよう、ここにとどめなくては。よくわからない焦燥感を史生が覚えた時だった。
ちりん、と風鈴がまた一つ、鳴った。
「あまり風に当たりすぎると体に良くない」
低い、弦楽器のような声が何かを押し留めるように響いた。穏やかなくせに有無を言わせぬ圧を持つその声に、はたと史生はその声が響いてきたほうを振り返った。
窓の外、庭に面した露台に背の高い男の姿があった。
「おじさん」
心なしか浮き立った薫の声が相手のことを呼ぶ。この家の主であり、従姉の養い親である叔父が帰ってきたのだ。
「ただいま」
「お帰りなさい。なんで庭に回ってきたの、」
「門のところに
露台からそのまま部屋の中に入ってきた叔父は、薫と言葉を交わしながらそのまま窓を閉めた。何かに触れたのだろう、ちりん、と風鈴が鳴る。
「まだ日が暮れ切らないとはいえ、そろそろ明かりをつけたほうがいいんじゃないかな」
気が付けは部屋の中はもうずいぶん薄暗い。自分の気の利かなさに、なんとなしの罪悪感を覚えながら史生は立ち上がった。
勝手知った他人の家で、史生は引き出しから
「まだ顔色が良くないな」
「うす暗いからよ」
そう言ってはぐらかすように笑む従姉に、叔父は困ったように息を吐いた。
「薫は強情だ」
そう言って、叔父は手にしていた紙袋を渡した。
「桃を買ってきたよ。好きだろう?」
「もう、桃の季節は終わりじゃない?」
「今頃が旬の品種らしい」
一緒に暮らしている者同士の気安い様子で、叔父と従姉は言葉を交わす。さっきまで薫と喋っていたのは自分なのに、と史生は思わずにはいられない。もう帰ろう、と史生が暇を告げるよりも先に、叔父が声をかけてきた。
「
そう言って、叔父はもう一方の手に提げていた袋を掲げる。かさかさとビニルの触れ合う音が響くとともに、屋台の食べ物特有の食欲を刺激するにおいが広がった。
「旨そうなものを適当に、あと、史が何か持ってきてくれてるんじゃないかと思ってさ」
「ご名答。おば様の押し寿司を持ってきてくれたのよ」
ね、と薫に話を振られて、うん、と史生はどこかぎこちない調子で頷いた。先ほど感じてしまった子供じみた独占欲が少し恥ずかしい。明らかに顔に出ているだろう史生のバツの悪さを、けれど、叔父は気付かないふりをしてくれた。
「着替えたら簡単に吸い物でも作るよ。桃は冷やして食後だな」
「俺も手伝う」
そう史生は申し出た。けれど、そんな史生を押しとどめるように叔父は首を振った。
「用意できたら呼ぶから、お前は薫の相手をしてやってくれ。」
「う、ん」
叔父が外出着から部屋着に着替える間に自分が用意すればすぐに食事にできるのに、と腑に落ちない表情の史生に、叔父は
「薫が窓を開けてしまわないように見ていてくれ」
それはどういう意味なのか。そう史生が問う前に、叔父は背を向けて部屋から出て行ってしまった。
がたがた、と強い風が占めた窓ガラスを大きく鳴らす。がたがた、がたがた、と窓を強く叩くようなその音に、先ほどの叔父の言葉が重なり、史生はぞっとしたものを感じた。なんだか不穏なものをはらんでいる。こんな、いまにも窓が割れそうな強い風の音が吹いているのに、薫は怖くないのか。ちらりと史生が薫の様子を横目で窺うと、従姉は史生の恐れなどまったく気が付いていない様子で、ぼんやりと強風に揺さぶられた窓の外を眺めていた。
窓ガラスに映った薫の
「薫姉さん、」
こらえきれず、史生は薫の名を呼んだ。先ほどのように、思わずといった衝動ではなく。明らかな意思を持って。ここに繋ぎとめておくために史生は従姉の名を、また、呼ぶ
「ねえさん」
「なあに、
「なんでもないよ」
「変な子ねえ」
くすくすと、くすぐったそうに笑う薫に、史生も不安を押し隠して、屈託なく笑みを返した。
ふと、床に落ちたままだった髪結いの紐に気が付き、史生は拾い上げた。それを手渡すと、ああ、と薫は自分の髪が解けていることにようやく気が付いたようだった。
「ありがとう」
そう言って薫はゆるく髪を編んで紐で結った。髪を
がたがたと、強い風がまた窓を鳴らす。薫の姿を隠すように、史生は立ち上がってカーテンをしっかりと閉めた。
遠くで行われている祭りの音が、風に乗って聞こえてくる。
二百十日のお祭りは、風鎮めの祭り。強すぎる風を
窓を閉めたはずなのに、ちりん、と風鈴が音を立てて揺れた。
サークル名:白玉(URL)
執筆者名:sunny_m一言アピール
オリジナル・二次創作をしています。二次は主にボーカロイドと、その時にはまった作品。
少しふしぎな話が好きです。よくある日常の話も。
マイペースに、妄想して文字書きしてます。