茨の海

 ユリスが生まれ育ったのはバルト海に面した港町であった。港に面した商店を営む家族の暮らしは海の男たちと共にあった。客として訪れる彼らから社会を学び、時に悪いことも教わりながら育った彼は、いずれ父の店を継ぐことを楽しみにしていた。しかし、それも今となっては過去の出来事である。
 ユリスは一人で店仕舞いを始めた。叩き割られた窓ガラスの破片を箒で集めて包み、代わりに板を打ち付ける。カウンターは既に中身を全て持って行かれて空っぽだ。僅かに略奪を免れた棚の商品の中から持てる限りの物を鞄に詰める。再びこの家に帰る日はいつかもわからない。
 一階の片づけを終えたところで、ユリスは自分が酷い汗をかいていることに気付いた。それは身体を動かしたからというよりも、自分の置かれた状況に対する恐怖によるものに違いなかった。原因はどうあれ、先に窓を塞いだのは失敗だったようだ。彼は仕方なく代わりにドアを開けた。海の風が入り込み、彼の身体は少しだけ楽になった。もっとも、南の国から来た客曰く、この海の風からは潮の香りがしない、とのことだが。
 ユリスの住んでいるラトビアは7月の始めにドイツ軍に侵略された。キリスト教徒の隣人たちは、大喜びで彼らを出迎えた。既にソ連に支配されていたこの国において、キリスト教徒にとってのドイツ軍は解放者だったのだ。だがユダヤ人に関していえば話は別である。この侵攻は恐怖の幕開け以外の何物でもなかった。僅か3週間にも満たないうちに、この国のユダヤ人の市民権は剥奪され、ドイツに協力する者たちの手でしばしば全くの気紛れに殺害された。ユリスの家族も今日、そうした暴徒の犠牲になった。
 ユリスは階段を上がり、居住空間だった場所を見て回る。開けっ放しにされた母のクローゼットはすっからかんだ。ベッドの上にまで泥のついた靴で踏んだ跡がある。ここにはもう、値打ちのある物は何もない。彼は机の上に無傷で残っていた家族の写真を鞄に入れた。一家の温かな賑わいの写真は、略奪者にとって無価値だったのだろう。不幸中の、あまりにも細やかな幸いとして、ユリスの下着は手付かずだった。今や彼には、汗の染み込んだシャツしか、さよならを言う対象がない。
 施錠を再び確認し、彼は行く当てもないまま家を後にした。緯度の高いこの町にはユリスの身を隠してくれる完全な闇はない。何処まで行けるだろうか。彼は目の前に広がるバルト海を見て溜息を吐いた。真夜中の船着き場には人気がない。彼は海の傍を歩きたい衝動に駆られ、海辺へと降りて行った。
「おい、そこのお前。こんな時間にうろついてるってことは、ユダヤ人だな」
 ユリスは震え上がった。恐る恐る振り向くと、顎髭面の男が小型の貨物船から顔を出している。声の主はこの人物であるらしい。
「返事ぐらいしろよ。なあ、ユダヤ人なんだろ? スウェーデン行きだぜ。乗っていけよ」
 男は訛ったドイツ語で再び尋ねた。理解するまでに時間を要したが、どうやら男はユリスをこの町から連れ出して安全な所に連れて行ってくれるつもりらしかった。ユリスは頷き、震える足取りで恐る恐る桟橋から足を離して貨物船に乗り込んだ。彼が両足を甲板につけるや否や、男の合図で船は直ぐに港を後にした。
 船内からもう二人の男たちが姿を見せた。三人揃って背が高く、立派な体格をしている。服装や佇まいを見たところ、船乗りに偽装したドイツの保安警察ではなく、本物の海の男であるようだ。ただ、助けてもらった人間がこうした感情を抱くのは無礼かもしれないが、全くの善良な人間であるようにも見えない。そう感じて、ユリスは不安も露わに尋ねた。
「あの、助けてくれてありがとうございます。えっと……その、一体貴方たちは何者なんです?」
「人を捕る漁師だよ。船長がグスタフさんで、俺がホーコンだ。となると兄貴の芸名はクリスチャンしかないだろう」
 三人の中の一番若い男が答えた。ユリスはその返答が自己紹介以上の何らかの意味を持っていることは薄っすらと理解した。だがどう返せばいいかわからず黙っていると、今度はクリスチャンと呼ばれた男が口を開いた。
「自分たちの国では中々にウケがいいジョークなんだが、ラトビア人には通じないか」
「前回も全くウケなかったし、まあ通じないんだろうな」
船長も首を捻りながら口を挟んだ。
「で、お前の名前は?」
「ユリス・ローゼンベルクです」
 小さい頃に一度、ユリスがそう名乗った時、典型的なユダヤ人の名字だといって南から来たロシア人に侮蔑されたことがあった。実際にはバルト地方ではドイツ人にもよくある名前なのだが、馬鹿にした相手からはそんな正しさはどうでもよいらしかった。もし彼がまだ生きていたらどんな顔をするだろうか。それを証拠に、この地域を支配下に置いたナチスの東部占領地域担当大臣は名をアルフレート・ローゼンベルクというのだが。
「そうか。じゃあ、ユリス、船賃を払ってもらうぞ」
 ユリスは頷いて鞄を開け、入っていたウォッカの瓶を船長に差し出した。元より、警察に出くわしたらこれで見逃してもらう心算で入れていたものだった。男たちの目に喜びが浮かんだ。ユリスは二本目のウォッカを取り出し、クリスチャンに渡した。次にスピリタスも一番若いホーコンと名乗る男に手渡した。
「いいねぇ! お次は金目の物だな」
 男たちの視線はユリスの鞄に注がれた。彼らの姿はユリスの頭に学校の授業で習った古の海の略奪者ヴァイキングたちを彷彿とさせる。渡せるものといえば、魚の缶詰と、干し肉、それと煙草は詰められるだけ詰めてきた。だが、残る鞄の中身は自分の日用品であり、人に譲れるようなものなどない。ユリスは仕方なく腕にはめていた時計を外してグスタフ船長に渡した。
「……これだけ? 宝石とか、金の延べ棒とか、ないの? もっと沢山持ってるんだろ、なあ。正直に出せば、後でお釣りは返すからよ」
 船長にそう言われ、売値の付く物は何もないことを示すためにユリスは鞄の中身を全て床に並べた。三人の男達は空っぽになった鞄を振って溜息を吐いた。そして、煙草を分け合うと、残りの荷物をユリスに帰した。
「それにしても、ユダヤ人は皆しこたま金を隠し持ってるなんて大嘘じゃねえかよ。今まで拾った奴らは揃いも揃って一文無しで、儲けが出た例がねえ」
 船賃代わりの煙草に早速火を着けながら、船長はそうぼやいた。『ユダヤ人は皆裏で繋がっており、秘密結社を築いて世界の富を牛耳り政治を支配している。』こういった言葉はユダヤ人でない者が自分たちの生活の不満をユダヤ人の所為にする際にしばしば使うらしく、ユリスもキリスト教徒の隣人たちからうんざりするほど聞かされた。ユリスの町もかつては人口の三分の一をユダヤ人が占めていた。しかし、彼が生まれる以前から町は名実ともにラトビア人の物になっていたのだ。それにも関わらず、彼らは昔からの思い込みを省みようとはしない。
「そりゃ、決まってるだろ。皆ナチスに騙されてるんだよ。金持ちになりたかったら普通に働いたほうが早いぜ。まともな職につけるならな」
 クリスチャンが煙を吐きながら言った。
「いいや、俺は諦めないからな。絶対に大金持ちのユダヤ人を拾うまでやるぞ」
 船長がそう言うと、三人の男達は大声を上げて笑った。

