猫待ち男子、漁港へ行く

 俺は都内の庭付きマンションの一階に住んでいる。日当たりの良い南向きのテラスと四畳半の専用庭。奥行き約2メートルの庭に植えた芝生は今日もふかふかだ。
 だが俺はキャンプの趣味があるわけでも、マンションのケチな駐輪場から追い出された哀れなバイクの置き場所に困っているわけでもない。心地よい狭さ。雑然とした都会に産み出されたささやかな空白地帯。そして、澄みきらない空――。下層階ほど値段が安いという懐事情によって仕方なしに手に入れた小空間だが、これぞ俺の庭と呼ぶのに相応しい。
 そんなしがない俺の庭にも客はやってくる。野良猫だ。華やかな都会の裏側で日夜飢えや気圧の無慈悲な仕打ちに耐え、世間との戦いに明け暮れるヤツラにとって、くたびれた中年オヤジしか接する者のないこの隔絶空間は、ホッと一息つける隠れ家なのだろう。
 巷では猫好き男子が急増中だと言う。だが俺は別に猫が好きと言うわけではない。だから餌やオモチャをくれてやることはないし、猫どもを家に招き入れることはない。なぜならヤツラは押し売りの如く上がり込んでは、鼠や蝉を持ち込むのだ。そんな身勝手な振る舞いに「可愛い」だの「癒やし」だのとキャッキャする女子心は、俺にはない。
 だがこの大都会に数あるねぐらの中から、わざわざ俺の庭を選んでやって来るのだ。だからまあ、場所を貸してやってもいいかという気持ちにはなるし、トイレや毛布を設置して居心地を良くしてやろうとホスト心を刺激されたりもする。そうやって作り上げた俺の庭で伸びたり膨らんだりするヤツラを眺めていると、都会の風に晒されて錆び付いた心が洗われていくのだ。
 俺は都会の片隅四畳半の庭でただ猫を待つ。そう、俺は猫好き男子ではない。猫待ち男子なのである。

