りゅうぐうの手

 その妓楼は、霧深き山奥にあってなお、誰からともなく竜宮りゅうぐうと呼び習わされている。

 妙齢の女主人が『おと』、遣手やりて女衒ぜげんを兼ねる老婆が『かめ』という名から来たものか、くるわの名にあやかって二人がそう名乗るようになったのかは知れぬ。
 昭和の時代に建てられた旅館に手を入れた十二の部屋で毎夜男をもてなしている。
 客の相手をするのは人の形をした遊女ではない。
 海星ひとでである。
 物言わぬ海の生き物を身体の各所に当てては、快感に打ち震え精を放つ。そういう嗜好の持ち主のみが、ひっそりとこの廓を訪れる。金に余裕のあるお大尽だいじんともなれば、座敷に何匹も海星を呼びつけ、連泊していく。気に入れば身請けして連れ帰ることも可能だ。常人には理解できない額の紙幣が動くが、それは特殊趣味のどの世界にも言えることである。
 ここで働く海星は、漁師の網にかかったものや海女によって獲られた中から、亀が見極めて連れてくる。また、長く商売を続けるうちに廓で生まれるものも出てきた。赤や青、斑や突起、色も形も様々な海星がここに集まり、遊び人にあてがわれる。
 一夜の伴をすることを『手当てあて』と呼ぶのは、海星の形を人の手になぞらえて、それを顔、うなじ、乳首、鳩尾、性器、手足の指、尻の穴……ありとあらゆるところに押し当てては、何度でも絶頂を味わうからだと、説明されずとも客の誰もがわかっている。海星は人の言葉を話す声帯は持たないが、言われたことは理解できる。絡めと言われれば絡み、吸えと言われれば吸う。
 海星の性質によって、やはり床上手はいるもので『真珠星しんじゅほし』『布良星めらぼし』は、竜宮の二大お職太夫として贔屓の客が多く付いている。裏面の襞がなんとも官能的に散らばり、ここぞという場所に達するといじらしいように強弱をつけて動くのだとか。
 穂垂れ星、桐野星、矢来星、鼓星……空に光る星の名を皮肉のように与えられて、この店に来て三か月になる『糸かけ星』も、まどろみながら夜を待っている。
 豪奢な金魚鉢を寝床とするのは、指名料の高い美しく巧みな花魁ばかりで、糸かけのような新参女郎たちは大きな水槽に芋のように入れられる。
 よく隣になる蟹目かにめという海星は、おしゃべりで情報通である。おとなしい糸かけを心配してか先輩風を吹かせつつ、今までに述べたような廓内のことを細かに教えてくれる。
「身体は、まだなんともない?」
「あい」
「いくら優しく扱われても、人間の身体はしょせん異物。水の外で触られれば、どうしたって弱るからね」
 連夜、乱暴にもてあそばれた傷が癒えぬうちに次の客を取れば、むき出しの細胞が死に至り、触手が取れてしまうこともある。菌に侵され軟化してしまうと、評判は落ちて二度と床には上がれない。遊女が若くして体を壊すのは、世の習いである。
「でも、真珠姐さんや布良姐さんは、どうしてずっと平気なのでしょう」
 のびやかで光沢のある白地がいつまでも色褪せない真珠、引き締まった青地に赤い華を散らしたような布良、二人ともお大尽に呼ばれない夜はないが、翳りは見えない。
「噂があるんだよ」
 蟹目はもったいぶって言った。
「この竜宮を訪れる客の中に『光の手』を持つ者がいるそうだ」
「ひかりのて?」
「その手に触れられれば、海星は皆まるで生まれたての様な瑞々しくしなやかな体に戻るんだと。どんなにぼろぼろになっても、その手に触れてもらえさえすれば」
「その客の名前は?」
「さあ、それがわからない。名立たる企業の会長だとか、小遣いをやりくりして遠方から来るサラリーマンだとか、まだ青い学生だっていう話もある。だから噂なのさ」
「蟹目姐さんは、その手に」
「あたしみたいな部屋も許されない格下女郎がお目にかかれるわけないだろ」
 だからこんなに傷んじまったよと、荒れて毛羽立った表皮を揺らしながら蟹目は自嘲的に笑った。
「糸かけは、会えるといいね。今日はひとりでの『初手当』だろ」
「あい」
 砂利を少し掻いて、糸かけは浅い眠りに就いた。

「もうこのまま朝になっても目が覚めずに、いっそ死ねればいいのに」
 白濁を放った男は、うつろな目でそう呟いた。
 会社での地位が高くとも、妻子があっても、そうやって嘆く人間が多いのだと糸かけは経験で知った。誰にも打ち明けられない秘め事を、返答がないのをかまわずに夜通し語る男もいる。たかが海星に、されど海星だから。
 幾夜が過ぎたのかわからないが、蟹目はもう死んでしまった。『光の手』に巡り合うことなく癒されずに意識を失った身体は、いつのまにか水槽から片付けられていた。真珠星は美しい輝きのまま身請けされ、布良星は払いはいいが猟奇的な狂客に二度とは座敷に上がれぬ姿にされた。
 『光の手』は、希望なのだと今なら分かる。
 たとえ実在しなくても、春をひさぐ海星が自分の境遇に絶望しないため、ひいては務めを放棄しないための。海星の誰かが夢を見たものか、はたまた乙の作り話かもしれない。もしかしたら次は、きっといつかはと期待して座敷に上がる海星たち。人間の遊女と違い、自らに金が入るわけでもなければ、年季があけたからと海に返されることもない。
「哀しいなあ、糸かけ星」
 枠は螺鈿細工、ギヤマンに囲まれた金魚鉢を与えられて太夫の仲間入りをした糸かけは、珊瑚色の触手を静かに蠢かす。
「おまえは綺麗で優しいが、俺は哀しいよ。どうしようもないよ」
 小刻みな震動で男が泣いているのがわかった。
「どうしたらこの苦しみから逃れられるんだろうなあ。やはり死ぬしかないんだろうか」
 でも、男はきっと死なないと糸かけは思う。我慢して、爆発して、泣き叫んで、八つ当たりして、酒をかっくらって、悶々として、またここで泣くことになるだろうと想像がつく。
 時折身体を伸ばす。人間の手であれば指と呼ばれる部分を精一杯。掴めるものは何もなく、『光の手』は拾い上げてくれない。
ぐずり疲れた男が幼子のように寝入ると、亀が音もなく襖を開け、糸かけを回収した。洗浄液に漬けながら、明日は新しい客だ、しっかりおやりと諭す。もしかしたら今度こそ『光の手』の持ち主かもしれないと一瞬だけ考える。それは癖の様なものだ。きっと違うだろう。
 戻された鉢の水はしゅんと冷たくて、糸かけは身をよじった。


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サークル名:三日月パンと星降るふくろう(URL
執筆者名:雲形 ひじき

一言アピール
ペロリストを名乗り、日本酒を舐めて浮かんだストーリーを本にしています。この話は頒布予定の『二九六銀座』シリーズより、コールガールの寝物語を抜粋しました。

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