灰、鉛、鈍
片足もげたが、両足義足なので痛みはなかった。
右手にもげた右足を、左手に鈍色貝を盛った藤籠を。どちらもぶらりと揺らしながら、ボクは灰色の砂を一人飛び跳ね進む。
大人達は偉そうな顔をして、やりたくない事なら子どもにだって押しつける。ドブのような海に潜って鈍色貝を拾い上げては、町の工場へ。
いつか必ず、濁った海から抜け出してやる。けれど、ボクは未だに踏み出せていない。時機が、あるからだ。
ボクは毎日待っている。その時が来るのを。そして、来た。
海水たっぷりの服がすぐに乾く潮風に吹かれ、薄汚れた白い外套を着込んだ旅人が、灰色の砂を踏み締めている。老人みたいな白髪の下で、血みたいな目がボクを捉えた。
そいつは、ボクより少し上の男の子だった。
旅人そのものが稀だけど、あんなに若い奴は初めて見る。ここには灰色に濁った海と、灰色を吸った鋼のような鈍色貝しかないっていうのに。ボクは右足を付けながら、そいつに声をかけてみた。
「あんた、名前は?」
「柘榴」
「シャリュウ? 変な名前」
名前と見た目がしっくりこないけど、気にせずボクは続ける。
「シャリュウは旅をしてるの? こんな辺鄙なトコまで」
「……通り道の、寄り道に」
「ふぅん。だろうね」
軽く笑ってやってから、ボクは海を見た。
本当の海は、快晴と似た色をしているらしい。けれど、この海は鈍色貝が出す毒素のせいで、常に濁った灰色をしている。わざわざそれを見に来るような奴に、会ったことなんてない。
「まぁいいや」
声に出し、無駄にぴかぴか光る真珠色の右足の動作を確認しながら、旅人を顎で差す。
「ここで会ったのも何かの縁、ってやつだし、町の案内ならするよ」
シャリュウは真っ赤な目をぱちくりとさせたけど、ややあって小さく頷いてくれた。
くっつけた右足の動きに不備はないけど、後できちんと接続口を見て整備しておこう。頭の中に書き込んで、ボクは歩き始める。
案内、と口にしたとはいえ、この町は小さいし、見て楽しめる場所なんてない。シャリュウを横目で見ながら、ボクは砂浜から岩肌がむき出しの坂を登る。
「この海には鈍色貝っていうのが住んでてさ、それを拾って、町で加工して他の町に売ってるんだ。貝の中身から取れる毒素からは除草剤に除虫剤、内側は綺麗な上に頑丈だから、金属の代わりに使われてる」
「……それも?」
指すものがなんとなく分かりながらも振り向いたら、シャリュウはボクの足を見ていた。
聞かれると分かってても、聞かれたらやっぱり、不快だ。答えず、ボクは進む。好きで、こんな足に。
岩の坂は海の崖に繋がっている。そこまで行って、ボクは重い藤籠を置いてから振り向いて、シャリュウにも見るよう顎でしゃくってみせた。
「あそこが加工工場」
木材が雑多に重なったような、斜面が窓になったような、見慣れた鈍色貝の加工工場がある。
「貝は綺麗だけど、毒素が強い。だから、きちんと海水で濯いで乾燥させて、換気して、そうしてやっと加工が出来る、って寸法さ」
継ぎ接ぎで設えた工場を見上げながら、ボクは澱むことなく言い切っていた。
「詳しいね」
別に、好きで覚えた訳じゃない。覚えないと文字通り死ぬからだ。
ここに来たばっかりの奴が知っている訳ないと、分かってはいるけど、どうしてか頭にくる。ボクが崖の向こうを指し示してやれば、シャリュウは素直に崖の縁近くまで向かう。
「海がドブ色なのは、貝の毒素のせいさ。お陰で他の生き物は全然来ないし、だからこの町は鈍色貝の加工をしなきゃ生きていけない」
見れば見るほど、濁った色はこの町のようで、大人達の腹の底みたいで、ああ、苛々する。
「そういえば」
何かを思い出したかのように、シャリュウが振り向いた。
「きみはさっき、海に入っていた。毒は大丈夫なのか?」
「試してみれば?」
これは前々から決めていたんだ、この時を待っていたんだ。一つの言葉だけ噛み締めて、旅人の背中を強く押した。
斯くて、供物は鉛の海に落ちた。
なんて間抜け面。気の抜けた、何をされたのか分からないと言いたげな、あの顔は。
――あの時のボクだ。情があると信じ切っていた親から落とされた、あの時のボクと、今のあいつはきっと、同じ顔をしている。
暫く経って、海の表面が青色になってきた。お出ましだ――そう思うと、鳩尾がすぅと冷えた。
ボクを毒の貝拾い係に縛り付けているのは、魔女だ。こいつがボクの名前を奪って余計な耐性を植え付けたせいで、鉛の海から出られない。
海を統べる、八本足の蛸魔女。そいつの青い体が、巨大な波音と同時に浮き上がってくる。
『――久しいな』
蛸魔女の上半身は、真っ青な肌色以外女の姿だから、蛸魔女だ。何度見ても、気味悪い青。胃がぐるりと回った気がするけど、ボクは奥歯を噛み締めて耐える。
「お前が言っていた、代わりのやつだ! それでいいだろ!?」
渾身の訴えに、蛸魔女は黙ってボクを見下ろす。
『あぁ、そう言っていたな。だが』
魔女の巨大な青目玉が目蓋に消えて、もう一度ボクを見ると同時に、八本足のうちの一つを大きくあげた。そこには、あの旅人が吸盤にくっついていた。真っ赤な目が不満げにボクを見ている。
『相手の名前だけ取って、確認もせず騙し討つのは少々傲慢ではないか?』
