海色の泉

 ほんの数年前の話だ。村から少し離れた泉に、幽霊が出ると言われるようになったのは。幽霊。精霊のいるこの世界で、それとはまた別の曖昧な存在の名称。もっとも、クロードにとっては見えない存在は恐れる対象というよりは興味の対象だった。
 ようやく許可さえあれば一人で村の外に出ても怒鳴られることがなくなり、だが門限は早い。幼子以上大人未満。背伸びをしたい少年という窮屈な立ち位置に差しかかったクロードは、きょろきょろと家屋の陰から人影を伺う。
 その日暮らしの狩猟と僅かながらの農業。自給自足に近いクロードの住む村は、穏やかな空気に包まれている。その村の中でひっそりと囁かれる噂話の真偽くらい、自分の目で確かめてみたかったのだ。
 狩猟犬を連れ、弓矢を担いで出て行った狩猟を生業とする顔見知りの村人の背を見送り、クロードも村の外へと駆けだす。
 村を離れるときは誰かに一言告げてから、と口酸っぱく躾けられている。だが、よもや「幽霊が本当にいるか確認しに行く」と両親なり近所に告げれば鼻で笑われてしまうに違いない。クロードの男のプライドの問題だ。
 生い茂った木々の隙間を、クロードは期待に胸を膨らませつつ進む。折り重なった葉がクロードの靴底を柔らかく受け止めた。向かう先にある泉は何度か出向いたことがある。何の変哲もない、ただの静かな泉だ。村の井戸水が枯れかけると世話になる程度で、生活に必須でもない。
「やっと抜けた」
 木々の隙間をようやく抜けて、クロードは息を吐き出す。頭に引っかかった蜘蛛の巣を手で払い、袖で乱雑に拭うと顔を上げた。静かに水面を煌めかせる泉。ぐるりと一周するのに、数分も掛からないだろう。泉の真ん中には、昔誰かが建てたという祠。詳しい事は知らない。
 真っ青な空を映した泉に歩み寄って、そっと覗きこむ。強張った表情を浮かべた自分と目が合った。透明度は高く、水底まで見える。案外浅いのか。水面に手を差し込みかけた刹那。
「思ったより深いから気を付けてね?」
「うわっ?!」
 唐突に鼓膜を揺らした声にクロードは慌てて手を引っ込め、泉から飛びのく。慌てて周囲を確認しても、自分以外の姿はどこにもなかった。心臓の拍動が煩い。足元の背の低い草が、さわさわと風に揺れた。
「な、なんだ……? 今のが、幽霊?」
「幽霊ってなに?」
 すぐ近くで聞こえた声。自分の視線よりやや下。人影はどこにも……否、いた。
「こんにちは、人間の男の子」
 くすっと笑った少女は、水面から肩より上を出していた。青いツインテールの少女。水に濡れた髪が、頬とむき出しの肩に張り付いている。
 よもや、そんな場所に誰かがいるなど想像もしていない。先ほど泉に着いた時には見えなかった姿だ。
「だ、誰」
「わぁ、人間の男の子は失礼だね。普通自分の方から名乗るものじゃない?」
「う……、クロードだよ」
 渋々答えると、少女は満足そうに軽やかに頷いた。
「私はカレン。よろしくね」
「いやよろしくされても……、ていうか何で泉の中で遊んでるんだよ。立ち泳ぎか? 器用だな」
「そう? そうだね、人間には少し難しいかも」
 くすっと笑って、器用に彼女はクロードの立つ縁へと寄る。カレンの髪がきらきらと太陽の光を反射して、余計に眩しく見えた。
「ねぇクロード、一緒に遊ばない? 私一人ぼっちだったから、一緒に遊んでくれると嬉しいな」
「遊ぶって……」
「泉の中の案内はどう?」
「いや、流石にまだ気温低い。風邪ひくぞ」
「そうかなぁ。ちょうどいいくらいだよ」
 ほら、と楽しげに水を飛ばし始めたカレン。クロードは慌てて顔を腕で庇う。
「馬鹿やめろ! 濡れる!」
「涼しいでしょー」
「やめろって!」
 水をすくい上げたカレンの腕を掴む。ひやりとした素肌の感覚に、意図せず心臓が跳ねた。
「やっ……!」
 悲鳴を上げて手を振り解いたカレンに、クロードは我に返る。カレンは何故か掴まれた手首を抑えて、カタカタと小さく震えていた。
「カレン?」
「な……なんでも、ないよ」
「いや、何でもないようには」
 手を伸ばしかけたクロードに、カレンはハッと目を見開いて、慌てて泉の縁から中心へと下がる。手が届かない距離まで後退され、行き場のなくなった手を茫然と見やったクロードに、弱々しくカレンが笑う。
「久しぶりにお話しできて、はしゃぎすぎたみたい。ごめんね、クロードは悪くないよ」
「何、言ってんだ……?」
 ふるふると首を振って、カレンは抑えていた手を解く。クロードが先ほど触れた手首が、赤く腫れあがっていた。まるで火傷のあとにできる、水膨れのようで。
「え……、え?」
「クロードは人間だから、ちょっと温度が高いんだよね。忘れてた、ごめんね」
 違和感を覚える。そういえば、先ほどからカレンはやたらと【人間の】と連呼する。まるで自分は人間ではないかのように。クロードの住むこの大陸では人間族と魔族が存在する。魔族特有の尖った耳以外は、大きな身体的特徴差はない。同じように生活するものだ。
「人魚なんだ、私」
「は……? 人魚は海に居るものだろ。こんな内陸の泉じゃなくて」
「それは、私をここに連れて来た人間さんに聞いて欲しいな」
 淀みなく答えたカレンからは、嘘が感じられない。人魚。海に住むもう一つの種族。クロードにとってはお伽話の中だけの存在だった。今目の前にいる少女が人魚だなど、とても信じられない。
 茫然と見つめるクロードに、カレンは寂しそうに笑った。
「濡らしちゃってごめんね、クロード。ばいばい」
 言って、ぱしゃん、と音を立ててカレンは水の中へ消える。
「え、ちょ、カレン? カレン!」
 クロードの呼びかけは、空気を震わせ風に乗って消えただけだった。

