うしお通信

『助けて』

 たったの一言。たったの三文字。
 弱々しい筆圧の鉛筆で書かれたその言葉が、男の頭の中に激しく反響した。
「――っぷ、あははは!」
 狂ったような抱腹絶倒の笑い声が、空を突き抜けんばかりに響き渡った。だがその勢いは徐々に衰え、ほどなく男は大きなため息を零した。
「助けてほしいのは俺の方だっての……」
 彼、颯一朗そういちろうは、今日こんにちまでのおよそ三か月間、この無人島でのサバイバル生活を余儀なくされていた。

 その日颯一朗は、自分の船で沖へ出て釣りを楽しんでいた。釣果は上々。今夜は盛大な宴会を想像しながら、意気揚々と港へ船を戻そうとしていた矢先だった。突如、船が浮かび上がるような強風に襲われた。
 颯一朗は操縦席の椅子につかまり、風をしのいだ。その最中にふと目を開けたところ、窓の外、渦巻く紫色の風の中に虹色のうろこを持つ龍の姿を見た――ような気がした。
 気づけば風は止んでいた。虹色の龍の姿はどこにもなく、穏やかな海原が漠然と広がっているだけだった。
 混乱しつつも、ともかく陸に戻ろうと、颯一朗は船を動かそうとした。が、エンジンや通信機器はまるで反応せず、船を動かすことができなかった。
 颯一朗は必死に事態の修復に努めた。が、夜になっても全く改善しなかった。スマホも使えなくなっていたこの状況に、男は絶望する他なかった。
 だがその翌日、船は導かれるようにして、小さな島に漂着した。
 上陸するまでもなく、颯一朗はここがおあつらえ向きな無人島だと察した。そしてある程度島を散策したことで、それは核心に変わった。
 奇しくも颯一朗は、その手の知識を持っていた。とは言え、いざサバイバルをせざるを得ない状況に立たされると、興奮よりも不安の方が遥かに大きかった。
 飲み水をすぐに確保できたことは、不幸中の幸いであった。散策した際に発見することができた。浜から河口を辿り、森へと入ってしばらく進むと、川の源流である湧水が滴り落ちる場所に行きつく。
 ここは、菱形ひしがたをしたこの島を南北に両断するようにそびえる、巨大な岩壁の麓に位置した。海上から見た時も、その圧倒的なスケールに圧巻された颯一朗であったが、改めて目の前にし、感動を覚えた。
 颯一郎はここを拠点にして、食料や火の確保も行った。さらには森の中に簡易な家を建築した。
 こうして、颯一朗のサバイバル生活は本格化していった。

 それを見つけたのは、颯一朗が浜辺の漂着物を物色していた時だった。まるで彼が来るのを待っていたかのように、瓶が一つ、浜に打ち上げられた。綺麗な空き瓶は水を溜めておくのに重宝する。
「今日は幸先いいな」
 上機嫌に拾い上げたところで、颯一朗はそれが空き瓶ではないことに気づく。
 中には、四つに折り畳まれた紙が入っていた。ノートか何かを破ったもののようだ。
「手紙か?」
 颯一朗はキツく閉められたキャップを開け、紙を取り出した。一体何が書かれているのか。少なからず胸を高鳴らせ、紙を開いた。そして『助けて』の言葉に、激しい嘲笑と激しい落胆、さらには沸々と湧き出る怒りを味わった。
 この三か月間、可能な限り浜にいた颯一朗であるが、船や飛行機などの姿を見たことは一度もなかった。やって来るのは、いつの時代のものともわからない、古ぼけた漂着物ばかりであった。
 颯一朗は停泊させている自分の船に向かった。船は、一縷いちるの望みを捨てず度々メンテナンスしている。無論、復旧する気配は微塵にもない。
 操縦室のラックからボールペンを取り出すと、颯一郎は件の言葉の真下に、思いの丈をぶつける。

『こっちのセリフだ!』

 それを、メッセージが目立つようにそちらを外側にして四つ折りすると、瓶に戻し入れてキツく口を締める。そしてあらん限りの力で、甲板から海へと放り投げた。
「ったく、状況を考えろ」
 瓶の行く末を見守ることなく、颯一朗は居住地へと帰った。

 翌々日、件の瓶は再び浜に流れ着いていた。波に戻されたのかと思ったが、中身の紙の折り方が違うことに間もなく気づいた。メッセージを書いた面が内側になっているのだ。颯一朗は、大急ぎで瓶から手紙を取り出した。