片目を眇めた蛸魔女の言葉が正しいからこそ、ボクは歯噛みしか出来ない。
『まぁ、それ抜きにしてもこいつに後任は無理だ』
「なんで?」
『古い知り合いでな。――また、名前を謀ったな、柘榴よ』
蛸魔女が視線をシャリュウに向けると、彼は「別に」とだけ返した。名前? はかる? どういう意味だ。
『お前が意識した文字と、此奴が持つ文字は異なる。故に縛れない』
ボクの困惑を拾った蛸魔女が、親切にも説明してくれる。シャリュウの腑抜けは顔だけ、頭は切れるようだ。
「けど」
だからといって。何年も温めていた作戦があぶくになって消えたって、ボクの本心が変わる訳じゃない。
「ボクはもう、ここに居たくない」
海の女神とやらの加護なんて要らない。貝の毒に当てられたっていい。だから、まずはボクをここに縛る蛸魔女に言わなきゃいけない。
「責務を子どもに押し当てる大人の元になんて、一生いたくなんてない」
毒を恐れた大人は、両足を犠牲に鈍色貝の毒耐性を得たボクに、自分達がやっていた貝の収集を押しつけた。ボクを突き落とした両親だって、そうだ。
「死んでもボクはここを出る」
そのために、複雑極まりない義足の整備技術を付けたし、文字や簡単な計算も覚えた。外の町から来る人と沢山話して、この場所で出来うる限りの知識を頭に詰め込んできた。この町のこれからなんて、知ったことではない。
言いたかった言葉全部声にしたからか、頭が冴え渡る。もし、何かにつけてここにいろと言われても全部無視して夜逃げするくらい、心が軽い。
なのに、頭の中を刺すような、塩辛い風がびゅうびゅうと吹き荒れる。誰も、何も言わない。ただでさえ重っ苦しい灰色の海と空に挟まれて、せっかく軽くなった気持ちが塞がれていく。
『――外で暮らす算段があるのか?』
吸盤でくっつけたままのシャリュウを崖の上に置きながら、今思い付いたと言わんばかりに蛸魔女が聞いてくる。
「あるに決まってる。三つ山を超えた技術屋の町から、義足整備士の誘いが来ている」
ボクは即誘いに乗ったけど、鈍色貝の毒耐性を持つ唯一の存在を大人達は手放してくれない。けど、相手だっていつまでも――ボクが大人になるとか、毒耐性を持つ他の奴が現れるまで、待ってくれる訳がないんだ。
「そもそも、ボクがこうしているより前に、みんなやってたんだ。ボクだけがやらなきゃならない理由がどこにあるっていうのさ」
なんだかむっときて、ボクは胸を張って言い切った。蛸魔女も、むっとした顔で、どこからともなく巨大な手を持ち上げてボクに何かを落とす。
「あっぶな!」
あわや脳天直撃を避けて、崖の岩にめり込んだものを拾う。鉛のようにずっしりと重い、鏡みたいに磨かれた鈍色貝だ。
『それを見せて、どこへでも行け小娘』
「小娘ゆーな。てかこれ何?」
『お前の名前だ。返してやるが、今は開かんから諦めろ』
「どういう意味?」
『魔女の封印が簡単に開くとでも思っているのか?』
文句の一言でも挟もうかと思ったけど、機嫌を損ねさせて、せっかく奪い返した名前を取られたらたまったもんじゃない。
「開く時まで持ってろ、ってこと?」
『そうなるな。柘榴、技術屋とやらの町までこいつを送ってやれ』
急に話を振られたシャリュウは、伏し目で嫌そうに蛸魔女を見上げる。
「……どうして」
『せっかくの縁を粗末にするのか?』
蛸魔女の言葉に、シャリュウは不承不承と言いたげに、黙って頷いた。会ったばかりの、ボクが突き落とした奴だけど、旅人なら山三つ超えるお供に丁度いいだろう。そう考えて、ボクは工房に足を向ける。
「じゃあ、早速話を付けてくる。何かあったらアンタが言い添えしてよね! いつまでもあると思うな耐性と遵守ってさ」
言い逃げるような形で、ボクは駈け出した。
最後に視界の隅が捉えた、いつもの灰色の海が、少しだけ明るく見えた。
*
駆け行く少女の背を見つめていた蛸魔女は、ふと口を開いた。
『あの娘っ子はな、町の外の魔物に足を喰われおった。よほどそれが恐ろしかったのだろう、綺麗さっぱり忘れておる』
少女曰く突き落とされたその時既に、足はなかったと蛸魔女は言う。
柘榴は、伏せた目で黙したまま耳を傾ける。
『親としても苦渋の決断だったのだろう。妾に頭を下げて、この世の末と言わんばかりの顔で言った。どうかこの子に足を、とな。毒耐性は単なる副作用だ』
親の心子知らず。
そう言わんばかりの蛸魔女に、柘榴は視線だけ投げかけた。
「教える必要性は?」
『要らんだろう。外に出たい若人の意思くらいは尊重してやらんとな。なに、外へ出れば否応にも思い知ろう』
無知を、無謀を、無力を。
蛸魔女は、崖の縁に頬杖を付いて、やれやれと嘆息した。
『まことに面倒よの、人とは』
「全くだよ」
蛸魔女の旧友は、眇めた目で今にも崩れんばかりの加工工場を見上げた。危うい均衡の上に立つ、灰色の海町そのものを。
サークル名:雫星(URL)
執筆者名:神奈崎アスカ一言アピール
此処とは異なる世界に想いを馳せ、此処と似た世界に心躍らせる。紡ぐは、うたかたのうつくしさと、大地の血肉に息遣い。異世界幻想物語中心に、現代ファンタジーや二次創作(別名義)も、長編から短編まで手掛けております。