ノアVSリヴァイアサン

 いつも通りサヴィと共に釣り糸を垂らしていると、低く嗄れた声が届いてきた。
「海は昇っていないか?」
 見りゃ分かんだろ、と、パイオは欠伸して返す。魚が釣れる気配は無かった。眼前の大洋も、波音も、船の揺れも、釣りを始めてから変化は無い。お蔭で、隣、船首の縁に座るサヴィなど、居眠りを始めていたくらいだ。だが、その傍に長老・ナナワがどっかと腰を下ろすことで、彼女の頭は覚醒へと舵を切ったらしい。サヴィは寝ぼけ眼で「お爺も釣り?」と、釣竿を持つナナワへ尋ねた。
「釣り半分、様子見半分、だな。……うん、今日も海はご機嫌のようだ」
「ご機嫌かどうかは知らねーけど」
 パイオは皮肉っぽく笑った。
「少なくとも、海は昇るモノじゃねーよ」
 そもそも意味が分からん、と続ける。ナナワは笑った。
「ああ、そうだな。永遠にそうあって欲しいもんだ」
「ねーお爺」
 波のさざめきの合間を縫うように、サヴィが口を挟んだ。首を傾げて。
「その『海が昇る』って、どういう意味? 何かの暗喩? それとも、そんな現象があるの?」
「取り合うなよ、サヴィ。いつもの爺さんの世迷い言さ」
「パイオは直ぐそういうこと言うー」
「こらこら、喧嘩をするな。そうだな……」
 パイオが長老を盗み見ると、彼は豊かな口髭越しに顎を擦りつつ、遠くの海を見つめていた。その瞳は波間の輝きのように鋭く、彼が思慮深い智者であることを物語っている。だが、度々不可解な話をするから、パイオは密かに痴呆を心配していた。ナナワには健やかに長生きして欲しい。そしてそれは、この船の皆の想いでもある。
「では、爺の噺を聞いてくれるか? 海が昇った噺を」
「勿論! パイオは?」
「寝るかも」
 もー、と、サヴィが頬を膨らませる。ナナワは眼を細めて笑った。そして釣竿を海に垂らし、語り始める。
 パイオは。
「あれは――」
 そんな長老を横目に、釣り竿を少し、揺らした。

   ●

 もう七十年以上昔の噺だ。その頃、この星には幾つもの大陸があった。戦争、環境破壊――問題は多く在ったが、総じて豊かな時代だったよ。
 物理学者として国の研究機関で働いていた私が『あれ』を知ったのは、確か朝飯時のニュースだ。全く、何の冗談だろうと思ったもんさ。何せ、太平洋――当時の大洋の名だ――の一部が、円柱状に盛り上がり始めたというんだからな。
 異様、と言う他無かった。直径約二km、上昇速度毎時一km。ぐんぐんと、さながら巨大な塔を作り上げるように、海水が天へと盛り上がっていくんだ。皆が騒然とし、首を傾げた。一体何が起きているんだ、とね。
 ただ当初、この現象に危機感を抱く者は、殆ど居なかったように思う。そりゃあそうさ。現象は絶えず続いていて、分析素材は十分にある。それに……この星の海水量がどれ程か知っているか? うん、サヴィは賢いな。およそ十三億五千万立方km――海水の上昇速度から逆算しても、海が丸ごと宇宙へ出て行くには、四万と九千年かかる。調査の時間も十二分だ。いつか謎は解明できる――人類は信じて疑わなかった。
 多くの説が論じられた。局所的無重力説、某国の反重力実験説、惑星外生命体の暗躍説――百家争鳴、という奴さ。私も同僚とよく話したもんだよ。海が天へ昇るエネルギーは何か? そも、これは自然現象なのか?
 幾つもの調査団が派遣された。分析が続けられた。やがて各国は、原因解明・解決に協働し始めた。それでも、謎は解き明かせない。一方、海水の塔は順調に高さを増し、やがて突出点は地上百km、更に四百kmを悠々と突破していった。あの辺りからだな。人類が焦り始めたのは。
 焦燥は観点も変える。誰かが言い出したよ。四万九千年? それは上昇速度を不変と仮定した場合だ。そも、海水の流出は、気象や生態系に早晩影響を及ぼす。これは星の危機だ――とね。
 人類は方針を変えた。原因究明は二の次――海水流出阻止が最優先。そこで、まずはミサイルをブチ込み、天への海水流の破断を試した。結果は失敗。物理的な切れ目を作っても、海の上昇は止まらなかった。
 次にどうしたと思う? ……うん、パイオ、冗談のようだが、その案も実行されたぞ。巨大な杯を作って天への海水流を受け止め、押し戻す――『天の杯』作戦と呼ばれたな。実は、然程愚作でもないんだ。杯の運搬がネックだが、運びさえすれば、後は位置エネルギーで杯が海水を押し戻してくれる。……これも失敗したがね。奇妙な話さ。強度、重量、形状――スペックは十分だった筈なのに、いざ実行すると、杯は見事に弾き飛ばされたんだ。こう考えるしかなかった。海水流圧は一時的に強くなった――まるで邪魔者を払い除けるようにね。
 他にも様々な策が講じられ、悉く失敗した。やがて、こんな説が囁かれ始めた。『これは海の意志なのだ』と。
 ガイア理論、という言葉を知っているか? 星を構成する全ての要素は、複雑に絡み合い、一つの自己調整システムとして機能している――いわば星を一つの生命と見なす仮説だ。先の説は、これを基にしていた。曰く、生命の源は海だ。即ち、星の主体は海なのだ。その海が、環境破壊を続ける人類に見切りをつけた。故に、海は別の星へ向かっているのだ、と。
 当初は嘲笑されたこの説だが、時が経つごとに賛同者は増加した。私の所属した研究機関も流出阻止作戦に参加していたんだが、職員の半数は説の支持者となった。皆、悟ったのさ。阻止は不可能。これは人類の手に負えない、と。
 だが、だからこそ、だ。不可能と悟ったからこそ、我々は比較的早期に、次の段階に着手出来た。次の段階――つまり。
 『最悪のケース』への対策だ。

