遊泳人ドレンとアレン
深海 夜 空気くらげ
ぽこぽこと 泡がもれる音 それがすべて
ぼくは長く目を開けていられない
海の水は しょっぱすぎるから
ずっとじっと この部屋の隅で
かくれて過ごすしかないんだと思っていた 九歳だった
「なぁドレン、マスク借りるぜ」
勝手に空気くらげを外される。あれだ、アレンの仕業だ。
ほんのちょっとだけ、瞼を開ける。よどんだ青に、彼の赤髪はよく映える。手を伸ばした。
「ちょっと、息だめ終わってないのに」
普通の遊泳人ならとっくに寝ている時刻だ。遊泳人は海を集団で泳いで、海流から新鮮な空気を取りこみつつ眠る。普通の遊泳人ならね。
でも、ぼくは違う。ぼくの瞼は昔から開けていられない。ものが見づらくて、とても泳げない。外にも出られない。だから夜は、くらげマスクで酸素を補給しなくちゃいけない。
「返してよ」
「ちょっとくらい分けてくれたっていいだろ」
アレンはぼくと違ってものが見えるし、普通に泳げる。なのに、毎晩のようにぼくの元へやってきては、ぐずぐずしている。しまいには酸素をもらっていく変な奴だ。
「皆と一緒に寝に行けばいいのに」
「友を一人残して泳ぎにいくほど、オレはひどい奴じゃないってことさ」
苦情を言っても、いつもはぐらかされてしまう。
空気をわけあって、他愛のないおしゃべりをして、アレンと眠りにつく。それが、ぼくの日課になっていた。アレンはいじわるなときもあるけれど、見える世界のことを教えてくれる。なんだかんだ言って、一番ぼくの近くにいてくれる、友達だったんだ。
ある日のこと、お医者様に呼び出された。
「君も大きくなった。どうだ、海上へ行ってみないか。陸の民が治療法を知っているかもしれない」
断る選択肢は無かった。説明を受ける。陸の薬を調達するおじさん、カイトさんがぼくを連れていってくれるんだって。でもさ、病院から出たこともないぼくが、いきなり海の外へなんて、大丈夫かな。“陸の民”ってどんな人達だろう。
その夜、アレンに不安を打ち明ければ、笑われちゃった。
「たまげた話だな。食べられる前に帰ってこいよ」
「いやだな! 相手はサメとかじゃなくて、人間なんだよ」
「冗談だよ、冗談。目、見えるようになればいいな」
寄りそって頭をなでてくれるアレン。その温もりに、怒りも不安も消えてしまう。
わかっていた。大口をたたいているけど、彼の指は震えているもの。アレンもまた寂しいのだと感じとっていた。
朝早く起こされたとき、そこにアレンは居なかった。
カイトさんとはぐれないよう、ベルトで身体をつなぎとめて、出発する。
覚えているのは、そう。海の重たさだ。息もできないくらい、すさまじい水流。こんなに泳ぐのが大変だなんて聞いていない。苦しいと言いたいけど、言葉がでない。
あの部屋へ、アレンの元へ今すぐにでも帰りたい。あまりの辛さに、涙目だった。でも、少しずつ、周りが明るく、身が軽くなっていくのを感じていた。
突然、海の温もりが消える。
驚いて、瞼を開けてしまう。まぶしい、でも色がある。あおいろ。さわやかに澄んだ青と、たゆたう深い青。その境目まで鮮明に、ぼくの目はとらえていた。
しかも、ずっと瞼を開けていられる。痛くない!
「どうだ、これが海上、空の世界だ。息もしやすいだろ」
はっとして隣を見る。今ならわかる。ちりちり頭に、もさもさ胸毛のおじさん、それがカイトさんなのだと。
「あれっ、お前さん……」
胸いっぱいに空気を吸いこみ、心から叫んでいた。
「見える! ぼく、世界が見ることができるんだ!」
それからは、歓喜の日々だった。たどり着いた人魚島は、商売の島。海に浮かぶあれは、帆船という乗り物で、砂辺には雑多な品々が並ぶ。満足に目を開けていられるだけでもすごいのに、目に入るもの全てが珍しく、素晴らしい。テンションが上がりすぎて気がおかしくなりそう!
