〈バミューダ〉の謎

※MIST OF WAR 二次創作


「……それって、別の世界の話でしょう」
 ほとんど中身が氷水になったグラスに手をかけたまま、男はすでに眠たげに目を細めていた。
 しどけなくカウンターに頬杖を突き、まだ辛うじてこちらに顔を向けている。こちらの話に口を挟んだというよりは、耳に入ってきた言葉に思ったことを漏らしてしまった、と言った風だった。
 ロックバイツは言葉を止めて、軽く頷く。
「ああ、今水を淹れるよ。珍しいね」
「温かい飲み物をお願い、マスター。けど、あなただって少し飲みすぎたんじゃないの」
 汗のかいたグラスから指先を離して、男は首を傾げてみせた。薄暗い店内でも、眠たげな眼差しででも、黄緑がかった金の目は乏しい明かりを取り込んで鋭く煌いている。
「そういう蘊蓄を話したがる時って、そうよ、あなた……」
「でも、これは本当のことだし、霧の向こうの話とも言い切れないよ」
 エイビィ、とだけ名乗るこの男について、ロックバイツが知っていることはそう多くはない。
 数ヵ月ほど前からこのバーに訪れるようになった、比較的新しい客だ。白皙の二メートル近い長身で、ハイドラライダーらしい鍛えられた体躯に、青紫と白の二色で髪を染め分けている。とにかく見た目の派手な男で、そのしなを作ったような振る舞いもあって、強烈な印象を受けた。
 その印象の割には――と言うのも正しい表現ではないが――それほど酒には強くなく、いつもは飲む量も多くはないのだが、今日は珍しく酔っている。
 何でも、いいことがあったという話だったから、店を閉めて二人で飲んでいたのだ。ロックバイツ自身、確かに常より酔っていたし、彼にもずいぶん酒を勧めたような記憶がある。ただ、その『いいこと』が何だったのかは、いまだ聞き出せていなかった。
「確かに、この世界は霧を通じてほかの世界と繋がっているけれど、それ以前に前時代の遺跡や遺物もごろごろ転がっている」
 ティーバッグを入れたポットに湯を注ぎながら、ロックバイツは言葉を続ける。
「いま君にお出ししているそれだって、本当は海の魚のはずだ。それが、霧の向こうから伝わって来たものを再現しているだけとは言い切れないぜ。もちろん、これは工場で培養されたものだけどね」
「食欲のなくなるようなことを言ってくれるのね」
 白い小皿に乗せられたオイルサーディンを一瞥し、エイビィは気だるげに言って目を伏せた。君の会社の製品だよ、とロックバイツは言い添えて、首を竦めてみせる。
 ――かつて、この世界がどのような形をし、そこで人々がどう暮らしていたのか、今では想像を巡らせることしかできない。
 残像領域、と呼ばれる、常に霧で満ちたこの世界において、遺跡や遺産を調査研究する権利を握っているのは企業や軍閥であって、かれらの持っている情報は歴史好きの好事家や学者のところまではほとんど降りてこないのが現状だ。
 遺跡要塞を巡って近いうちに戦争が起こるという話さえあるのだから、とにかくその多くは伏せられ覆い隠されて、慎重に取り扱われている。生者をより永らえさせ、死者をまだ生きている人間の中へ蘇らせる方法すらあるというから、秘密にしておこうとするのも理解はできるのだが。
 目の前のこの派手な男とて、企業に所属するハイドラライダーだ。その隠匿に加担しているのだが、今は彼に恨み言を言うつもりはなかった。
「霧を通して別の世界と繋がっていることで、僕たちはこの世界には本来ないもののことをいくつも知っている。でも、ほかの世界のものとされていることの中には、残像領域にかつて存在していたものだってあるんじゃないかって考えてるんだ。海も、その中のひとつだよ。
 ただ、海がこの世界にかつてあったというのは元々言われていることだ。知らなかったかい?」
 紅茶の入ったカップを、カウンターの上に置く。そのひそやかな音の鳴るとともに、エイビィは顔を上げて手を伸ばした。
「……誰も辿りつけない《海》の話。どこかで聞いたことはあったかしらね」
「残像領域にあった海と、霧の向こうの海が同じものかは分からない。でも、あったのは確かだ。僕たちは、かつてこの世界にあったものを何とかコピーして、こうして口に運んでいる……」
 実際、このティーバッグに使われている茶葉は、ある程度〈除湿〉されたハウスで栽培されたものという触れ込みだが、そうではないものも巷には溢れている。
 残像領域の住人たちは、生まれた時から深い霧に鎖されて暮らしているにもかかわらず、ほかの世界と繋がっていることで、あるいはかつてこの世界自体が違う形をしていたことで、『もし』という形で霧のない世界の話を繰り返さずにはいられない。また、この残像領域にいながら、まるで別の世界から見つめているような言い方をすることもある。
「あたしが考えているのは、今ここにあるもののことだわ」
 もっとも、そうしたことについてこの男はまるで興味がないらしい。にべもなく言って、カップに口をつける。
「マスター、あなたっていつもそう言うことに考えを巡らせているの?」
