九月の海は

 桐緒さん今日さ、これから海行こっか」
 予想もしていなかった本日の行先を告げられたのは、待ち合わせ場所で顔を合わせたのと、ほぼ同時にだった。

「いいけど、いつ決めたの?」
「ここに来る途中」
 大丈夫だよ、ビーサン買ったし。何が大丈夫なのか、そう尋ねる気にもならないまま、しなやなか指先が手慣れた手つきで切符を買う姿を横目にちらりと覗き見る。
 大人二枚。普段なら別段気にしたこともないはずのそんな表記が唐突に気にかかる。例えばこんな社会の枠組みの中でなら、私も荘平さんも同じ『大人』の範疇らしい。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 答えながら、切符の額面に記された金額と、路線図のずっと先にある駅の名前をまじまじと見比べる。この海は確か、小学生の頃の遠足で行ったきりのはずだ。
「ずっと気になってたんだよね。このところばたばたしてて、夏らしいことって全然できてなかったじゃん」
「別にいいのに」
「桐緒さんが良くても俺が良くないんだって。なんかこう、気がかかりっていうか」
「やり残した夏休みの宿題……みたいな」
「上手いこと言うね」
 ニコリ、と微かに笑う笑顔はほんのり日に焼けていて、ほんとうに夏休み明けの子どもみたいだな、と思う。(実際にそれに当てはまるのは私の方なのに)
「桐緒さん、宿題終わった?」
「終わりましたよ、とっくの昔にね」
 大人気ない、と思いながらも少しムキになってそう答える。その間にも横目でそっと、吐き出されるみたいに改札を出入りする制服姿の子たちの中に自分と同じ制服の子がいないのかを見張るくせは、いつまで経っても抜けきらない。
「行こっか」
「うん」
 差し伸ばされた掌を、私はためらうことなくそっと握り返す。一回り大きなその手に包まれた時に感じる感触はとても穏やかで心地よいのに、同時に僅かに胸を締め付けるような不思議な痛みをもたらすことは、いつまでたっても変わらない。

 ローカル線を乗り継いだ先の鈍行列車は平日の昼下がりともなれば人影もまばらで、地元民らしきお年寄りや、普段はあまり目にしない制服の学生たちがぱらぱらとまばらに乗り降りするくらいだ。
 長い夏休み明けの始業式ともなれば、そのまままっすぐに帰宅する生徒は殆どいない。クラスの大半がたどるコースはファーストフードでの昼食のち、ゲームセンターかカラオケボックス、ショッピングモールといったところだろうか。
学校は勿論、繁華街とも、生徒たちの多くが乗り降りをするベッドタウンとも正反対の方向へと向かうこの電車の中なら、自分たちがどんな間柄で、これからどこへと向かうのかなんて問いただすような人間はどこにもいない。もしかしたら、彼はその点まで配慮した上で今日のこの行き先を提案してくれたのだろうか。
「どうでしたか、久しぶりの学校は」
「まぁ……仲の良い子は休み中も会ってたし、特には。ちょっと見た目が派手になってる子がいるくらい?」
「いつの時代も変わらないよね、それは」
 どこかまぶしげに瞳を細める横顔を見上げながら、私が生きる今は、彼にとってはもうとっくに通り過ぎた過去なのだということを改めて痛感したりもする。