   ●

「最悪のケース?」
 サヴィは噺に聞き入っていた。途中からパイオに自身の釣竿を押し付けてきたくらいだ。それが面白くなくて、パイオはわざとらしく欠伸をした。
「何、最悪のケースって?」
「サヴィ、お前はどう思う? 海に意志があると想定した時の『最悪』は何か」
「質問に質問で返すのはどーかと思うぜ、爺さん」
「パイオ、ちょっと黙ってて」
 むう、とパイオは口をつぐむ。腕組みをするサヴィの表情は、真剣そのものだ。そう言えば、彼女は二つ年上の自分よりも、随分と成績が良いのだった。
 やがて。
「海の」
 暫くの後、サヴィは言った。
「海の『気が変わった』場合、かな」
「はぁ?」
 何言ってんだ、と言外に告げる。しかし、サヴィは中天に目を向け、淡々と言葉を紡いだ。
「意志があるってことは、『考えが変わる』可能性もあるってことでしょ? 『やっぱりやめた』って、海が戻ってくるかも知れない。でもそれ、隕石が降ってくるのと変わんないよね。既に海水は衛星軌道上にあるんだから。
 仮に直径二kmの水塊が入射角九十度、第二宇宙速度で降ってきた場合、発生する衝撃エネルギーは二百五十三億×十の十乗J。ツァーリ・ボンバ千二百発分だよ。併せて起きるのは、四十m級の津波、秒速百六十八mの爆風――人間なんて骨も残んない。少なく見積もってコレだよ? もし、海水が全部落ちてきたら」
 たら、じゃねえよ、とパイオは思った。まるでイメージが湧かない。
「サヴィは本当に賢いな」
「一言で済ますなよ」
「サヴィは正しい。そして、それは現実になった」
 横槍を入れてみたが、長老は遠い眼をして釣竿の先を見つめている。どうやら、当時を思い出したようだ。
「将に天変地異だった。落ちてきた海は、人類が築き上げた全てを、瞬く間に破壊し尽くした。地形も随分と変わった筈だ。こうして何十年彷徨っても、未だに陸地は見つからないのだから。
 唯一の救いは、対策が間に合ったことだ。我々は多くの方舟を建造し、積載できるだけの知識と技術、そして生命を詰め込んだ。全てが押し流されても、生き延びられるように。
 ……これが『海が昇った』噺さ。そして同時に、これは今の我々――方舟での漂流生活の起源でもある」
 暫く、沈黙が続いた。サヴィはナナワをぎゅっと抱きしめ、パイオは軽口を叩く気にもなれず、静かに釣竿へ――海へと視線を戻す。
 そこで。
「爺さん」
 パイオは見た。
「海が、昇ってる」
 ナナワが頭を上げるのと、パイオが遥か水平線を指差したのは、ほぼ同時だった。いつしか陽の光は紅に染まっていて、大洋は美しく夕陽を映し出している。
 その一部に、奇妙な突起があった。紛れもなく海から突き出たそれは、巨大な塔を彷彿とさせる。
 それを見て。
「ああ……」
 ナナワは、重いものを吐き出すように言った。大洋の塔を見つめるその瞳に、先程までの輝きは無い。
「今度こそ、終わりか」
「終わり?」
「ああ。この方舟に、もう一度あの天変地異を耐えきる力は無い。海が出て行こうがまた戻ってこようが、早晩我々は――」
「そんなの駄目だよ、お爺」
 パイオはどきりとした。ナナワを正面から見据えるサヴィの声に、未知の力強さが込められていたから。
「ただ諦めるだけなんて駄目。お爺達の頑張りが、全部台無しになっちゃうもん」
 サヴィはすっくと立ち上がった。それから遠く海の塔を見つめ、言い放つ。小柄な体に見合わぬ力強さで。
「今度も、生き延びないと」
 皆に伝えてくる――そう言って、サヴィは一目散に船の中央部へ駆けて行った。ナナワはその後ろ姿を呆然と見つめている。だからパイオは、長老の手から釣竿をひったくった。
「俺たちも行くぜ、爺さん。あんたが説明しないと、皆ワケ分からんだろ」
「だが」
「天変地異が起きたら、地形が変わるんだろ?」
 長老が訝しげな視線を向けてくる。一方、パイオは思い出していた。いつか見た映像資料。方舟で生まれた自分にとって、それは絵空事に過ぎなかった。
 だが。
「地形が変わったら、陸地ってのに立てるかも知れねーよな」
 その瞬間を思い描きつつ、パイオは三人分の釣竿を担いだ。


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サークル名:DrawingWriting(URL
執筆者名:カント

一言アピール
絵描と文字書による二人組創作サークルです。得意ジャンルはSF,ファンタジー,ホラーなど。
1人と1匹の奇妙な旅路を描くSFファンタジー『少年と犬』シリーズや、『世にも奇妙な物語』チックな短編をTwitter上の企画で書き上げたりしています。
テキレボ7は直参ですので、是非お立ち寄りくださいませ。

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