「君だって、いつもはもう少し付き合ってくれるよ、エイビィ」
「そうだったかしら」
 一口ふたくち紅茶を口にしても、エイビィのとろんとした目にはそれほど変化が見られなかった。ロックバイツは自分のぶんの紅茶を飲みながら、今にも舟を漕ぎだしそうな男を見やる。
「寝不足かな。最近は出撃続きかい?」
「それもあるけど――ほら。最初に言ったじゃない」
「いいこと?」
「ええ……この前、同僚が死んでね。いえ、それは『いいこと』ではないのだけれど。でも、そのおかげで――」
「もしかして、わくわくして眠れないって言うのかい、君が?」
 問うた途端、エイビィの顔に笑みが広がった。ひそやかに含み笑いを漏らし、さざ波の立つカップへ目を向ける。
「欲しかったものが手に入りそうなの。はしゃいでしまうぐらい素敵なものがね」
「秘密かい?」
「あなたに話すと、いつの間にかみんなが知っているから」
「君もその恩恵にあずかることがあるじゃないか」
「たまにはね。もちろん、あなたに内緒事を話す気にはそうそうなれない。
 あたしがハイドラに乗るのが仕事のように、あなたは噂話をするのが本職なんでしょうけれどね」
 髪をかき上げて、エイビィは大げさにため息をついてみせた。
「でも、きっとすぐに分かるわよ。それまで楽しみにしてちょうだい。
 ……そうだ。海の話をしましょうか」
 思い出したように顔を上げたエイビィの口元には、再び笑みが浮かんでいる。その『いいこと』というのはよほどのことらしい。先ほどまでぼんやりとしていた声は、にわかに弾んでいた。
「何か面白い話でも?」
「ええ。マスター、あなたって、『バミューダ』って聞いたことがある?」
「いいや、どこかの遺跡の名前かい?」
「死んだ同僚がね、仕事の時に言っていたの。『バミューダの謎を解いて帰ろう』って。
 あたしも何のことだか分からなかったけれど、あとで人に聞いてみたらね。それが海のことだったのよ」
「霧の向こうの『海』かい?」
 エイビィは頷くと、両手で三角形を作って見せた。指でかたどられた小窓の向こうに、酒気で紅潮した白い顔が収められる。
「どこかの世界の海には、バミューダ・トライアングルと呼ばれる海があって……そこでは航空機や艦が、乗務員だけが忽然と消えた状態で見つかることがあるんですって」
「なるほどね。でもそれって……」
「そうねえ、この辺りではありふれた話だわ」
 残像領域においては、不可思議な現象こそが溢れかえっていて、住人たちはそれらを利用することさえある。
 エイビィのようなハイドラライダーはその典型だ。彼らが駆る機動兵器、ウォーハイドラには、意図的に霊障を起こすシステムさえ積まれていることがあるし、兵器の成り立ちや仕組みそれ自体にも解明されていない謎が詰め込まれている。
 ――人が消えるというのは、中でも本当によくあることだ。ただしその原因は、霊障ばかりとは限らないのだが。
「彼がどこでそんな言葉を知ったのかは知らない。でも、この前の仕事はちょうどそれとよく似た話で――彼は死んでしまったけれど、あたしはその謎を解いた」
「宝物を手に入れた?」
「そう」
 手を下ろし、エイビィは上機嫌で残った紅茶を飲み下す。どうしても、核心を伝えるつもりはないようだった。茶を淹れる前に話を振るべきだったかも知れない、とちらりと思いながら、ロックバイツはエイビィへ向けて手を差し出す。
「それはおめでとう。お祝いにもう少しだけ飲んでいくかい、トレジャーハンターくん」
「ふふふ」
 こちらの考えを知ってか知らずか、エイビィは笑声を漏らして、ゆるゆると首を横に振った。カップを置いて、空いたスツールに置いていた上着を手に取る。
「ありがとう、でもいい時間だし、今日は帰るわ。今度来る時は――」
「宝物を自慢しに来てくれる?」
「……ええ、きっとね」
 そう笑っていた男は、その日を境にぱったりと店に来なくなった。
 彼が遺跡で見つけた少女を引き取った、ということを聞いたのは、それから少し経ってからのことだ。
 なるほど子供を連れていては、この店からは自然と足が遠のくかも知れない。ただし、『いいこと』というのがその少女であるのは明らかだったが、それが何故なのかはまでは見当がつかなかった。
 ロックバイツの目の前には今、一通のメールがある。その文面を改めて目で追い、口の端を緩めた。
 どうやら自分にも、〈バミューダの謎〉を解く機会が与えられたのかも知れない。ただそれは、人を行方知れずにさせる魔の海域ではなく、もっと小さくささやかな――


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サークル名:イヌノフグリ(URL
執筆者名:ω

一言アピール
霧戦争日記WEB再録本『アルファベットの境界線』、下巻が出る予定です。他に探偵バラバラ本・探偵串刺し本も持っていきます。サークル『イヌノフグリ』は、若い男を苦しめます(品質保証)

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