県民の日

 波の音をベースに懐かしい歌を口ずさみながら、防波堤を歩く。忘れてしまった英語の歌詞を適当にごまかしたら、メロディもわからなくなった。
 謎の虫を踏まないようにして、大きくひらけた海に向かって仁王立ちする。
 白波の打つ水面は、緑がかった淡い青。少し霞んで見える水平線。薄曇りの空。潮の匂い。湿った風。
 対する私は、八センチヒールのパンプス。きっちりとプレスのかかったパンツスーツ。ノートパソコンが入ったトートバッグ。
 ――だいぶ場違いだ。
 電車でうっかり居眠りしてしまい気づいたら終点だったのだ。
「海なんて来るつもりなかったのに」
「じゃあどこに行くつもりだったの?」
 答えが返ってくるとは思わず、私は驚く。振り返ると男子小学生だった。防波堤の下から、私を見上げている。
「会社」
「ああ、そっか。金曜日だもんね」
 そっけない私の返事を気にせず、少年はうなずく。
「それより、そっちは? 学校じゃないの?」
「県民の日」
「何それ。休みなの?」
「知らないの?」
「知らなーい!」
 ふんっと顎を上げると、少年は「変なおとな」とつぶやいた。
「ねえ、暇?」
「すっごく忙しい」
「嘘だー」
 防波堤の上を歩き出すと、少年も付いてきた。
「ねえねえ、お腹すかない? おすすめの喫茶店があるんだけど」
「たかりかよ」
「オムライスがおいしいんだよ」
 その言葉に私は立ち止まる。そういえばもう何年も食べていない。
「ねえってば! 聞いてる? おばさん!」
「おねえさんって呼びなさい」
「え? おねえさん?」
 疑問形ってどうなの。

 少年のおすすめの喫茶店はさほど遠くなかった。数台停めたらいっぱいになる狭い駐車場。その奥に建つ洋館風の店は、年季が入った落ち着いた風情だった。窓下の花壇に植えられた紫陽花が薄桃に色づいている。すりガラスのはめ込まれた扉には「CLOSE」の札がかかり、窓から見える店内は暗い。
「休みなんじゃない?」
「大丈夫大丈夫」
 少年はにっこりと笑うと、ドンドンと扉を叩く。
「おじさーん! 開けてー!」
「ちょっ、ドア壊れるって」
 私が慌てて少年を止めるのと、扉が開くのは同時だった。
「遊び場じゃねぇって言ってんだろ。帰れ!」
「ほら、お客さん! 連れてきたから! 僕も入っていいでしょ?」
 少年は私の背中を押す。扉を開けた男は私を見て「あ!」と叫んだ。もちろん私もだ。
「何しに来た! まさか俺を探して……?」
 男が驚いて飛び退いたすきに、少年は店内に入った。
「何言ってんの? オムライス食べに来たに決まってるじゃん」
 少年は私の代わりに答えて、さっさとカウンターに座る。
「おばさ、じゃなくておねえさんは、会社に行くつもりだったのに海に来ちゃったんだって。暇そうだから、誘ってあげた」
 私がうろんな目で見上げると、男は「姉の子ども」と端的に説明した。大きく扉を開けて私を促す。ここで帰るのもおかしいと思い、私は素直に従った。
 男がカウンターの奥に入ると、店内の灯りが点った。趣味が変わっていないのか、わざと選んだのかわからないけれど、あのころよく聞いていた曲が流れてきた。
 私はうろうろと店の中を見て回る。テーブルや椅子も年代物だ。実家を継いだのかなと考えて、実家が喫茶店だったのかどうかも知らないと気づく。甥はおろか姉がいたことすら初めて知った。
 普段着の上にエプロンを付けた男は、奥から出てくると、少年とその隣の席に水を置いた。
「そういや、今日は金曜じゃねぇかよ。おまえ、学校サボったのか?」
「今日は休み」
「県民の日だって。知らないの?」
 私は少年の隣に座り、二人の会話に割って入る。
「ああ、そんなのあったなー」
 男は納得してから、こちらを見た。
「おまえ、県民になったのか?」
「ううん、都民だけど?」
「俺は県民なんだ」
「うん、そうだろうね」
「ああ、そうなんだよ……」
「ん?」
「あのさ……おまえ、県民になりに来たわけじゃねぇよな?」
「え? 引っ越すつもりなんてないよ」
「いや、そうじゃなくて……ああ、いや、そうだよな……」
「ん?」
「ねえ! おじさんとおねえさんは知り合い?」
 そこで唐突に少年が疑問を挟んだ。
「うん、昔の……えっと……」
「友だち?」
 言いよどむ私に、少年は無邪気に首を傾げた。
「そう、友だち。久しぶりに会った」
「何か月ぶり?」
「えー、何か月って言われても」
 子どもにとっては数か月でも久しぶりなのか。
「何年ぶりだっけ?」
「二十九か月ぶり」
 男に聞くと、平然と返された。
「オムライスでいいのか」
「うん」
「僕のおすすめ」
 自慢げに胸を張る少年に目を細めて、男に向き直る。私のおすすめでもある。
「二十九か月ぶりのオムライスだよ」


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サークル名:オレンジ宇宙工場(URL
執筆者名:葉原あきよ

一言アピール
超短編を書いたり、豆本を作ったりしています。普段はもっとわけがわからない話を書いています。

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