 さて、ヤツラには縄張りがあると見えて、訪れる顔ぶれは変わらない。俺の庭のプレミア度が如何ほどなのか気にはなるが、一方で変化を求めてしまうのもまた人情と言うもの。それは、馴染みの店がありながら新規開拓をしてしまう、男の哀しき浮気心のせいなのかもしれない。
 新規開拓。いい響きだ。
 言葉の魔力に取り憑かれた俺は、休日に電車を一時間半乗り継ぎ漁港へやって来た。波止場に立った瞬間、都会で見舞われることのないあからさまな磯の香りに、眠っていたダンディズムが刺激される。つい係留用のピットに目が吸い寄せられた。昭和の二枚目俳優が足を乗せていたアレ。アレだ。だが、俺の今日の目的は二枚目を気取る事ではない。
 容易く誘惑をあしらって目をやれば、ピットの一つに小型船が繋がれていた。船はブルーの横っ腹を海面上に晒している。うねる海を突き進む雄々しい姿とはうって変わり、食卓の頑固親爺のように沈黙するその船体は、今ぽつねんと波に浸っていた。
 わかっている。俺はお前の汗をわかっているぞ。
 そう、漁港に人は多かった。さすがWebで話題の猫スポット。釣り人の姿は勿論だが、目立つのはスマホを掲げる若い女性達だ。彼女達は船にも海にも背を向け、夢中で画面を覗き込んでいる。女達を虜にしているのはサバトラ柄や白黒柄の猫達だ。
 俺はショルダーバッグを尻へ回し、首から提げた一眼レフを両手で持ち直して、写真愛好家の中年男を装うことにした。野良猫を眺めるためだけに遠路はるばるやって来た疲れたリーマンよりは、一目で趣味がわかるオッサンの方が疎ましく思われ難い筈――。だがそれでも女性の集団に無理に混ざり込むなど軟派者のすること。それに下手に接触して「キモイ」だの「臭い」だのと罵られるのは心外の極みである。
 俺は堤防沿いを歩くことにした。あの猫どもだけでスポット呼ばわりされているわけではあるまい。道なりにまっすぐ進んで行くと、じきに人気のない行き止まりに突き当たった。左手はトタン屋根。物置だろうか。見下ろせば二メートル程下に砂浜がある。ヤツラの姿はない。
 俺はショルダーバッグを地面に置き、ここで待つことにした。ヤツラは隅や角を好む。この行き止まりなど、まさに猫心をくすぐるフェイバリットスポットに違いない。そもそも猫を追いかけ回すのは主義に反する。なぜなら俺は猫待ち男子。ただ、穴場で待つのみ。それは一本釣りを生業とする漁師に等しい。堤防が腰を下ろしやすい絶妙な高さなのは、あくまでこの穴場の付加的要素に過ぎない。
 見渡す限り海、そして青空。都会であれ程権勢をふるっていた計画的並木林と高層ビルは影も形もない。こんな広々とした場所で育った野良猫とは、一体どのような性質なのか。
 待つこと数十分、遂に獲物が訪れた。そいつらは二匹連れ立ってやって来て、俺を見上げるや否やニャーニャーと鳴き始めたのである。細部は違えど、どちらも柄は茶白。まだ若いと見えて、顔回りや体付きはスッキリしている。
 若猫達は眺めるだけの中年男に痺れを切らしたのか、今度は立て続けに俺の足へ頭突きを仕掛け始めた。まさかタックルの練習をしているわけではあるまい。これは、餌の催促だ。
 その姿に、俺は営業職を重ね見た。或いは指名を争う夜の蝶。餌の確保が難しいであろう都会ならいざ知らず、漁港でも搦め手を駆使しなければならないとは。なんと世知辛い世の中か。だが俺は損得勘定の働く付き合いはしない主義だ。つまり、拒否。去りたければ去るがいい。それが野良猫が持つ特権なのだから。
 そうこうしている間に、一匹が地面に置いていた俺のバッグに気付いた。くっつきそうな近距離で嗅ぎ回ると、今度は前足で引っ掻き始める。俺はファスナーをキッチリ閉じる派だ。バッグの中はいわばプライベートスペース。どこでも誰にでもオープンにするような、安い真似はしない。
 だがこいつ、わかっていやがる。
 茶白猫は閉じたファスナーを狙って爪を繰り出していた。あたかも、そこを引っ掻けばバッグが開くと知っているかのように。何という論理的行動。何という学習能力。そうやっていつものように猫を眺めていると、もう一匹もこの攻撃に参加し始めてしまった。
 当初余裕をぶっこいていた俺は、ここに来て焦りを覚えた。これはまずい。野良猫の爪は鋭いのだ。ファスナーはともかく、表面が切り裂かれてしまう。若者であればダメージの入った小物を身に付けても格好が付くだろうが、何せ俺は中年男。見窄らしさを醸し出さないでいられる自信はない。
 俺はすぐにバッグを地面から引き上げた。これでコイツラの天下も終わりだ。野良猫と言う生き物は人間が静物だから調子付くのであって、動物だとわかると大抵距離を取る。それは厳しい野良生活が育てた警戒心の成せる業と言えよう。
 だが俺は失念していた。ここは漁港。他人との間に適切な距離を保つ都会ではなかったのだ。
 コイツラは諦めなかった。俺の足や体に爪を立て、執拗に胸元のバッグを狙って来る。都会ならこの「ハイ解散!」が通じたのだろうが、漁港の猫は人との関係がより濃密らしい。コイツラが若いせいもあるだろう。人間では「悟り系」と言う淡泊な性質を持つ若者がいるらしいが、若猫は若さ迸るギャングが多いのだ。
「あ、こら、やめなさい。ちょ、やめなさい」
 ギャングどもの爪が背中に刺さり、俺は思わず制止の声をあげた。だが悪童達の勢いは増すばかり。俺は体を捻って爪を躱し、或いは引っ掛かった爪を指先で外してやりながら、内心どうしたものかと頭を悩ませた。絡んだ猫の爪は意外としぶとい。あと、痛い。ぶら下がると重い。シティボーイ達との交流ではあり得なかった事態に俺は狼狽えた。一方を引き剥がせば他方がしがみつくイタチごっこ。まさに、打つ手なし。
 そんな俺の前に、ソイツは現れた。堤防の上を悠然と踏み締める白靴下、青空を浴びる茶色の耳に背と尾の縞模様、茶白猫だ。顔は丸く、幅広。ここいらの強い雄に違いない。
 茶白猫は俺から約2メートル離れて座ると、目ヤニがついた目で俺達を睨みつけた。そして猫の「シャー」よりは軽い、牙を見せつける脅しを若猫どもに仕掛ける。悪童達はたちまち後退りを始め、やがてどこかへ走り去って行った。
 茶白猫は二本の尻尾が見えなくなるまで睨みを利かせると、ふいにその場で毛繕いをスタートさせた。前足を舐める、顔を拭う、背中を舐める。この潮風に散々洗われた毛皮はさぞ塩辛いだろう。
 堂々たる風格。まさにこれぞ、海の男。
 俺はバッグを抱え直し、堤防に再び腰掛けた。先程までの猫盛り状態とは一変して、ディープな静けさがこの場に降りる。海が挫けた俺の心を洗い、茶白猫との大人の距離感が俺の傷を埋めていった。触るだとか戯れるだとか、そんな視覚的で肉体的な交流を俺は求めない。無言でも許し許される関係。それこそが俺の欲する全てなのだ。
 だが待て。この距離感、覚えがある。
 庭の奥行きはほぼ2メートル。猫との距離は目算約2メートル。つまり、これは、いつもの距離感にほかならない。
 俺は打ちのめされた。新規開拓のつもりで意気揚々と旅に出たものの、辿り着いたのは自己の再確認。これでは自分探しと称してインドへ向かう大学生と何ら変わらないではないか。電車の距離で一時間半離れた港町で、俺は都会のルールで生きている俺自身を悟ったのだった。

 都会の片隅四畳半の芝生に、また野良猫はやって来る。餌もやらず遊びもせず保護もしないこの姿勢に眉を顰める者もいるだろう。だがどれだけ誹られようとこの生活を変えるつもりはない。この雑然とした無関心で無機質な都会で、ヤツラも、俺も、好き勝手に生き合っているのだから。


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サークル名:たむや(URL
執筆者名:亀屋たむ

一言アピール
ファンタジーを書きたくて修行中の筈なのに、結局いろいろ書いています。ジャンルも作風も定まっていませんが、ソフトタッチで楽しく人生に揉まれる話が多いです。アンソロ寄稿作は、おじさんを除くと新刊既刊どちらにも掠りもしていません。

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