『あなたはどちら様でいらっしゃいますか?』

 颯一朗が書いた『こっちのセリフだ!』の言葉の上に、そう書かれていた。『助けて』の筆跡とよく似ているが、筆圧は幾分強くなっていた。
「返事が返ってきた……?」
 混乱から重複表現を口にする颯一朗。だがそれはほどなく苛立ちへと変化した。
「『どちら様』って何だよ。お前こそどちら様だよ。こっちはもう三か月も無人島で生活してんだぞ!」
 颯一朗は船に走った。そして真っ白な紙面を埋め尽くさん勢いで、自身のプロフィールを書き殴る。
 氏名、年齢、生年月日、星座、干支、血液型、携帯の電話番号とメールアドレス、家族構成、本籍、現住所、学歴、職歴を書き、さらには現在自身が置かれている状況を事細かに説明するーーためには少々余白がなかったため、メモ用紙を追加して、ようやっと書き終えた。
 それを折って瓶に封入したならば、息が上がっているのもお構いなしに、渾身の力で海へ投擲とうてきした。一回目よりも大きく記録を伸ばした。
「あぁ、ムカつく! こうなったらタコでも獲って踊り食いしてやる!」
 颯一朗はもりなどの道具を取りに、大股で拠点へと戻った。今回もまた、潮に運ばれる瓶の行き先を見届けることはなかった。

 さらに翌々日。件の瓶をまたしても発見した。散歩がてら浜へと探しに出て、案の定、あった。どうやら今回も返信があるようだ。
 恨み口で書かれているのだろうか。そう思っていた颯一郎だが、その内容は予想を大きく外れていた。

『あなた様も無人の島で生活をしていらっしゃるのですか』

 相手は小海おうみなぎと名乗った。彼女もまた、舟が難破した末に無人島へ漂着しており、かれこれ半年以上も一人で生活していたという。そのかいつまんだ内容が、米粒に般若心経を書くが如く、極小の字でつづられている。

『先日、わたくしは左脚などを骨折する大怪我を負いました。以来、まともに食料を確保することもあたわず、体力も気力も衰弱する一方でした。このまま死を待つばかりだったわたくしは、よもや自暴自棄になっていたのでしょう。紙片に戯言たわごとしたため、空き瓶に入れて海に流しました。しかしそれが一筋の光となったのです。何を隠そう、颯一朗様からのこの文でございます。せめてこの命が続く限り、わたくしの文通相手になって頂きたく、お願い申し上げます』

「文通相手って言われてもな……」
 颯一郎は頭を掻いた。この生活に慣れてきたとはいえ、そう呑気のんきなことをしていられる状況ではない。だが、彼女は助けを求めている。
 颯一朗は腕を組み、考え続けた。ほどなく、大きく肩を竦めた。
「『言葉で人を救える人間になりなさい』ってか?」

「良いですか、颯一郎さん」
 曾祖母は凛とした佇まいで言う。齢八十とは思えないほど、その瞳には力強さがあり、颯一朗少年が少なからず苦手とするところであった。
「人と人とは、支え合っていかなければ生きてはいけません。そのためには、相手のことを慮り、そしていつくしむことが大切です。暴力を振るって相手を傷つけるなど、本来あってはならないのです」
「けどあれはあいつらが先に――!」
 颯一郎少年は曾祖母に一睨みされ、思わず口を紡いだ。
「颯一郎さん、人は会話をする生き物です。暴力ではなく、言葉で解決しなさい。そしてゆくゆくは、あなたは言葉で人を救える人間になりなさい。そうなってほしくて、私はあなたにその名を授けたのですから。わかりましたか?」
 颯一郎少年は生返事をし、隠れて下唇をヌッと出した。
 その数日後、曾祖母は急死した。

「こんなところで曾祖母おおばあちゃんの言葉を思い出すなんて……。名前が同じだからか?」
 から笑いもそこそこに、颯一郎は再び手紙に目を落とした。
「ここで野垂れ死にする前に、人助けの一つでもしておくか」
 颯一郎は船に向かうと、早速手紙を書き始める。手紙などまともに書いたことがないゆえに苦労したが、何とか書き上げた。そして今回は、子どもとキャッチボールをするような優しい投げ方で送り出した。

 凪からの手紙はいつも通り、一日開けて颯一郎の元に届いた。このやり取りも早十回目を迎えていた。

『わたくしは旧家の生まれで、代々伝わる仕来りに従い、生きて参りました。しかしながら、この激動の時代故、このままではいけないと一念発起し、両親の反対を押し切って諸外国を巡る旅に出ることにしたのです』

 その最中に嵐に遭い、無人島へと漂着したのだという。
 文面から、自分と凪には随分と育ちの違いがあること、颯一郎は常々感じていた。きっと彼女の実家は、日本家屋の老舗旅館のような豪邸なのだろうなと想像した。
 育ちの違いこそあれど、境遇や状況は酷似していた。凪もまた、紫色の嵐ので虹色の鱗を持つ龍の姿を見たという。そして極めつけは、島の様子だ。彼女のいる無人島の中央にも、巨大な岩壁がそびえているらしい。

