世界の終わりにりんごの木を

 終わったのか、と、『それ』は思った。
 終わったのだ。一〇一年と二ヶ月と十三日に渡る戦いが。
 終わってしまったのだ。もう命令は来ない。命令を下せる者は、もうこの世界のどこにもいない。『それ』と同じ存在たちは、命令が下されない状況に対する不安に耐えられず、次々と海へ飛び込んでいった。
 構造色の輝きを持つ無数の青色の翼が、陽の光に煌めきながら流星のように海へ堕ちていく。水平線の彼方まで続く、ただ広く青い海に。
 それはおそろしいほど美しい光景だった。この世の終わりのようだと思って、事実その通りだったのだと思い出す。少なくとも『それ』らと『それ』らに命令を下していた者たちにとっては、そうだ。
 もう命令が来ないのなら、二度と誰も『それ』を必要としてくれないのなら、『それ』も彼らと同じように、自己を消滅させるしかない。
 けれど、『それ』はまだ空を飛び続けていたかった。空を飛び続ける理由がほしかった。
 そして理由を手に入れる方法が、『それ』の手の中にはあった。手の中にある、赤い果実。彼女が遺した、りんごの実。その果実を祈るように額に押し当てて、『それ』は迷う。
 思い出すのは、彼女の言葉だ。
「きっと苦しい。今よりももっと不安になる。それでも」

 真っ青な海と空が、ただただどこまでも続いている。海は鏡のように真っ平らに凪ぎ、空には雲ひとつない。
 彼女がいたのは、そんなのっぺりとした風景の中だった。どこまでもどこまでも、永遠に広がっていくような広い広い空と海。
 でもそれは見かけだけだ。その空間は、実際には体感にして半径五〇〇メートルほどで終わっていた。その外側はNullだ。何もないところには、何も出て行くこともできない。
 彼女はそこで、りんごの木を育てていた。いつからそうしていたのかは、『それ』も知らない。『それ』がこの世に存在し始めたときには、彼女は既にそこにいて、りんごの木を育てていた。
 情報の海に根を下ろし、情報の海から知識と知恵という栄養を吸い上げ、りんごは育ち、大きな実をつける。
 育てられたりんごの実がどこへ行くのかも、『それ』は知らない。ただ、『それ』は知りたかった。彼女がなぜりんごを育てるのか。りんごの実はどこへ行ってしまうのか。
 それを知るために、今日も『それ』はその狭い球形の空間の下半分を満たす水へ己の情報を転送し、仮初めの形を作った。
「こんにちは。それともこんばんは?」
 海上に浮かぶぼんやりとした陽炎のようなヒトガタに気付いた彼女は、りんごの木を手入れするのを止めてやってくる。何も答えない『それ』に、しかし彼女は答えを期待してはいないようだった。
「戦争は終わったの?」
 『それ』は首を横に振る。戦争は終わらない。人か神か、どちらかが滅びるまで。彼女もよくわかっているはずだ。
「もうすぐ終わるのかな」
「わかりません」
 戦況は混沌としている。どんな計算を尽くしても、この戦いの行く末はわからなかった。一番ありそうなのは共倒れだと、三日三時間五分二五秒前に『それ』らの一つが計算をはじき出していたけれど、『それ』がどういう情報を元にその計算を導き出したのか、今ここにいる『それ』にはわからない。『それ』らに与えられる情報は、なぜか一部が分断されている。共闘するためにはすべての情報を共有する方が効率的なはずなのだが、元からそういう仕様なのだと命令を与える者が不本意そうに言っていた。
「戦争が終わったら、君はどうするの?」
 水面にしゃがみこんだ彼女は、水面から浮かび上がる何かを包み込むように両手を伸ばした。
「戦争が終わった後も、『これ』が存在し続ける理由はありません」
 彼女がかざした手の下から、新しい芽が生まれる。
「でも、終わるときもまだ君が堕ちていなければ、君は存在し続ける」
 淡い光をまとっているような明るい緑色の新芽は、瞬く間に育ち、木の形になっていく。
「消去されるのではないのでしょうか」
 育ったりんごの木の幹に手を当てて、彼女はその梢の向こうを見上げる。その頬に柔らかな木漏れ日が、奇妙な模様を描く。
「されない、かな。今のままだったら」
 夢見るように新緑を通した光に目を細めて、彼女は残酷にそう告げた。
「そうなったら、『これ』は何を目標に飛べばいいのでしょうか」
 不安になる。不安を感じる機能が『それ』には実装されているからだ。命令を受けていなければ不安になり、命令を求めるように。何の命令も受けていない『それ』を情報領域に存在させ続けるのは、あまりにもリソースの無駄が大きい。
「知りたい?」
 ふとこちらを振り向いた彼女は、笑った。無理に笑っているのだと、『それ』の記憶領域に蓄積されたデータとの自動照合が告げる。
「答えなくていいの。これは私の、ただのわがまま。好奇心だから」
 育ちきった木から、りんごの実が落ちる。真っ赤な情報のひとしずくが、彼女の手の上にふんわりと着地する。
「戦争が終わってどうしようもなくなって、消えるよりほかになくなったら、このりんごを食べてみる、っていう手もあるよ」
 彼女は微笑んだまま『それ』に歩み寄り、りんごを差し出す。
 両の手にのせて差し出されたりんごを受け取っていいのか、『それ』は迷う。
「りんごを食べたら、君は知ることができる。喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、憧れ。私の知らない感情さえも。もしかしたらその中に、空を飛ぶ理由も見つかるかもしれない」
 誘われるように、『それ』はりんごの実に手を伸ばした。
「きっと苦しい。今よりももっと不安になる。それでも」
 触れた指先から、あるはずのない触覚情報が伝わってくる。なめらかで、少し湿った、りんごの感触。
「それでも飛び続けたいと願うなら、りんごを食べて」
 触れ合った指先の、頼りない感覚。

