パトリツィアの場合
姉のパトリツィアが結婚した。
パトリツィアとパトリックは双子のきょうだいだ。同じ日に同じ母の腹から生まれ出でた。髪や瞳も色が同じで、ある程度成長するまでは身長にも差がなかった。しかも両親は悪魔の目を欺くためパトリックに女児の服を着せて育てた。したがってパトリックは――おそらくパトリツィアの方も――互いをとても身近に感じていた。自分の分身、もうひとりの自分である気さえしていた。
だからといって仲が良いかといえばそれはまた別の問題である。
パトリツィアは弟を可愛がっていたが、パトリックは姉があまり好きではなかった。
可愛がられていたからこそ、かもしれない。
「あなたを守ってあげる」――それがパトリツィアの口癖だ。
パトリックはあまり丈夫なこどもではなかった。対するパトリツィアは生命力に溢れていた。
両親は時々嘆いた。「性別が逆だったらよかったのに」。本当は男のパトリックにパトリツィアのような強さを求めている。あるいはパトリツィアが男だったらパトリックの弱さに一喜一憂しなくてもよかった。そんな両親の態度は幼いパトリックの心を深く傷つけた。
しかも、万が一パトリックが育たなかった時のことを考えた両親はパトリツィアにも教育を施した。彼女が次期当主となってもいいよう、礼儀作法や音楽だけでなく、政治経済や馬術も学ばせた。それがよくできるものだからパトリックは不安だった。姉に立場が脅かされていると思い一時は毎晩泣き濡れていたものだ。
双子はこのたび無事に揃って十七回目の夏を迎えた。
いつしか伸び始めたパトリックの背は今やパトリツィアを軽く超えている。剣や弓もうまく扱えるようになったし、異国の使節とも対等な会話ができるようになった。もはや両親もパトリックを姫とは呼ばない。
しかしパトリツィアだけは認識を改めていないようだ。
結果がこの結婚だった。
パトリツィアは嫁に行かなかった。
婿を取ったのだ。
パトリツィアはご機嫌だった。池の水面を鏡にして、自分の顔や服装を眺めながら鼻歌を歌っている。
その身にまとっているのは薄桃色のお気に入りのドレスで、やはりお気に入りの真珠の耳飾りをつけていた。豊かな長い髪は編み込んだ上でひとつに結い上げていた。
一階の廊下を歩いていたパトリックは、窓からそんな彼女の姿が見えたのでその場に立ち止まった。
パトリツィアのくせに女のようにめかし込んでいる――実際は確かに女だがパトリックは面白くない。あれほど男の自分の地位を揺さぶり続けていたパトリツィアが普通の年頃の娘のように振る舞っているのが嫌なのだ。
もしかしたら、今も自分の地位を揺さぶり続けているのかもしれない。
婿を取った――家を出ていかなかった。
パトリツィアにひとりの男が近づいてきた。パトリツィアの夫になった男アンスガルだ。
このアンスガルもパトリックは面白くない。
短く整えられた白金の髪は日光のように輝いており、氷色の瞳は涼しげである。しっかりした顔の輪郭はひげを丁寧に剃り上げていて滑らかだ。パトリックよりも背が高く、肩や胸も筋肉で厚くたくましいが、その身にまとう流行りの服は粋できまっている。
女に好かれそうないい男なのである。
最初聞いた時はこんな男が来るとは思っていなかった。
何せ彼は海の向こうから来た男だ。
海の向こうには凍てついた王国がある。王は蛮族の長だ。海の蛮族――金の髪とひげを長く伸ばして編み込み、熊や狼の毛皮をまとって槌や斧を振り回す。そして海に舟を出して沿岸部を略奪する。そんな恐ろしい蛮族の王の息子が来ると聞いていたのである。
実際に海の向こうから来たアンスガルは、金の髪と立派な体格は噂どおりだったが、清潔感のある青年で、この国の言葉を流暢に話せた。
あれだけ強くたくましく男勝りだったパトリツィアが、この男にはすぐになびいてしまった。今も二人で出掛けるのを楽しみにしてめかし込んでいる。
とてつもなく気分が悪い。
アンスガルがパトリツィアを手招きながら門へ向かって歩き出した。パトリツィアはすぐに彼に駆け寄って彼の腕に自分の腕を絡ませた。まるで普通の恋人同士のようだ。
何が、「私が結婚して王国と同盟を組めばあなたを守ってあげられるから」だ。「私は強い女だから蛮族なんて恐ろしくはないのよ」と言っていたパトリツィアが遠い。彼女もしょせん色男に転がされるただの女だったのだ。
それでも目を離せない。よせばいいと分かっているのにパトリツィアとアンスガルの後ろ姿を目で追い掛けてしまう。
目だけではない。気づくと足も動き出していた。
あの二人がどこで何をする気なのか気になる。
パトリックも急ぎ足で玄関へ向かった。
門を見ると二人の姿は遠ざかりつつあるところだった。
二人を見失わぬよう、パトリックも小走りで門を出ていった。
赤煉瓦の屋根と白い漆喰の壁でできた街が夏の太陽に照らされていた。澄んだ青空はどこまでも抜けるようだ。窓には季節の花が咲いている。こどもたちは井戸から汲み上げた水を掛け合って遊んでいる。