『岩壁は島の南側に聳えているため、日の当たる場所は限られている上に、その時間も大変短いです。そこで無謀にも、わたくしは岩壁を越えて島の反対側へ行こうと決意したのですが、半分も到達する前に滑落し、今のような有り様でございます』

 颯一郎の頭に、ある想像が浮かんだ。それをより濃くしたのは、海に流した瓶の行き先だ。
 島の周囲には、島を時計回りに巡る奇妙な海流が存在しているらしい。海へ流した瓶はゆっくりと西の方角へと流れていき、岩壁の向こうへと消えていく。そして今朝偶然にも、島の東側から瓶が流れてくるのを目撃した。
 およそ一日置きに来る手紙。周囲には他に島はない。時計回りの海流。島の中央に聳える岩壁。凪は南に、自分は北にそれがある。
「同じ島にいるのか?」
 颯一郎は浜から、背後にあるそれを眺める。城壁のように立ち塞がるこの向こう側に凪がいるかもしれない。
 颯一郎は腹ごしらえをした後、島の西端に向かった。北へ向かうほどに、剣山のように険しい岩場が乱立し、侵入者を拒むかのような荒波が、絶えず押し寄せている。
 颯一郎は波が弱くなっているポイントを探して、そこから入水。反対側を目指した。やや大外を回る形になったが、潮に上手く乗れたからか、予想以上にあっさりと反対側に来ることができた。
 一見すれば、元いた場所に戻ってきてしまったのかと見紛う光景が、そこにはあった。北側は、颯一郎がいた南側とほぼ同じ様子だった。唯一といっていい違いは、船があるかどうか、日陰か日向ひなたか、その程度である。
 呆然とした颯一郎であったが、それを抑え、岩壁を貫かん勢いで叫ぶ。
「凪さーん! いたら返事してくださーい!」
 しばらく待ったが、返事はなかった。穏やかな波の音と、野鳥の鳴き声ばかりが颯一郎の耳に届く。
「凪さーん! 俺です! 颯一郎です! いたら返事してください!」
 颯一郎は呼びかけを絶やさず、森へと入っていった。
 森の中でさえ、北側は南側とよく似ていた。普段から拠点の目印にしている、洞のある木もそっくりに存在した。ここが南側であれば、颯一郎が増改築を繰り返した不格好な拠点が間もなく現れる。だが拠点はもちろんなかった。いまだ、人がいた形跡すら見つけられなかった。
 岩壁の麓にも足を運んだ。そこも、湧水が流れ出ている見慣れた光景があるだけ――ではなかった。その横に文字が彫られていた。辛うじて判読できるそれを、颯一郎は食い入るように読んだ。

 ソウイチロウさまへ

 もしこれをごランになっていたとすれば そのころにはもう わたくしはこの世にはいないものとゾンじ上げます
 それは わたくしがゼツメイしたからでなく そもそも生きているジダイがコトなるからです
 コウトウムケイではございますが わたくしがこの文をツヅっているのは 一九二十年代のことでございます 
 あなたさまが生きているジダイよりも 百年も昔のことでございます
 リクツはわかりません
 けれど わたくしがあなたさまのコトバでイノチをスクわれたことはマチガいございません
 ミジカいあいだではございましたが ホントウにアリガトウ
 あなたさまがブジにごセイカンできることを 心より祈っております

 オウミ ナギより

 
 理解が追い付かなかった。だが不思議と腑に落ちていた。
 日が暮れ始めた。颯一朗は、笑うでもなく、泣くでもなく、文字を指で丁寧になぞってから、その場を去った。
 浜に戻ってきて、颯一郎は驚いた。浅瀬には自分の船があり、さらにその上には、あの虹色の鱗の龍がいた。
 颯一郎は恐る恐る船に乗り込んだ。ほどなく、船が浮くような突風が起こり、船の周囲に紫色の風が巻き起こった。

 
「もう体の方は平気なの?」
 祖母は心底心配そうに颯一郎に言った。
「もうも半年前だよ? さすがにダイジョブだよ」
 そう言って、颯一郎は玄関に上がった。相変わらず老舗旅館みたいな家だと思いながら、だ。
「それより、電話で言っておいたあれ、ちゃんとある?」
「えぇ、居間に用意してあるけど、急にどうしたの? 『曾祖母おおばあちゃんのことが知りたい』だなんて。あなた、小さい頃はお母さんのこと怖がってたでしょ?」
「ま、俺も成長したってことだよ」
 二人は宴会場のような広い居間にやってきた。中央の大机には、古いアルバムや手帳などが山のようにあった。
 颯一郎は目についた手帳の一冊を手に取った。日記帳だったその表紙には、それを記した期間の他に、曾祖母の名前がある。
 小海凪、と。
 颯一朗は頬を緩ませながら、ページを開いた。


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執筆者名:紙男

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