 ユリスが連れていかれた先は倉庫と居住空間の区別も明確でない散らかった家だった。年上の二人は家につくや否や掃除もろくになされていないリビングのテーブルにグラスを並べ始めた。ユリスの船賃で酒盛りをしようというのだ。ユリスはと言うと、埃まみれの部屋に案内された。部屋に置かれたものを見るにどうやら元々子供部屋だったが、使われなくなって久しいらしい。
「今日はここに泊まっていくんだ。直ぐにでも休んだ方がいい。起きていても碌なものは見られないからな」
 ホーコンはそう言ったが、部屋から出ようとはしなかった。ユリスが大人しく従うまでそこを動くつもりはないようだ。他の男たちは先に酒を飲み始めたらしく、隣の部屋からは笑い声が響いた。ユリスは急かすような視線を感じてベッドに横たわった。
「あの、泊めていただいてありがとうございます。おやすみなさい」
 ユリスが身を起こしてそう言うと、ホーコンは身をかがめて彼の頭を乱暴に撫でた。
 三人の男たちは翌朝の食事も用意してくれた。といっても、ユリスが起きた頃には彼らの朝食は終わっており、二人は既に家にいなかった。海に行ったのだろうかとユリスは考えたが、ホーコンの話では店を回って次の仕事に向けた仕入れをしているところだという。仕入れと聞いて、ユリスの頭に考えが浮かんだ。
「僕、商売なら少しはわかります。お手伝いをさせてもらえませんか。助けていただいたけれど、行く当てがなくて……」
海の胡乱な男は目を丸くした。そして、戸惑いながら言葉を返した。
「いや、まあ嬉しいけどな。お前はこんな所にいていいのか? 昨日の一部始終を見てたらわかるだろ、未来ある若者がこんなやくざな仕事に関わるべきじゃないぞ」
 やはり、そう簡単に置いてもらえる筈もなかった。ユリスの落胆を他所に、ホーコンは紙切れを渡し壁に貼った地図を指差した。
「まあ聞け。俺たちの住処が地図のここだ。そしてそっちの紙に書いた住所はな、世界ユダヤ人会議だかなんだかの代表をやってる男の家だ。そこに行けば仕事もきっと見つかる。お前はまだ若くて体力もあるんだ。上手くやれば、パレスチナに行く切符くらいは買えるだろ」
 ホーコンはそう言うとユリスを無理やり家の外へと引っ張っていくのだった。そして幾らかのバス賃を握らせると彼の頭を再びぐしゃぐしゃと撫でた。強引に追い出そうというのだ。しかし、それが自分にとって最善の道なのだろう。ユリスは吐きかけた溜息を飲み込んで頷き、ようやく見えた希望に向けて真っ直ぐに歩き出した。


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サークル名:ナイスボート観光(URL
執筆者名:ミド

一言アピール
北欧の歴史等を題材にした小説を書きます。今回の新刊はナチスとハンガリーのユダヤ人を巡る話を出す予定です。アンソロジーもユダヤ人と不審な兄弟船の話にしてみました。

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