屋敷は都市の中の南側、丘状に盛り上がっている土地に築かれており、門から先は北の街に向かって下り坂になっている。パトリックは石畳を踏み締めながら街の方へおりていった。
大きな河が都市の真ん中を流れている。遠く南方にある森に端を発する大河だ。都市の北の海へ注いでいる。立派なアーチの橋がいくつかかけられており、今パトリックが渡った橋には犬の散歩をしている老人の姿があった。土手ではパトリツィアとアンスガルのような若い恋人たちが寄り添い合っている。
のどかな昼下がり、平和な都市の風景――パトリックの祖先がこの地を征服してからの百年で築き上げたものだ。海の蛮族に荒らされていた時代もあったのなど信じられない。
パトリツィアとアンスガルはゆっくりとした足取りで北の方へ向かっていた。
北――海だ。港がある。
港で海を見ながら語らう二人――本当に、ごく普通の恋人同士のようだ。
漆喰の家々の間を抜ける。足元はいつの間にか小さな赤い煉瓦のモザイクの石畳が終わって港の固く大きな石の床に変わっていた。
視界が開ける。
広大な海が広がる。
寄せては返す波の白い先端、杭につながれて揺れる無数の小舟、鳴き交わす海鳥の声、潮の香り――この都市を国際貿易都市たらしめる存在、すべての富のみなもとだ。
パトリツィアとアンスガルが木製の波止場の上に並んで立っている。互いに見つめ合い、何事かを話して楽しそうに笑い合っている。
何の話をしているのだろう。
停泊している軍船の陰に身を寄せつつ、二人に気づかれないよう密かに近づいた。
気持ちの悪い愛の言葉を囁いているのだと思っていた。
「――この東方の平野の民は未開でキリスト教徒じゃない。千も兵を揃えられれば簡単に落とせる。ただ冬になると雪が積もる、この辺りは潮が温かくて雪が積もらないから、寒さに慣れない兵は苦戦するだろう」
「まあ、では早めに兵を出さねばなりませんね」
「そう、秋の収穫を待っていたら遅い、向こうは十一月には雪が積もる」
「でも春は危険ではなくて? 雪解け水で河が増水します、荒れますわ」
「そのとおりだ。だから夏のうちに兵を出す、秋の収穫は現地の畑からとるんだ」
「なるほど、現地で! それならば秋の収穫を待って糧食を舟に積む必要はありませんね」
「となると出兵は八月か九月か――秋分の前がいい。秋分が過ぎたら帰ってきてこの都市の防衛に備える。何せ兄貴たちは冬の戦に慣れているからな――海が凍ったら氷の上を歩いて進軍する、そうなればあっと言う間だ。それまでにここに堤を造らないといけない」
「では先に堤を造ってから、植民は来年以降ですわね。ああ、楽しみ! 奴隷をたくさん連れて帰ってきましょう、郊外に牧場をつくるの――」
「ねえパトリック」と、パトリツィアの甘い声が言った。
パトリックは心の臓が止まったかと思った。
顔を上げた。
いつの間にかパトリツィアとアンスガルが振り向いていた。二人ともパトリックの方を見て微笑んでいた。
胸の中身が爆発しそうなほど強く脈打っている。
「強くて豊かな国をつくりましょうね」
パトリツィアが言う。
「あなたのためよ、パトリック。あなたの都市のために植民をするの」
その笑顔はとても美しく、咲き誇る大輪の花のようで、
「平野にも半島にも商館を増やしましょう。もっとたくさん税をとって楽しく暮らすのよ」
パトリックには、彼女が何を言っているのか、まったく分からなかった。
「そのために結婚したのですから」
アンスガルが、歩み寄ってくる。
「そう、大丈夫。何も心配ない。俺がこの都市のために最強の海軍をつくってやる――兄貴たちには負けないような。舟の使い方、海の渡り方、兵の動かし方――俺の知識とこの都市の富があれば何だってできるんだ」
その氷色の瞳には感情がないように見えた。獣の目だと思った。獰猛な、海の蛮族の目だ。
アンスガルの腕が伸びた。
大きな手が、パトリックの蒼ざめた頬を撫でる。
大きな手――たこのできた、大きな櫂や太い縄を繰る海の男の手だ。もしかしたら、槌や斧も握っていたかもしれない。
背筋が、寒くなる。
「可愛い顔だ。パトリツィアとそっくり」
耳元で甘く囁かれた。アンスガルから潮の香りがした。
「いつまでも守ってあげる」
アンスガルの肩越しに、パトリツィアが笑っているのが見える。
「お姉様に任せなさい。パトリックのためなら何でもしてあげますからね――」
ドレスの裾が潮風にあおられてはためいていた。
サークル名:イノセントフラワァ(URL)
執筆者名:丹羽夏子一言アピール
丹羽夏子(HN:SHASHA)の一人楽しいサークル。架空の国や地域を舞台にした歴史ものっぽいファンタジーを書いています。政略結婚が大好きで一人政略結婚アンソロなども発行しております。夫婦の形はけしてひとつではないのです。そこにあるのは恋かもしれないし、恋ではないかもしれない。そんなお話ばっかりです。