シュメルツの女と海

 夏のシーズンはとうに過ぎ、冬の淡い青空の下に海が広がっていた。日差しは柔らかく、波はきらめいている。親子連れが波打ち際で、押し寄せる波と戯れていた。
「潮臭いなぁ」
 感嘆が隣から漏れた。恋人の佐久馬のつぶやきだ。
私は静かに頷いた。それから自分の髪をなでる。
「きっと夜には、髪の毛ごわごわになってそう」
「きしむよなぁ」
「きしむねぇ」
「でも、千鶴いい顔をしてるね」
 髪の毛を心配する口調の割に、私は確かに笑っていた。
 佐久馬の二の腕を肩で小突く。
「だって、すごく穏やかで綺麗じゃない……落ち着くよ」
 佐久馬も肩で私の肩を小突く。
「千鶴、仕事を辞めてから体調悪そうだったからなぁ」
「うん……仕事でごたごたしたから」
「ストレスでもたまってたんじゃないか?」
 ふっと、仕事のことを思い出して私は唇を閉じた。
「うん……そうかもね」

 冬の海には店は何にもない。缶が転がる砂浜。子供の笑い声がよく響く。沈む砂上を二人で散歩する。事前にペットボトルを買っていた。ボトルのお茶をすする。
 すっきりした味わいにほっと息をつく。少し緊張がほぐれた。
 これからのことを考えると、緊張を覚えないわけがない。佐久馬は何も分かっていないように笑っている。いつの間にか手をつないでいた。
「なんで手をつなぐの?」
「なんとなく?」
「そっかぁ」
 私はふふんと鼻で笑う。
「なんでそんなどや顔なの」
 呆れたような佐久間の声。
 私は佐久馬を覗き込むように見た。
「最初の頃は私が、手をつなごうとしてたでしょ。なんとなく」
 佐久馬は思い出したように頷く。
「そうだな、そうだった」
 私はにやにやと笑って、目をつむる。
「私の影響かな」
「そうかも?」
「そうだよ」
 横目で映っていた子供がいきなり走り出した。
 母親らしき女性が追いかける。
「こら、あぶないわよ」
 鈴が鳴るような笑い声を母親はあげていた。
「三年も付き合えば、少しは影響するよ」
 私はつながる手に力を入れた。

 砂浜には階段があった。外の駐車場とつながる階段だ。
 階段に私は座った。大丈夫かなと言ったら、佐久馬はあまり汚れを気にしないらしく。
「これくらい平気だよ」と言った。座る場所の砂を軽く払い、腰をかける。

