海に臨む砂漠
世界には、海、という水を満々と湛えた場所があるという。
俺はそれを、通りすがりの旅人から聞いた。どこまでも続くような砂漠の中だった。海も、それが刻々と広がっているということも、想像もつかないような場所だ。
俺たちは山羊と共に僅かな草を求めて移動しながら暮らしている。旅人というものに出会うのは、ないことではないけれど珍しい。町でならともかく、広い砂漠の中で僅かな遊牧民ともっと僅かな旅人が出会うことなど、まず起きない。
彼は、その滅多にない旅人だった。もう何年も前のことだ。俺は十四になったばかりで、そのとき放牧のために集落を離れて山羊を連れていた者たちの中で一番年少だった。金色の髪も鮮やかな緑の目も、俺には見たことのないものだった。
「海みたいだね」
月のない夜だった。
砂も暗く沈んで、夜空と同じ色だった。
「海?」
海というものを聞いたことがなかったわけじゃない。でも、水がたくさんあるという場所と、砂だらけの目の前の景色が似ているとは、とても思えなかった。
「一面ずーっと水があるんだ。この砂漠みたいに」
緑の目が暗い砂漠の遠くを見る。
「こことは全然違うよ」
ここには水なんて少ししかない。だから俺たちは、すぐに涸れる水を追って移動し続けなきゃならない。
彼は、そうだね、と微笑んだ。
「でも、一つのものが一面に、ほかを呑み込むくらいたくさんある、という点では似てる」
似てる、と彼は断言する。
「海も、人や町を呑み込むの?」
「ああ」
頷いた彼の目には憂いも恐れもなくて、ただしんと透き通るようだった。
「波が、」
聞き慣れない単語に首を傾げた俺に、彼は腕をゆらゆらさせて説明してくれた。
「海の水は、岸辺に寄せて、引いて、を繰り返すんだ」
彼の腕がうねる。
「少しの大きな波でも人間は攫われてしまうし、ときどき、すごく大きな波が来て、町ごと呑み込んでしまう」
「すごいな」
そんなに大きな水を、俺は想像できない。
俺が見たことがある一番多い水は、井戸から汲み上げられた水だ。山羊たちが何頭もいっぺんに飲めるくらいの水。
「海も、と言ってたけど、砂漠も人や町を呑み込むの?」
緑の目が俺を見る。焚き火に照らされたその目がなんだかまぶしくて、俺はやっと頷く。
「流砂って言って、」
「流砂」
彼は俺の言葉を繰り返す。綺麗な発音だと思った。
「昔はあまりなかったらしいんだけど、最近増えてるんだって」
砂漠の近くの町が少しずつ消えていると、大人たちが言っていた。
俺がそう言うと彼は、ああ、と静かに頷いた。
「砂漠も広がっているんだね」
砂に滲みていくような声だった。
「砂漠も?」
俺が訊いたら、悪戯がバレたみたいに笑って、
「海もだよ」
と言った。
「海はどんどん広がってる」
「全然想像がつかない」
ここには、ほんの少しの水しかないのに。
海なんて、うんと遠くにだって見えやしない。
それでも彼は続ける。
「陸の動物が暮らせる土地は、どんどん減ってると言われてる」
「陸の動物は、海では暮らせないから?」
「そう」
「海には魚がいるんでしょ?」
俺は見たことがないけれど。
「いるよ。いろいろ、たくさんいる」
小さいけれど大きな群れをつくる魚たち、それを捕食する大きな魚、泳ぎ続けなければ生きられない魚――
「魚以外のものもいるよ」
足が何本もある烏賊や蛸、硬い殻に篭る貝、長く伸びる海草、色とりどりの珊瑚――
聞いたことのないものばかりだ。見渡す限りの砂漠には、俺たちや山羊や駱駝のほかには、砂と、少しの植物と、たまに蠍がいるくらい。視界のほとんどは薄茶色。海の中は賑やかそうだ。
「すごく大きな生き物もいる。鯨とか。俺たちなんて呑み込まれちゃうくらいの大きさだよ」
「想像がつかない」
正直にそう言ったら、彼はふふ、と笑って、小石で砂に絵を描いた。細長くてちょっと丸っこい形、大きくて変な形の尻尾。
「鰭って言うんだ」
尻尾じゃなくて、ひれ。
「これが鯨?」
「そう。これがもっとずーっと大きい」
「色は?」
「黒、かな」
なめらかな形で黒くて巨大な生き物を想像してみる。ゆらりと夜空を横切っていく。
「鯨は海にいるけど、人間と同じ哺乳類なんだ」
「ほにゅうるい?」
「人間とか、山羊や駱駝とか」
鯨が泳ぐ空の下、今は山羊も駱駝も眠ってる。
「メスが子供に乳を与えて育てて、肺呼吸をする」
「はいこきゅう?」
「鼻や口から空気を吸ったり吐いたり、」
彼が深呼吸して見せる。
「水の中で、どうやって空気を吸うの?」
「呼吸するときだけ、海の上に顔を出すんだ」
「忙しそう」
息を吸ったり吐いたりするたびに顔を出すなんて。
「息が長く続くんだよ」
優しい声で彼が言う。
