霧惑海峡の幽霊船
霧惑海峡における怪奇現象は、
かつては激戦区であった女王国と帝国の間に位置するかの海峡は、カルト教団『
だが、その頃から、奇怪な噂を耳にするようになったのだ。
――海峡を行く船が消える、と。
元より、かの海峡は天候の変化が激しい。アーサーも幾度となく突然の嵐や凪に悩まされた記憶がある。
だが、そのような突然の嵐による難破とは別に、忽然と船が「消える」のだという。消えた船との通信も途絶し、結局今の今まで発見されていない。
その謎は長らく解明されることなく、そして、ある時期を境に船が消えることはなくなった。消えた理由も、突然消えなくなった理由もわからないままに、怪奇現象は「伝説」となってしまったのだった。
「とはいえ、どんな不思議にも『真相』はつき物ですよ」
アーサーは
霧の海における視界はゼロに近い。しかし、
頼りなく揺れる「それ」を一言で説明することは、流石のアーサーにも難しかった。難破船、と言ってしまえばそれまでだが、その言葉で片付けるにはあまりにも乱暴に過ぎた。
壊れた船に壊れた船を継ぎ足して、アクセントとばかりに飛行艇の翼を突き刺して。やたらと高く聳えるのは軍用艇の見張り台だろうか。そんな、あまりにも現実味の無い継ぎ接ぎの船が、霧の海の上にぽつりと浮かんでいる。
「なるほどねえ、これが噂の『幽霊船』ですか」
海峡のど真ん中辺りに、船籍も不明で通信にも応答しない、奇妙な船が浮かんでいる――。その報告を受け、暇を持て余していたアーサーが調査を買って出たのであった。元より情報収集は「見なくてもわかる」どこぞの教祖様ほどではないとはいえ、アーサーの得意分野だ。一人で一つの親機と三つの子機を操り、四方向から対象を観測することは、他の
僚機であるもう一隻の
『……しかし、これほどまでの奇妙な船舶が浮かんでいて、かつ今まで発見されなかったというのは、驚きですね』
『調べようにも調べられなかったんですよ。
今となっちゃそれも過去の話ですけど、と
『オレが降ります。……「コーディリア」たちは海に残しときますが、近辺の監視をお願いします。帝国の連中に見つかるのもめんどくさいですからね。誤魔化すのはオタクの方が得意でしょ』
『了解しました、中尉。どうか、お気をつけください』
相変わらずお堅いねえ、と苦笑いしながら『キング・リア』を降下させる。戦闘艇と違って
「……これなら、降りても大丈夫そう、ですかね」
うなじにつけていた同調器を外し、『キング・リア』との同調を切って、アーサーは
手首のスナップ一つで明かりを生み出し、今にも崩れそうな船の中へとそろそろと潜りこんでいく。
濃霧面の波に合わせて軋む音色以外にすっかり音の失われた、継ぎ接ぎの船。自分以外の人間の気配は、五感を通しても感じられないし、外の『コーディリア』たちの探査にも引っかからない。もちろん船の上に浮かぶ僚機も同じようなものだろう。
ただ、ここに「今まで」誰もいなかったかというと、そんなことはない、とアーサーは確信する。船と船の間を繋ぐ不格好な橋や修繕の形跡、過剰なまでに溜め込まれた保存食、修理に修理を重ね、つい最近まで動いていたとみられる製水機関。明確な時期まではわからないが、それでも過去のある一時期、ここには確かに誰かが住んでいたのだ。
かつては客船だったであろう部屋を確かめていったところ、そのうち一つの部屋には、今やすっかり埃が積もっているものの、妙に綺麗に設えられた寝台があり、サイドテーブルには瓶に生けられた花がひっそりと枯れ果てていた。
客船の廊下を抜けると、今度は戦艦の一角へと導かれる。この海峡で行方を絶った戦艦の一部に違いなかった。アーサーは一つ息をつき、深く潜りすぎただろうか、と辺りの気配を確認するが、特に自分以外の気配はなく、船が霧に呑まれるような様子も感じられなかったため、もう少しだけ探索を続けようと決める。