 座っていると、海の音がよく聞こえる。風が伝えてくれるのだ。
冬の海の音は夏のようにギラギラしたところがない。夏の海は若い女のように元気だが、冬の海は胎内に子供がいる母親のようだ。
 私はぽつりと言った。
「海ってさ、すごいよね」
 佐久馬は飲み物を飲む手を止めた。
「でかいよな」
「うん、でかい」
 私は言葉を続けた。
「全ての命はここから生まれたんだよねぇ」
「ああ、そうだな」
 軽く頷く佐久馬の肩に、私は頭を寄せた。
「海はお母さんなんだね」
「お母さん?」
「うん、私たちは皆、海の子供なんだ」
「詩的だなぁ」
 喉を鳴らして佐久馬は笑う。それからボソリと……。
「この間の話、どう考えてる?」と聞いた。
 私は視線を感じ、佐久馬を見る。佐久馬は食い入るように私を見ている。
まいったな……当然だよねと思う。
「プロポーズのことだよね」
 佐久馬は私の肩を抱き寄せる。答えを聞くまで離さないという感じだ。
私はやれやれとため息をついた。
「佐久馬って、長男だよね」
「そうだよ」
「佐久馬のお母さん、家を継がせたがってるんだよね」
「そうだな……ぶっちゃけ弟でもいいと思うんだけど、母親が頑固でな」
「そりゃ、長男だからって言う人はいても当然だよ」
 私はまっすぐな声で言った。
「子供も欲しいよね」
「え?」
「さっきから、あそこの子供、見てるでしょ」
 砂浜にレジャーシートを敷いて、親子が海を見ている。海で遊ぶのに疲れて一休みというところだろう。
「何人欲しい?」
 佐久馬は困ったように笑った。
「色々考えないといけないしなぁ……具体的に何人とは言えないよ」
「そっか」
「でも、千鶴の子ならきっと……」
 そこまで言って照れくさそうに佐久馬は笑った。
 私は押し黙った。石が雨風に何も言わないようなくらいに押し黙った。
波の押し寄せる音、鳥の声も高く聞こえる。
「千鶴?」
 佐久馬は沈黙に耐えかねて聞いてきた。私はうわずった声で言った。
「どうして、私が会社を辞めたと思う?」
「ストレスじゃないのか」
「うん、ストレスだよ。あのねモラハラを受けてたの」
「モラハラ?」
 私は浅く頷いた。やばいと思った、下を向いたら涙腺が壊れてしまう。
「恋人がいるなら、子供は何人作った方が良いわよとか、子供がいると人生に深みが出るわよとか……そんなことを毎日言われ続けたの」
「え……」
 佐久間の表情が固まった。
「それは辛いな……」
「辛かったな」
「結婚が決まってないのに、子供のことをとやかく言うのはなぁ」
 佐久馬は呆れたようにつぶやく。
 私は頭をかぶり振る。駄目だった。海みたいな涙の味が口の中にしみる。
「千鶴……どうした」
 佐久馬は私が感情を止められない様子に戸惑っていた。私はハンカチで顔を拭う。
化粧が落ちてもしょうがないと思った。ひどく、醜い顔だ。
「私、子供が産めないの」
 佐久馬は目を見開いた。
「今飲んでる薬があってね、それが妊娠禁忌薬なの。飲まなきゃ妊娠は出来る……でも、飲まなければ私が生きるのがしんどくなる。ううん、何も出来なくなって生きられない」 唇がどうしようもなく震えた。
「あなたの子も、誰の子も、産めないの」
 甲高く興奮した子供の声が耳に刺さるように聞こえた。
 父親に抱っこされて興奮しているようだった。
「いいね、あの親子……うらやましいね」
 私は涙を拭って小さく笑った。
「私もお父さんに抱っこされたり、お母さんになでられたりするのが大好きだった」
 ハンカチをぎゅっと握りしめる。
「でも、出来ないんだよね」
「千鶴」
 佐久馬は私から手を離し、ぎゅっと抱きしめる。
「なんでそれを言ってくれなかったんだ」
「……言うって怖いじゃない。佐久馬、怖くて恥ずかしいんだよ」
 私は佐久馬の胸を軽く叩く。
「生理はあるのに、女の出来ることを放棄した……そう思われるかも知れないんだよ。怖いじゃない」
「それは……俺はそんなことは」
「うん、ありがとう……でも私、お母さん以外にほとんど相談できなかった」
 重く言葉を吐く。
「そういうもんなんだよ」
 佐久馬は言葉を失ったように唇を閉ざす。私も言葉を出せない。
産むも産まないも本人の自由だとしても、子供を産まないという選択肢に、疑問を浮かべる人間はいる。いい人の顔をつけて忠告するものもいる。でも、私の命と天秤にかけるということ知ると、きっと「かわいそうに」と見下すだろう。憐れみは自分より弱いと判断をつくものに、生み出されやすい感情だ。そう考えると私は、傷ものの女なのだろう。
 切れそうにない沈黙が続く。それを止めようと私は佐久馬の耳に囁いた。
「今が、チャンスだよ」
 佐久馬はきょとんと私のまなざしを受ける。一瞬私を抱く手が弱まった。私はするりと彼の腕から離れた。
「佐久馬、二十九歳でしょ。今からでも、別の女の人を探すことも出来るよ。もっと仕事は忙しくなるだろうし、早めに探した方が良い」
「何を……」
「佐久馬は子供が欲しいんでしょ。家を継ぐことになったら子供は望まれるよ。絶対」
 私は悲鳴をあげる心を抑えつけて言った。
「だったら、私じゃない人の方が、あなたは困らないよ!」
「ちづ……」
 私は佐久馬の言葉を遮った。
「お願い! 自分の未来をちゃんと考えてっ」
 私は佐久馬に背を向けてかけだした。砂に足をとられながら、走って行く。
どれくらい離れたか分からないけれど、疲れるまで走ると、イヤホンをつけたスマホを出した。音楽を高い音量で聴く。しゃがみこみ、目をつむる。
 嗚咽がこぼれ、呼吸は荒れた。私は何も考えられなかった。
 消えて欲しい。姿を見たらとても悲しくて、しんどくて、耐えられそうにない。ごめんなさい、子供を産みたかった。佐久馬の子供を産みたかった。家族が増えるという喜びを、責任を、感じてみたかった。でもそうしたら、私は何も出来なくなってしまうだろう。子供を育てるどころか、私自身の生活が保てなくなる。
 プロポーズされた土壇場でこんなことを言うなんてずるい。ちゃんと言っていればこんな風に突き放すことはしないですんだのに。でも自分がこんな体であることも、薬がなければ生活できないことも、大事なことは何も言えなかった。
 好きなのに、愛しているのに。弱さをさらけだすことが出来なかった。
 渋い男性歌手の歌が、五度ループされた。私は聞き疲れて、立ち上がった。振り返った。 佐久間の姿はどこにもなかった。