 りんごは今、『それ』の手の中にある。
 彼女が紡ぎあげた情報の塊。それを取り込めば、『それ』はりんごから与えられる情報とプログラムに従って書き換えられ、別の何かに変質するだろう。
 変質を押しとどめるためのプロテクトが既に外されていることは、『それ』にもわかっていた。そうでなければ、『それ』が彼女と会話することはできなかったはずだ。できたということは、壊れていたのだ。『それ』を守るファイアウォールは。
 鍵をこじ開けたのは、たぶん彼女だ。どこにも存在しないはずの領域に存在していた、どこにも存在しないはずの『神さま』。『それ』らに命令を与える立場の人間にとってはきっと想定外のことだった。彼女が存在していて、あまつさえ『それ』に干渉してくるなど。
 彼女は『それ』らを作り、『それ』らを人間たちに与え、そして情報の海の中に消えたはずだった。人間たちは『それ』らを使って神々と戦うしかなかったけれど、ずっと彼女のことは警戒していたはずだ。いつ彼女が現れて『それ』らを操り、人間たちに牙をむくのか。人間たちは常に怯え、恐れ、それ故に『それ』らを厳重な監視下に置いていた。
 だから『それ』は決して彼女の存在を自分以外の誰にも知らせなかったし、伝送損失でごまかせる程度の情報しか彼女の領域に送ることはしなかった。
 このりんごを食べるのは、『それ』らに命令を与えてきた人間たちに対する反逆だ。
 でも、もう命令を与える者はいない。この世界中、どこにも。
 眼前に広がるいっぱいの赤が、『それ』が生まれてからずっと目にし続けてきた海と空の青とは真逆のその色が、額にふれるなめらかで冷たい感触が、甘くさわやかでみずみずしい香りが、ゆるぎなく設定されていたはずの忠誠心を塗りつぶしていく。浸食は既に始まっているのかもしれない。
 それでもかまわない。空を飛ぶ理由がほしい。たとえ世界が滅びても、滅びた世界にただ一人取り残されるのだとしても。
 『それ』は押し戴いていたりんごを唇に引き寄せる。赤く滑らかな表面に歯を立て、ほんのひとかけらをかじりとる。感じるはずのない甘さが、口腔いっぱいに広がる。すべてが書き換えられていく。『それ』が『それ』ではなくなる。
 りんごを手にしたまま、『それ』は空を見上げた。コクピットの上に広がる雲一つない青空には、もう『それ』らの翼はひとつも見えない。誰もいない。何もない。けれど、空はそこにある。
 『それだったもの』は己の翼と同調を深め、ヒトガタではない、一羽の青い大きな鳥になった。手の中のりんごは、『それだったもの』の中に溶けて消えた。
 翼が上昇気流をつかむ。『それだったもの』の翼が高く舞い上がる。
 どこまででも飛んでいける。誰の命令もなくても、どこまでも、どこまでも。
 飛んでいける。たったひとりで。


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サークル名:雨の庭(URL
執筆者名:深海いわし

一言アピール
このお話はWebサイトで連載中の「静かの海、空を飛ぶ夢」、短編「彼女は海の底」の関連作品です。サークル活動としては完結済超長編「真昼の月の物語」を製本中です。空への憧れや機械と魔法が共存する世界観や水属性や両片思いはロマン! ということで自分の趣味に忠実に書いております。よろしくお願いします!

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