その海、ほろ苦ラムネ味

 ゴクリ、とカフェオレを飲み干す信之。彼の喉仏が上下するのを、真午まひるはぼんやりと見ていた。
 夏休み前の教室。
 購買で焼きそばパンとカフェオレを買って戻ってきた彼は、どかっと座って、大口開けてそれを食べはじめたのだった。

 前の席に座った信之は、真午の高校の同級生で、幼稚園からの幼馴染。
 幼稚園の運動会の写真。一緒に並んで写る信之は、真午より少し小さい。それが逆転されたのはいつのことだったか。

 焼きそばパンを三口程度で平らげた信之が、真午の弁当箱の中をじっと見ている。
 何か食べるか、と聞けばウインナーを一本取られた。真午は両眉を少しあげた。そして、焼きそばパンが入っていたビニル袋の上に、三つあるおにぎりのうち、一個を置いてやった。
 朝食を食べそびれたらしい彼が、二時限目と三時限目の間に、弁当をかき込んでいたのを知っていたからだ。
 大きな体躯を維持するには、それに見合うだけのエネルギーが必要なのだろう。

 食べ物を噛み砕き、小さくしてから胃に送る。その喉の定期的な動きに真午は、あ、と思った。
 唐突に海を見たのだ。
 そして
「海に行きたい」
 と言った。自分がそう口走ったことすら認識していないくらい、極々自然に。

 そんなこと言ったって、ここは山間の町。一番近くの海岸までは、列車に揺られて片道二時間。
 そんな所にわざわざ、しかもなんで男同士で行かなきゃならんのだ、と信之に返されて、それもそうか、と思う。
 泳ぎたいわけではなかった。ただ淡々と寄せては返す、咀嚼をし喉の奥にある胃に食べ物を送り込むような、なんてことないものを、見続けていたかったのかもしれない。

 真午が、弁当箱の中にできた空白、ウインナーがあった場所を箸でコンコンつついていると、
「海っぽい所だったらすぐ行けるけどな」
 そう信之が言った。

 高校の授業が全て終わって、信之の家に着いたのは午後四時過ぎ。
 定期考査前で部活のない信之と、こうやって一緒に申し合わせて帰るのはいつ以来か。
 高校のある町中から、二人が住む集落まで、通勤時以外には数時間に一本しかないローカル線に乗って、十五分程度。そこから信之の家まで歩いて更に十五分。
 夏休みをすぐそこに控えた七月の四時は、まだまだ明るい。
 真午がここに来るのは久しぶりだった。

 何百年も農家をやっているという信之の家は、いつ見ても大きい。
 庭には防火用だという池があり、蓮の葉が浮き鯉も泳いでいる。母屋の西には土壁の納屋。少し柱が傾きかけたそこには、米が備蓄されている。東の鉄骨造の納屋は昔は木造の牛舎だった。真午が小学生の時くらいまでは、牛が三頭くらい繋がれていて、牛舎独特の草に似た匂いが漂っていた。それから、信之が勉強部屋として使っている平屋の離れ。小学校からの帰り、ランドセルを背負ったままよく上り込んだな、と思う。

  夏の太陽で、余計に白っぽく見える庭。そこに伸びた母屋の軒は深く、影が濃い。その影の中で農機具の点検をしていたらしい信之の祖母が
「真午ちゃん、よく来たね」
 そうクチャリ、と笑って迎えてくれた。
 ばあちゃんは、ちょっと待っとき、と母屋の中に消えたかと思うと、ラムネの瓶を二本持って戻ってきた。すっかり白髪になったけれど、それ以外は殆ど時が止まっていた。真午ちゃんという呼び方も、幼稚園の時からずっと一緒だ。夏にラムネを出してくれるのも。

 二人で瓶を握って、家の前に広がる水田の方へ行く。
「水場やけん、蛇に気ぃつけてな」
 と背中越しに、ばあちゃんの声がした。

 山から吹く風に、稲が軽やかに揺れている。
「ほんま、海みたいやな」
 サワサワ、と草が波打つ音がする。
 信之の家の前は一面、稲で埋め尽くされている。強まった日の光に葉を伸ばして。じっと見ていると、葉の表裏が返るときに一層波のように見える。

 隣に立つ信之は、真午より高いところから、同じ方向を見ていた。
「この海、いつまであるんやろな」
 ポツリと信之が言った。
「そうやな」
 今春の列車の時刻表改定で、また一本、列車の本数が減った。
 誰も言わないけれど、誰もが分かっている。ここが寂れていくだろうということ。
 信之が昼に食べていた焼きそばパン。あれを作るパン屋さんは、シャッターが目立つ商店街の中で、まだ生き残っている店だ。昭和の味、と揶揄されるけれど、ソースが濃いその味は真午の好みに合っている。そのうち平成の味と揶揄されるのだろうか。その頃にはまだパン屋の店主は元気だろうか。

 真午は、県外の大学を志望している。
 だから高卒就職を決めた信之の「いつまで」の問いかけに、答えられなかった。
 苦い、それでいて甘いラムネ。
 信之の方から、ラムネの瓶にビー玉が当たる音がする。
 ここの海はずっとあるわけではないかもしれない。それが数年後なのか数十年後なのか、もっと先なのか。
 真午は信之を見上げた。
 水田を見る彼も、いつまでもはいないかもしれない。
 そんなことを思った時だった。
「おい、真午よ」
「ん?」
「お前。大学に行っても、たまに帰ってくるか」
「多分な、まず受からなあかんけど」
「大阪やったか」
「うん」
「すぐそこやな」
 聞き慣れた筈の信之の低い笑い声が、艶やかに真午を撫ぜた。

 水田の海。
 緑色の穂先はやがて、秋には金色になる。
 苦く感じるラムネを振り切ったって。
 美しい郷里の海と人魚のような友人と。

 真午にはまだ、どれもこれも捨てられそうになかった。


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サークル名:月ノ杜舎(URL
執筆者名:佐倉治加

一言アピール
性別不問の恋愛小説、少しだけ引き攣れたような純文学を書いています。テキレボには、奈良県の架空の高校舞台のBL NL小説、京都府、大阪府を舞台にした微百合小説(ベースは純文学系)、明治大正期ベースの骨フェチBLで参加予定です。

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