「母さん、そこの泉に人魚がいるって、知ってた?」
 夕飯の支度をする母の背に、クロードはぼんやりと窓の外を見ながら問いかけた。空は茜色に染まり、間もなく父も帰ってくる時間だ。今日は猪の一頭も狩ってくると出て行ったのだが、成果はどうなのだろう。
 トントンとリズミカルだった包丁の音が不自然に止まる。違和感に母へと視線を移すと、唖然とした表情でこちらを見ていた。
「……母さん?」
「泉で何を見たんだい」
「何って……あっ」
 出掛けると言っていなかったことを思い出し、クロードは慌てて口を噤む。母はエプロンで手を拭うとずかずかとクロードへと歩み寄ってきた。叱られる、と咄嗟に判断したクロードは身を固くする。ずいと母が顔を近づけた。
「人間ではないものを見たんだね?」
「いや、俺は別に泉には行ってな……」
「アレを見たんだろう?」
 問い詰める母にクロードは逃げ場がない事を悟って、がっくりと肩を落としながら鈍く頷いた。
「うん……見た」
「困った子だね、あんたは。駄目だと言われていたのに、すぐに興味に負ける」
「ごめん……」
「いいよ。男の子ってのはそういうもんだ。でも、もう行くんじゃないよ。危ないからね」
 思い出すのは静かな泉の水面だけだ。危険性が思い浮かばず、顔を上げたクロードは母を見やった。
「危ないって、何が?」
「あそこはね、たまに魔族が来るんだよ。だから近づくんじゃないよ」
「え? あんな何にもない所に?」
「あるさ。大事な守り神がね。それを奪おうとするのさ」
 守り神。脳裏をカレンが過ぎる。いるはずのない場所に居た人魚。
「人魚は、守り神になるのか?」
「きっとね」
 笑顔を返した母には悪いが、クロードにはあの天真爛漫な少女が豊穣や安息を約束する守り神とは、到底思えなかった。