 そういう男だったのか。失望と不思議な安堵が心に満ちた。これで心置きなく泣けるだろうと下を向いて、ハンカチをポケットから出す。

「お前、どんだけの勢いで走ってるんだよ」

 すると声が聞こえた。顔を上げると、佐久馬が厳しい顔で私を見ていた。

「さくっ」
「行くぞ」
 佐久馬は私の手を握った。
「どこへ……」
 私は焦点の合わない視線を向ける。
「そりゃ、君の家だ。ここまで車で来てるんだぞ……どうやって帰るつもりなんだよ」
 それはそうだ。私は視線をさまよわせる。
「じゃあ、家に帰ったらお別れを……」
「嫌だ」
「え」
「嫌だから」
 佐久馬は怒っていた。当然だろうと思った。だけど言葉が止められなかったのだ私は。「私と付き合っても、負担にしかならないよ」
「めっちゃ混乱してるけど。千鶴的にはそうなんだろうな」
「だったら……」
 佐久馬は私から手を離し、強く肩を抱いた。
「馬鹿か千鶴。それを言われて、うんと答えられるか。俺たち三年も付き合ってるんだぞ」「だけど産めないんだよ」
 まるで海の中にいるように苦しい話だ。息をしているはずなのに、窒息しそうだ。
 佐久馬は片手で頭をガシガシとかく。
「確かに俺は子供が欲しいと思ってた。でもだからといって……千鶴を、子供を産む何かだとは思ってない」
 佐久馬の頬が私の頬にぴたりとつく。佐久馬は語りかけるように囁いた。
「なあ、千鶴。俺は君のことが知りたいんだ。今まで話せなかったとしても、これからは知りたいんだよ」
 佐久馬は一瞬息を止めた。それからゆっくりと息を吐く。
 絞り出すような声で。
「俺は千鶴といたいんだ」と言った。
 私は呆然と佐久馬の言葉を聞いていた。
喜ばしい言葉のはずなのに、彼に強いるものがあることを、確かに感じていた。謝罪したい。でも謝罪してもいけない。佐久馬の言葉を汚すことになる。

 私は目の前に広がる海を見た。さざ波の音が、耳に流れ込み続けている。

 海という生命の母は、ただそこで子供たちを見つめていた。


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サークル名:雪国屋(URL
執筆者名:佐和島ゆら

一言アピール
シリアスな作品を中心に書いてます。創作に疲れると創作をするようなものです。
海をお題にしてわりと私らしい作品って何だろということで書いたら結構重くなってしました。
テキレボではふつつか者ですが、よろしくお願いします。

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