いくつかの区画を確かめて、やがて、アーサーは一つの扉の前に立つ。
廊下に積もった塵の具合や、何度も扉を開閉した形跡から、この扉が最もよく「過去にこの船にいた何者か」に使われていたものであろう、と判断できた。
今更警戒する理由も感じられなかったので、無造作に扉を開き――。
視界に飛び込んできたのは、壁一面に貼られた海図だった。
海図。そう、海図だ。壁だけではない。床にも、机や寝台の上にも。幾枚もの海図が撒き散らされている。窓から流れ込む霧に焼けた海図は、もはや何が書かれていたのかも判然としないが、唯一、はっきりと「読み取れる」ものがあった。
『やあ、親愛なる船乗りの諸君! これを最初に見つけたのは一体誰だったのかな』
真正面の壁に貼り付けられた海図に踊る、弾むような、それでいて荒々しい筆跡の、女王国語。べったりと、インクを直接指でなすりつけたとみられる太く荒れた文字を目で追いかけて、ぞくりとした。
『なーんて、ね。わかっているよ。アーサー・パーシング』
書かれていたのが、そこだけがやたらと端整な筆記体で書かれたアーサー自身の名前であったから。その後はまた、荒れた筆跡での文面が続く。
『君はきっとこれを最初に見つけるだろう。これを書いている当時の状況を鑑みるに、駆り出されるのはまず君だろうし、君以外にこれを見つけられるとも思わない。だから、私の考えが及ばない可能性は全て無視して、アーサー、君一人のために話をしよう』
まるで、そこに、文字を読み上げる一人の男が立っているような錯覚を覚える。
アーサーがよく知る――もしくは全く知り得なかった男。まさしくこの「幽霊船」の主に相応しい、今となってはその顔立ちすらも霧に霞んだかのように思い出せなくなってしまった、けれど確かにそこにいた「誰か」。
「どうして、あんたは……」
虚空に吐き出した言葉に、アーサーの幻想でしかない男は応えない。それはそうだ、かの男は、インクですっかり染まってしまった長い指を海図の上に走らせる、という行為を通して、遠い過去に既に語り終えているのだから。
『私の記録は全て霧の海に沈めた。もはや君を含めた誰にも見つけられやしない。記録の消失こそが私の死だ。そして、ここから始まる航海こそが、もはや誰でもない「私」の矜持の果てだ。けれど、その前に、君にだけは伝えておこうと思う』
踏みしめた海図に滲む、いくつもの血痕。果たしてこれを書いていた人物がどのような状態にあったのか、アーサーは想像することしかできないが、十中八九、ろくな状態ではなかったはずだ。記録は何一つ残っていなくとも、アーサーの魂魄に刻まれた記憶はそう告げている。
それでも、幻影の男はアーサーの前で朗らかに笑う。不思議と「笑っている」のだとわかる筆致で、こう「語って」みせるのだ。
『ありがとう、アーサー。君は私の友ではなかったかもしれないけれど、』
『君と共に在れたことを、誇りに思う』
そこで、文字は途絶え、アーサーの視界から幻影が消える。文面のどこにも署名はなかったが、それもまた、アーサーの知るあの男らしかった。
「あー、ったくもう」
アーサーは己の金髪を掻き、くしゃりと顔を歪めてみせる。
「どこまでも気障ったらしくて腹立たしい野郎ですねえ、あんたって人は……」
誰にともなく語りかけながら、その目に滲むものは、アーサー自身にしか知りえない。
――霧惑海峡の幽霊は、もう、どこにもいないのだから。
サークル名:シアワセモノマニア(URL)
執筆者名:青波零也一言アピール
「幸せな人による、幸せな人のための、幸せな物語」をモットーに、ライトでゆるふわな物語を綴る空想娯楽屋。不思議な架空都市を舞台にした現代もの、霧深き世界に生きて逝く人々のSF風ファンタジーを中心に取り扱っています。こちらはテキレボ新刊のおっさん少女恋愛ファンタジー『彷徨舞弄のファンタズム』関連作です。