風の少年

 浜名湖に面した蜜柑山の斜面。ふんわりと甘酸っぱい香りに包まれながら、天浜は独り、湖を眺めていた。
 戦前に生まれた天浜。沿線の人々に望まれて作った国鉄生まれの彼も、今は第3セクター鉄道として沿線の人々を運び続けている。のんびりと、どこまでものんびりと。昭和は終わり、すでに平成になって年月がだいぶ過ぎ、そしてもう間もなく平成が終わるという時がやってきたが、彼の生活は変わらない。のんびりと。
 そう、ここから見る浜名湖の景色が変わらないように。
 ゆっくりとだが開発の進む天浜線沿線の中でも、ここだけは、昭和のあのときから時が止まったかのようにのんびりとした時間を刻んでいるのだ。
 ふわり。
 風が、また蜜柑の甘酸っぱい香りを運んできた。
「ふう……」
 天浜はため息をついた。
 走り続けることに異論はないのだが、時々、このままでいいのかと考えることはある。都会に比べ輸送人口も少なく、本数も少ない。のんびりした空気がこの町にはあってるとはいえ、このままでいていいのかと。
 そのとき、別の風がやってきた。蜜柑の香りとは違う、温かい風。
「あ、いたいた」
「……何してるんだよ、こんなとこで」
「そんな言い方ないじゃないか、天浜」
 どこまでも明るい、その声。決して嫌いな声じゃないが、今はその声を聞きたくなかった。
「帰れよ、あかでん。ここはお前の運行区間じゃないだろ」
 天浜が冷たく言い放つ。すると、苦笑気味のため息が風とともに運ばれてきた。
「気にしない。ここで飯でも食いたくなったんでね」
「……」
 天浜は返事をしなかった。それを肯定の合図と受け取ったのか、あかでんは天浜の横までつかつかと歩み寄ると、その場にどっかりと座り込んだ。

「なあ」
 むしゃむしゃとおにぎりを食べていたあかでんが、不意に口を開いた。
「オレ、天竜二俣まで行こうと思うんだ」
「……どうやって?」
 答える天浜の口調に、苦いものが混じる。
「僕のところに、架線はないよ」
 そう、天浜はディーゼル。厳密には電車ではない。一方あかでんは電車。電気のあるところでしか走れない。
「何とかするさ。そのほうがそっちからの乗客が便利になるだろ」
「何とかって、簡単に言うけど……」
 天浜はまるで信用していない。むしろ、夢物語をのたまってるとしか感じていない。
「昔は森駅まで行ってたじゃないか」
「昔って、何十年前の話なんだ」
 そう。
 その昔、あかでんは、天浜線を走っていたことがあった。もっとも、そのときは【あかでん】ではなく【西鹿島】と呼ばれていたし、【天浜】も国鉄で【二俣】だった時代の話だけれど。
「ほんと、あかでんは突拍子のないことを言うね。今のお前が走れるような施設を、僕は持っていないんだよ」
「まあ、確かにそうかもしれないね」
 ぷいとそむけた天浜の鼻に、蜜柑の香りがぶわり。
「でも、何か出来るんじゃないかな。がんばれば」
「がんばればって……簡単に言うけど」
「そっちも考えてるんじゃないの?」
 にやりとあかでんは笑う。
「じゃなきゃ、DMVなんか実験しないんじゃね?」
 その言葉に、天浜はビクッと肩をすくませた。
 鉄路と道路、どちらも走ることの出来る夢の車両、DMV(デュアルモードビークル)。過疎化地域を抱える天浜にとって、これは夢のような車両だった。これが使えるようになれば、駅まで遠いと嘆く山奥の住民にも、自分を利用してもらいやすくなるからだ。駅までは道路を走ってもらい、駅からは鉄路を走る。別にバスとの乗り継ぎでも問題ないのかもしれないが、やはり乗換えをせずにいけるというのは、十分魅力的だということを、肌で感じているからだ。
「アレは……話が来たから、実験に協力しただけだ」
 だが、そういうことをあかでんに知られたくなかった。西鹿島駅で毎日顔を合わせてるとはいえ、ライバル会社には違いない。
 天浜は立ち上がった。のんびりゆったりした気分が、すっかり吹き飛んでしまった。これならどこかを走っているほうがずっと気分がいい。
「行くのか?」
「そうだよ。僕も仕事しなきゃいけないし」
 冷たく言い放つ天浜をさほど気に留めず、あかでんは、そうか、と呟いた。そして、その声を無視して、天浜線は歩き出す。
「あ、なあ!」
 ぶわっと蜜柑の香りとともに、鉄の香りが風に乗ってやってきた。それに惹かれて天浜が振り返ると。
「今日、夜。終わったら飲まないか? 西鹿島で」
 べかりんと明るい笑顔が、さわやかな風とともに天浜を見つめていた。
 その笑顔はまるで、蜜柑の持つオレンジ色に負けないくらい明るいもので。
「ああ、わかった」
 つられて、天浜も微笑んだのだった。


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サークル名:R.B.SELECTION(URL
執筆者名:濱澤更紗

一言アピール
鉄は海水につけたら錆びるのですが、よく考えたらメイン舞台である静岡県西部は「遠江とおとうみ」なので、何を書いても海!と気づいた悪人です。あと浜名湖は汽水湖(海水が混ざってる)からセーフだよね!(?)ちなみに結局DMVもあかでん乗り入れも現状は不可でFAしています。

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