陸の民は、鱗がなくて服を着ていて、しかも足が二本もあって、歩く人々だった。初めこそ不思議に思ったけれど、違いをあげ出してもきりがないからやめた。同じ人間だと思うようにした。ただ、大人が集う島に、子どものぼくが来たものだから、それで驚かれたくらいだ。「迷子か?」と何度聞かれただろう。その度にカイトさんが説明してくれて助かった。
日が沈み夜になっても、人魚島の賑わいは終わらない。陸と海のごちそうに舌つづみをうち、飲んで歌って踊りまくる。ぼくは、お酒を飲めなかったけれど、とろとろのマンゴージュースをもらえたからご満悦だ。
満天の星空の下、ここは楽園かと思う。海の病院があまりに暗すぎたんだと今になって気づく。世界にはこんなに幸せに満ちた場所もあったんだ……。
三日目、陸の民は航海を続けるべく、人魚島を後にする。ぼくも、海へ帰らなければならない。また、見づらくて不自由なあの世界に戻らなきゃいけないのか。ずっと島にいられたらいいのに。生まれる場所を間違えたんじゃないかとさえ思えてきて、憂鬱だった。
波打ち際にたたずみ、海面を尾びれで蹴る。海水で痛くなるこの目も、目を痛めつけてくる海も、どっちも嫌いだ。じゃあぼくは、どうすればいいんだ。
陸の民は答えを知っていた。
肩をたたかれ、振り返る。日に焼けてがっしりした体つきの、白いジャンパーを羽織った爺さんが、笑顔でものを差し出した。
「これは……?」
「ゴーグルっていうんだ。これがあれば、目に海水がしみないぞ」
嘘だと思った。でも実際につけてみて、海にもぐってみれば、どうだろう! 海中でも、くっきりとした視野でいられるじゃないか。
「すごい! こんなの、あったんだ!」
ぼくは浮かれていたけど、駆けつけたカイトさんは慌てていた。ものを得るには、代価を払わなければいけないからね。でも、その爺さんは、お金を要求しなかったんだ。
「遊泳人にはいつも、お世話になっているからな。これはおじさんからのプレゼントだ。坊やが大きくなったら、サンヤー号のこと、よろしく頼んだぞ」
全身に衝撃が走った。自分は必要とされているのだという嬉しさに、ふるえた。
そうか、ぼくは大きくなったらサンヤー号を助けて、ゴーグルをもらった恩返しをするのか。新たに芽生えたその目標は、今まで味わってきた惨めさを打ち消せるくらいの輝きがあったんだ。
サンヤー号。ぼくの耳から離れない言葉。あのとき、サンヤー号の船長と交わした約束は、そのままぼくの生きる道になった。
夢、それは心を強くしてくれる薬。帰り道もまた、カイトさんに引っ張られて、海流にもまれていたけれども、怖く思わなくなっていたからね。
病院に戻れば、皆が喜んでくれた。ただ気になったのは、アレンがいないことだ。聞けば、裏庭に居るんじゃないかって。ぼくが海上へ行ってからというもの、食事の時も姿を見せなくなったと聞いて、驚いた。どうしたんだろう、急いで向かう。
裏庭は、海藻の群生がのびっぱなしだった。とても暗くて、不気味な場所。
「アレン……そこに居るの?」
呼びかけてみれば、肩の高さまである海藻が不自然にゆれた。アレンがいるって、直感でわかった。
「ぼくだよ。目が見えるようになったんだ!」
「そりゃよかったな」
やっぱり彼の声だ。頬がゆるむ。
「どうしてそんなところに? こっちへおいでよ」
「嫌だよ。放っておいてくれよ」
身体がこわばる。嘘だ、アレンに拒まれてしまうなんて。
アレンは続けざまに言葉を吐き捨てた。
「もう見えるお前なら、どことでも行けるだろ。どっか行けよ」
「どうして? あんなに、見えないぼくの友人でいてくれたのに、見えるようになったらぼくらは友達じゃないの? そんなの、おかしいよ!」
思いきって海藻をかきわけて、息をのんだ。
アレンが赤髪なのは知っていた。でも彼の足は、鱗の生えた足は縦に真っ二つに裂けていたんだ。
アレンはすぐ背をむけて、去ろうとする。でもぼくは、その手をつかんで叫んでいた。
「おねがい、行かないで。友達でいて!」
とまってくれたアレンに、すがりつく。
「足が二本あるのは、変なことじゃない。陸の民に会ったんだ、みんな二本足だったよ!」
「でも俺は、陸の民じゃない。普通の遊泳人にもなれない」
「ぼくだって、普通の遊泳人じゃない。でも、そんなの、関係ないよ」
アレンは困ったような表情をしている。彼をひきとめたい一心で話し続けた。
「人魚島、すごく楽しい場所だったんだよ! 泳げるようになったら、アレンも一緒に行こうよ。おいしいもの食べれるし、ぜったい歓迎してもらえるよ」
彼はぽつりつぶやく。
「まずは泳げるようになるところから、か」
「そうだよ。アレンがいないと、また頭をぶつけちゃうかも」
「……先は長いな」
「アレンと一緒に行けると思えば、ぼく、がんばれるよ」
ふっと笑みをこぼして、顔をあげる。やっと目があった。
「ったくよ、しかたない奴だなー。俺がいなきゃ何もできないのかよ」
「そういうこと!」
よかった、いつものアレンが帰ってきてくれた。嬉しさのあまり、抱きついちゃった。
「ただいま、アレン!」
「おかえり、ドレン」
あれから、十年が経つ。見えるようになってからの月日の方が長くなることを思うと、感慨深い。
悲しいことに、世界は荒んでいく一方だった。戦争に飢饉に、暴動に……。でも、ぼくの夢は消えなかったんだ。どんなに暗い時代にあっても、あのとき見た人魚島の楽園が、心に残っていたから。サンヤー号との約束が、ぼくを励ましてくれたから。
それに、ぼくは一人じゃなかった。
海から顔を出し、ぐるりと見渡す。
「たしか、この辺なんだけど」
「あれだよ、あれ!」
すっかり大人びたアレンが、先を指さしてくれる。
「どれ……って、あった!」
白い帆を張るあの船は、ぼくらが目指すべき場所、サンヤー号だ。託された思いを背負い、全速力で前へ、泳いでいった。
サークル名:ひとひら、さらり(URL)
執筆者名:新島みのる一言アピール
前作『精霊まつりと海の船(砂ノ書)』に続き、今回は海ノ書をつくりました。どちらも、Cis2『サンヤー号にのって』につながるお話です。Cis2は人生をのせた船のお物語で、思い入れが最も強い作品(Cis1がなくても読めます)。アレンとドレンも、本編のサンヤー号ではっちゃけていますので、ぜひどうぞ!