 長期休み明け、それも夏休み明けのあのざわざわとした浮ついた空気が、いつまでもたっても好きになれない自分がいるのは確かだ。
 日に焼けた肌を自慢しあう男の子たち、ピアスの穴が増えて、化粧が少し濃くなった女の子たち、大胆に色を抜きすぎた髪を隠そうとした痕跡の残る不自然に黒々とした髪に、ツンと鼻につくヘアカラーのにおい。
 汗や体臭、整髪料に化粧品や香水。それに、久しぶりに稼働した空調のどこかカビ臭いにおい。夏特有のムッとした空気にそれらが混ざりあった独特の臭気に包まれた中、長期休みに加えて、この季節の特有の解放感に後押しをされたクラスメートたちが得意げに語り出す、まるで武勇伝か何かのような夏の思い出話にどこか辟易とした気分にさせられるのが、この時期の恒例行事だ。
「桐緒さんはさ、海とかプールとか行ったの?」
「海は行ってないけどプールなら行ったかなぁ。マキちゃんとクラスの友達と。荘平さんは」
「まぁ、仕事でなら。花火とかは見た?」
「地元のお祭りのちっちゃいのなら、マキちゃんと」
「なんかさ、それだけ聞いてると俺じゃなくて日生さんと付き合ってるみたいだね」
「よく言われます」
「負けてるねー、俺」
 責めるつもりのニュアンスはちっともなかったはずなのに。すまなそうにそう返す表情を目にすれば、ちくりとざわつくように微かに胸が痛むのは仕方の無いことだろうか。
「でもさ、俺だって桐緒さんのこと、好きだからね」
 それでも、拗ねた子どものように得意げに微笑みながらそう答えるのだから、途端に私の心は、ぎゅっときつく捕まれたかのような心地に襲われる。
「……知ってますよ」
「俺だって知ってるよ、ぜんぶ」
 微かに耳が赤くなるのを感じながら、私はそろりと目を逸らすようにして窓の外をぼんやりと眺める。ぴっちりと閉じられた窓の外からは生ぬるい外の空気は遮断されたままだが、五感をうんと研ぎ澄ますようにすれば、微かな波音や鼻をつくようなツンとした潮の香りが感じられるような気がするのだから不思議だ。所在なさげにピンと伸ばした指の先は、返事の代わりのように、少し汗ばんだ一回り大きな彼の掌にいつしかそっと包まれている。

 目の前に広がるのは、紺碧というのにはほど遠いけれど、それでも、全てを包み込んでくれるようなたおやかさを称えた穏やかな海だ。
 海水浴シーズンには、浜辺以外取り立てて目立ったものは何もないこの場所もにぎわいを見せていたのかもしれないが、遊泳期間をとうに終えた今となっては、人影もすっかりまばらだ。
 折り畳まれたビーチバレーのセット、運営期間を終えたことを告げるビラを張られた海の家、はがし忘れられたままの花火大会のポスター。全ての痕跡が、置き去りにしてきたままの今年の夏をありありと描いている。
「昔は確か、九月一週目くらいまでは泳げたんだけどね」
 閑散とした浜辺を見ながら、どこか寂しげに荘平さんはそうつぶやく。
「でも良かったよね、おかげでのんびり出来るわけだし」
「……うん」
 視界の端を、犬を連れたおじさんがそっと横切る。見渡して目に入るのは、散歩中らしきおばあさん、まだちいさな子どもを連れて遊ばせているお母さん、地元の子らしき学生たち(私服の子もいれば、制服のままの子もいる)たぶんよそ者なのは、私たちくらいじゃないだろうか。
「靴、ぬごっか。その方が気持ちいいでしょ?」
「いいけど、脱いだあとどうするの」
「おいておけばいいじゃない。いないでしょ、取る人なんて」
 答えながら、繋いだ掌はそのままに、スニーカーをその場で脱ぎ捨てると、片方の手で靴下をくしゃくしゃと丸めてその中に入れる。
「あつっ。まだあついよ、砂浜。やけどするかも」
「サンダルあるんだよね。出そうか? その方がいいもんね」
「桐緒さんのもあるからね」
 ニコリと、どこか得意げに笑う表情に促されるようにしながら、私もまた、スニーカーをそっと脱ぐ。
「つめた。でも気持ちいいね」
 ぱしゃぱしゃと音を立てて波打ち際に足をつける私を横目に、荘平さんは言う。
「気をつけてね、九月の海はクラゲの海だから」
「え、それ何」
「ムーンライダーズ。そう言う曲がね、昔あって」
「スカーレットの誓いの人たち?」
「そうそう、よく知ってるね」
「少し前に読んだ本に出てきたから」
 感嘆に良く似た響きを含ませたその言葉を前に、私はどこか照れくささを隠せないままぽつりとそう返す。
「あれ聞いて以来さ、毎年九月になると、もうそんな季節かって思うようになっちゃって。海なんて、特別な思い入れがあるわけでもないのにね」
 足下をさらう波にあらがうこともなく、ゆっくりと歩みを進めながら荘平さんはつぶやく。
「あ、イタッ」
「大丈夫?」
「なーんてね、ごめんごめん」
 答えながら、無傷の足をひょい、と水面から掲げる。
「まぁこういうこともあるかもしれないのでってことで」
「次やったら怒るから、そのつもりでね」
 おおげさに肩をすくめるその姿に、かすかないとおしさがそっと滲んで溢れていくのを私は感じる。
「なんかさぁ、こうしてるとサマーヌードみたいだね」
「夏はもう終わっちゃったけどね」
「終わってないよ。八月が終わっただけでしょ」
「それと、桐緒さんの夏休みがね」
「……」
 無様に口をつぐむ私を前に、どこか寂しそうに瞳を細めながら荘平さんは答える。
「夏休みってやっぱり、特別な物じゃない? 普段からそんなに会えるわけでもないのに、せっかくの夏休みに何もなしってやっぱりつまんなかったんじゃないかなって思って。だからって、今更これくらいで罪滅ぼしになるとは思ってないんだけど。なんていうか」
「……いいのに」
「桐緒さんがそう言っても俺が良くないんだよね。ごめんね、わがままに付き合わせちゃって」
「……そんなこと」
「信じていいんだよね」
 小さく頷きながら、私は少し汗ばんだ掌を握りしめる指先の力を僅かに強める。
「来年はさ、泳げる時に来ようよ」
「来年だと私、受験生だよ」
「一日くらい大丈夫じゃないの?」
「じゃあ大丈夫にします」
「そうこなくっちゃ」
 答えながら、まるで子どもみたいに嬉しそうにそっと微笑むその姿を瞼に焼き付けたいと思うのに、海辺に反射する夏の名残のような光がひどく眩しくて、うまく出来そうにない。

