朱い海と金の薔薇
大きな夕日が空を朱く染めている。
当代唯一の「名前を呼んではいけない魔女」の称号を持つ魔女――通称「時の魔女」は、崖下の岩場に魔法陣を描き、海に向かって仁王立ちしていた。緑の瞳に夕日の色が映りこむ。実年齢に反して見た目は二十代半ばの彼女だが、髪だけは真っ白だった。それが今はうねるように風になぶられている。海風と、彼女自身の魔力で起こっている風がぶつかり合い、波立たせていた。
美しいものには魔力があり、力が強い場合は魔物が宿っていることがある。魔物は魔法で召喚することができた。
術者の魔力が魔物の魔力を上回っていれば召喚するのは簡単だ。しかし、逆の場合は、呼びかけても応えは得られない。そうならないように、魔法陣を練ったり、魔法具を用意したりするのだ。
今、時の魔女が行おうとしているのは、木や花といった物体ではなく、限定された条件下でのみ起こる現象から魔物を呼び出す実験だった。
古文書をいくつも当たって調べた時間を固定する魔法と流動的なものを定着させる魔法を、召喚魔法に組み込んだ陣は、五層の同心円からなる。本来ならとても大きいものだが、狭く足場の悪い岩場で使えるように縮小させた。そのため、魔力でごつごつした岩に焼き付けられた文字や記号は、手描きでは絶対に描けないほど細かい。
時期、場所、天候と入念に調べた結果、一番良い条件が今日この崖下だった。
時の魔女は、高額な対価を支払えば人探しから呪いまでほとんど何でも引き受ける得体の知れない魔女として、表立って名前が出ることはないものの、貴族社会の裏側では有名だった。しかし、実際は、研究資金を集めるために依頼をこなしている、単なる研究好きの魔女だった。だからこそ、称号を得られたのだけれど、それはもう今となっては誰も知らなかった。
時の魔女は真っ直ぐに夕日を見つめていた。海岸独特の混然とした濃厚な匂いを、片手を振って払いのける。
雲はない。澄んだ空気は全天を覆う。西へ向かって、薄青から橙へのグラデーションがかかる空。それを先導している夕日は、熟れた果実のようだった。少し楕円に歪んで見える。海もまた空の色を映していた。色粉を溶かした水を少しずつ加えていったような海面の、波頭は日を反射してキラキラと輝く。
眩しさを堪えて、タイミングを計る。
朱色の光源の下端が、ついに海に触れた。向こうからこちらへ、光の橋が渡される。繋がる瞬間を時の魔女は捕らえ、魔術を仕込んだ靴の踵で岩を強く踏み鳴らした。火花が散って、魔法陣に最後の文様が刻まれる。
左腕を前に伸ばす。左手の人差し指の爪には、血豆のような魔女のしるしがあった。魔力を込めるとしるしが広がり、指先から溢れた血がぽたりと一滴落ちた。
それを受けた魔法陣から、ぶわっと風が巻き起こる。
時の魔女の白い髪が光を帯びた。
白が朱を包むように、視界の夕日は少し霞んだ。
「私は時の魔女、ゲートリデートバトリー! 名前を呼んではいけない魔女が、名前を名乗って魔法を使うわ!」
彼女が宣言すると、魔法陣の外側を砂利が飛ぶほどの強風が吹く。高波が押し寄せる。
よほど大きな魔法を使うとき以外、時の魔女は自分の名前を口にしない。滅多にない機会に周辺の魔物が歓喜の声を上げたのだ。
時の魔女の名前を呼んではいけないのは、それ自体が魔物を騒がせる呪文だからだ。力のある魔女の名前は、ただの人が口にしてさえ力を発揮する。本人か同じ称号を持つ魔女以外には制御できない。魔女に称号を与えるのは魔物だった。
「この地に宿る魔を持つものたち! 立ち合いたいものは集いなさい。そして私に力を貸しなさい」
広がるスカートに構わず、時の魔女は再び踵を鳴らした。すると風と波は収まり、代わりに白い大小の光の玉が辺りに漂い始めた。
そうして集まった下等な魔物の力も利用し、時の魔女は、朱い海を召喚する呪文を紡ぐ。
彼女の目的は夕日ではない。それを映す海の方だった。