 どうしたら顔を出すのか考えた結果、クロードは小石を投げ込んでいた。頬を膨らませながら水面に顔を出したカレンの顔を見た瞬間、思わず苦笑が零れる。
「なんだよその膨れっ面」
「石投げないで、クロード。当たったら痛いでしょ」
「呼んだって来なさそうだから。……昨日の怪我は?」
「酷いなぁ。ちょっとした火傷だよ。すぐ治るから、クロードは気に病まないでね」
 眉尻を下げたカレンに、クロードは曖昧に微笑む。謝るべきは、クロードの方だというのに。
「……帰りたいよな、海」
「それはね。でも、ここも楽しい事はたくさんあるよ。花や木がこんなに近くで見られて、海のお友達とは違う子達もいるの。それにね」
「それに?」
「私、人間の男の子とお話するの初めて。ねぇクロード、教えて。私の知らない地上の世界のこと」
 目を輝かせるカレン。昨日泉を訪れた時とは違う胸の高鳴りにクロードは口元が引き攣った。その意味を悟られたくなくて、クロードは思わず目をそらしつつ、ぽつりと。
「うみ……」
「うん?」
「俺にも、海の中のこと、色々……教えてくれよ」
「もちろん! ありがとう、クロード」
 見知らぬ地に一人だというのに、少女は楽しそうに笑う。いや、どこか無理をしているのかもしれない。人魚の寿命や成長速度は知らないが、外見的にはクロードの年齢とさほど変わらないように見える。クロードが一人で未知の場所に放り込まれたら、こうも明るく居られるか自信がない。
「……寂しいよな」
 ぽつりと問いかけたクロードに、カレンは少しだけ苦しげに笑う。それがきっと本心だった。
「なるべく、顔出してやるよ」
「本当?」
「うん。……お前さ、守り神になること期待されてるらしいぞ」
「そうなの? うーん……出来るかは分からないけど、頑張るね」
「俺は期待してないから、ほどほどにな」
 ひどーい、と頬を膨らませたカレンの明るさが苦しくもなる。天真爛漫さを彼女が失わないうちに、どうにか海に帰してやりたい。ここはどう考えても彼女がいるべき場所ではないのだから。
「すぐは無理だろうけどさ。その内、海に帰してやるからな」
「期待しないで待ってるね」
 ふふ、と肩を小さく揺らしたカレンは、さっきのクロードの発言に対する仕返しのつもりなのだろう。思わず苦笑が零れる。
「ね、手を出して、クロード」
「え?」
「いいから」
 催促するカレンに、クロードはおずおずと手を差し出す。くすっと笑って、カレンはツインテールの片方をクロードの手に載せた。水を吸って、重く冷たいカレンの青い髪。驚いて髪とカレンの顔をクロードが順に見やると、カレンは微笑んだ。
「私とクロードで出来る握手だよ」
「……そっか」
「よろしくね、クロード」
 ぎゅっと、カレンの髪を握りしめる。冷たくて、海の色をした少女の一部。人生で初めての、握手だ。握手、というのも表現としては不適切ではあるに違いない。それでも。
「ああ、よろしく。俺、人魚の友達は初めてだよ」
「私も人間の友達は初めて。あ、秘密の友達だけどね?」
 人差し指を立て唇に当てながら、カレンは悪戯っぽく笑う。秘密。小さな好奇心をくすぐるフレーズが、クロードの心の奥深くで響いた。

 永遠に触れる事が出来ない友達。見ている世界も、違うのかもしれない。だとしても屈託なく笑う彼女が、また広大な海に帰ることができるならば。
 それまでの間、カレンを一人にすまいとクロードは誓ったのだ。
 海色の友人は秘密に包まれて、今日も小さな泉で手を振る。屈託のない笑顔に苦笑を零して、クロードは一歩を踏み出した。


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サークル名:Garden of Jade(URL
執筆者名:翡翠しおん

一言アピール
ダークファンタジー系旧式ラノベ風物書き。双子や主従が作中にどんどん増えている。恋愛模様のない作品が多め。本作は2018春の新刊のとあるキャラクターたちの昔話です。此度は「女装男子男装女子」&「銃魔法FT」の2企画が稼働中。

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