「海にいる哺乳類は、呼吸の回数が少なくて済むように、息が長く続くようになったんだよ」
海に適応するように進化したんだ、と彼は言う。
「進化」
そう、と彼が頷く。
「でも生物はみんな、元は海から来たんだと言われてる」
「海から? 人間も?」
それは、とても信じられないことだった。俺たちは乾いた地面の上で空気を吸って暮らしていて、鯨のように海の中で泳いだり息が長く続いたり、きっとできない。
「人間は、陸で暮らすのに適応したんだよ」
彼が砂の上の足をぱたぱたさせる。人間の二本の足は、陸を歩くためのもの。
「鯨にも昔は手足があったんだ。でも彼らはまた海へ入って適応して、手足は鰭になった」
「どうして海で暮らそうと思ったの」
ずっと陸にいれば、進化なんてものをする必要もなかったのに。
「さあ、なんでだろう」
いつも遠くを見ているような緑の目が、ふいにきょろきょろと動く。視線の先で、穴から這い出した蠍がどこかへ歩いて行った。
「外敵から逃げてとか、餌を求めてとか、たぶんそういうことだとは思うけど」
海へ行こうと思うほど、追い詰められていたのだろうか。
「人間も海で暮らさなきゃいけなくなったら、この手足もいつかひれになるのかな?」
火にかざした手には頼りない五本の指。きっと水の中では役に立たない。
「いつかは、そうなるかもしれない」
彼も自分の手を見て言った。
「海へ戻ったら、海に適応できなければ種として生き残れない」
形を変えるか、滅びるか、どちらかだと彼は言う。
「どちらにせよ、俺たちより何代か後の話だよ」
たぶん、と付け足した彼は、
「人魚って知ってる?」
と言った。
知らない、と首を振ったら、上半身が人間で下半身が魚の姿をした生き物だと言う。
「昔、人間も海へ戻ろうとしたことがあるんだって」
「人間が?」
うん、と頷く。緑の目は、また遠くを見る。
「もう陸では暮らしていけないと思ったんだろうね」
静かな声だった。
「ずっと昔の話だよ」
と僕を見て笑った。うんと小さい頃に見た、子守唄を歌う前の大人みたいな顔だと思った。
「大きな船で海を漂ったり、海底に町をつくってみたりしたらしい」
おとぎ話みたいだ。
「そのときに、海に適応した人間もいたんだって」
「人間も海に適応できたの?」
「それを信じるならね」
おとぎ話みたいなものだよ、と彼は笑った。
「そもそも人間が海に逃げていたってこと自体、もう伝承や遺跡でしかわからない」
もう誰も知らないくらい昔の話、と言う彼の声は、歌うようだった。
「結局人間は海には適応できなくて、陸に戻ってきた」
彼の声はどこまでも静かだ。
「昔の人たちは、どうして陸では暮らせないって思ったの?」
「危険だったから」
「どんな?」
「大きな戦争があったし、有害なものが辺りにたくさんあったんだって」
今は、と訊いたら彼が少し首を傾げる。
「安全なの?」
「どうだろうなあ」
彼は天を仰ぐように上を見た。月がなくて、無数の星がまたたく夜だった。彼の夜空に、鯨は泳ぐだろうか。
「人間は今は海から逃げてるんだって」
ふうん。相槌とあくびが混ざった。
「夜更かしさせちゃったね」
彼が笑う。
俺は首を振った。遠くから来た旅人が話す見知らぬ世界の話は、いくらでも聞きたかった。
「人魚は、まだ海にいるのかな」
「どうだろう」
いるなら会ってみたい? と彼が俺を覗きこむ。
俺は首を傾げて考え込んだ。下半身が魚の人間。鯨より想像がつかない。それで同じ質問を返したら、彼も少し考え込んだ。
「会ってみたいかもしれない」
秘密を打ち明けるみたいな笑みだった。
翌朝、旅人はふたたび旅立って行った。
どこへ向かう旅だったのかは知らない。
別れ際に「またね」と言って笑った彼の目が鮮やかな緑で、行ったことはないけれど水が豊富な場所の植物はもしかしたらこんな色をしているのかもしれないと思った。ここで見る植物は砂にまみれてほとんど灰色だ。海の中に生えるという海草は、緑だろうか?
彼が旅立って後、旅人というものには出会っていない。彼は人魚に出会っただろうか。
あれから何年も経って、俺は変わらず砂漠の中で、海はどこにも見えない。周辺の町はいくつも砂に呑み込まれた。砂漠はどんどん広がる。草を求めてどこまで行っても砂にまみれた陸があるだけで、海はうんと遠くにだって見えやしない。俺は生きている間に海を見るだろうか。
「またね」と言った彼と、この広い砂漠で再び出会うことはあるだろうか。
サークル名:サテライト! (URL)
執筆者名:古月玲一言アピール
雑多にささやかなお話――ゆるふわSFやちょっとしたファンタジーや小さな男子寮の日常(太白寮小景)などを書いています。