「朱い海! 遥か太古から続く命の源と、刹那の光、反する二つの美を宿す魔物。かつて命を育んだことがある体を以って、時を冠する長寿の魔女、ゲートリデートバトリーが召喚しよう。その一瞬の美に形を与えてあげよう。さあさあ、光の橋を渡りなさい。朱い海、早くこちらへいらっしゃい」
歌うように抑揚をつけて、時の魔女が唱える。
辺りの光の玉は彼女の声に合わせて、くるくると渦を描いた。
空気の重さがすっと変わる。
手応えを感じ、時の魔女は唇を吊り上げた。
そのとき。
別の魔力が時の魔女の邪魔をした。
何かが降ってくる気配に、時の魔女は素早く崖の上を仰ぎ見る。
「おぎゃぁ」
泣き声にぎょっとした。
魔法陣に向かって落ちて来ているのは赤子だった。
しかし、召喚はもう止められない。朱い海は魔法陣の中で人の形を取りかけていた。
赤子が金色に光っているのは強い魔力のせいだ。おそらく魔女だ。いや、それにしては光が強い。もしかしたら魔物なのかもしれない。
時の魔女が対処するより前に、赤子を受け止めたのは朱い海だった。
朱い海の魔物は、朱色の髪の青年の姿を取っていた。異国風の衣装に均整のとれた長い手足。中空で赤子を抱き止め、すうっと地面に降りた。
時の魔女の魔法は急速に収束していく。白い光の玉はすでにない。
見ると、夕日は沈んでいた。空と海の境界だけが豪奢な橙の帯で彩られている。薄青だった天頂は群青に変わり、気の早い星がいくつか存在を主張し始めていた。
時の魔女は岩に踵を打ちつけて魔法陣を消すと、朱い海の魔物に向き直った。
海が闇色になっても彼が消えないのは、召喚魔法が成功したからだろう。しかし、どうもそれだけではないようだった。
「朱い海」
「朱海。アケミだ」
低い声が名乗る。視線は慈しむように赤子を見ていた。
「この子どもは、金の薔薇だ」
「金の、薔薇?」
先ほど見たとき、赤子の魔力の質は金の光だと感じた。
訝しく思いながら目を眇めると、確かに薔薇の気配がある。髪の色は赤みがかかった金だ。赤子の左手の人差し指には小さな魔女のしるしがあった。今は穏やかに寝ている。
「アケミ、その子はどうなっているの? 何かしたのはどっちなの?」
「俺と金の薔薇は、少し混ざってしまった。彼女の髪の赤は俺の朱に由来していて、薔薇に変わったのもそのせいだ。あんたの魔法も取り込んだと思う」
時の魔女は眉をひそめた。
「強すぎる魔力が体を壊しかけていたんだ。死にたくない、消えたくない、生きたい。――そういう純粋な強い思いが、俺にかけられていた定着の術式を引き寄せた。それで、余分な魔力を俺に移した。だから、あんたの魔法がなくても、俺は形を保っていられている」
「受け入れたのね?」
「ああ、そうだな」
海だから。
沖に向けられた目が、言外にそう言っていた。
「崖の上で何があったのか、誰か見ていたものはいない?」
時の魔女の問いかけにいくつか白い光が寄ってくる。崖上の草木の魔物なのだろう。緑の匂いがかすかに鼻腔をくすぐった。
魔物の記憶をわけてもらってから、時の魔女は不敵に笑う。赤子を捨てるなんて馬鹿なことをした人間は、たっぷり後悔させなくてはならない。けれど、それは日を改めよう。
「さて、帰りましょうか。あなたも一緒に来るのよ、アケミ」
「いいのか?」
「あら、あなたは、時の魔女に赤子を抱いて帰れって言うつもり?」
「いや、まさか」
金の薔薇の頬をつつく時の魔女から、「起こすなよ」と距離を取り、アケミは宙に浮かぶ。
「名前はわかるの?」
「母親らしい女がエヌと呼んでいた記憶が見えた」
「そう。エヌね――魔女エヌ」
おそらく歴史に名を残すだろう。
時の魔女は踵を鳴らして風の魔法を使い、ふわりと岩場を後にした。
空も海も、もうすっかり夜だった。
サークル名:オレンジ宇宙工場(URL)
執筆者名:葉原あきよ一言アピール
超短編を書いたり、豆本を作ったりしています。普段はもっとわけがわからない話を書いています。