「サマーソルジャーはわかる?」
「うん、名曲だよね。あと、海とオートバイも好き」
「あとはそうだなぁ、海へとは?」
「タイトルしか知らないんだよね、それ。サヨナラサマーは好きなんだけど」
「じゃあ今度聴こうよ、一緒に」
「約束?」
「うん、約束」
 終わってしまった夏休みを、後は着実に過ぎ去っていくだけの今年の夏を、名残を惜しむようにしながら、私たちはゆっくりと浜辺を歩く。踏みしめた足跡はみんな波にさらわれてしまって、ここで過ごしたこの些細な一時を覚えてくれる人はきっと、私たちの他にはいないけれど。
「荘平さんってさ、先のこと、よく話すよね」
「だってわくわくしない? 今だって十分楽しいけど、これから先に楽しみがまだたくさんあるって想像したらますます楽しくなるでしょ。だから楽しみはたくさん作った方がいいと思うんだよね」
「来年の夏の約束とか?」
「そうそう」
 にこやかに微笑むその笑顔に、まるで真綿に包まれるような心地よさを感じながら、私はそっと瞳を細める。 

 私たちはこの先、いったい何度こんな風に過ぎ去る夏の名残を惜しむことを、寄せては返す波の音にふたりで耳を傾けることを出来るのだろうか。その為に、私に出来ることがあるとすればそれは一体何だろうか。
 それはたぶん、これからゆっくり時間をかけながら、彼と共に見つけていくほかにないのだろうけれど。
「また来ようね、夏じゃなくてもいいから」
「ね、それも約束?」
「じゃあそうしよっか、約束」
 指切りの代わりのように、しなやかな指先が私の小指をきつく握りしめる。視線のその先では、遠くに霞む水平線にゆっくりと夕陽が飲み込まれていくところだった。


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サークル名:午前三時の音楽(URL
執筆者名:高梨來

一言アピール
2015年にいちばん最初に出した本「ピアニストの恋ごころ」からの再録でした。現在は概ねカクヨムで読めますのでよろしくお願いいたします。/シリーズもののボーイズラブ小説を中心に、さまざまな形の優しくていとおしい関係性が紡ぐお話を書いています。

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