海を渡った女

浜辺を年配の男女二人が歩いています。
「本当に望みは無いのか?」
 士大夫姿の男性が問いかけると
「当たり前のことしたまでです。島民が飢えから逃れることが出来たのですから、これ以上何を願いましょう」
と女性はきっぱりとした口調で答えました。質素ないでたちにも関わらず庶民らしからぬ雰囲気を感じさせます。
「ところで、牧使(地方長官に相当)さまは、いずれは本土にお戻りになるのでしょう」
「ああ」
「私は生まれてから一度も島から出たことが無いのですよ。まぁ、これは島の女全てにいえることですけど」
 女性は波打ち際に歩いていきました。
「牧使さま、本土はどのような所なのでしょう? 都は、王宮はどんな場所でしょう? 金剛山は漢拏山のような山ですか?」
女性は立ち止まり、振り向いて牧使に問い掛けます。
 彼はハッとしました。そして
――汝の望み、叶えてやるぞ
と内心で呟いたのでした。
「牧使さま~」
 後方から声が聞こえてきました。従者が呼びに来たようです。士大夫は「わしは、これで」と言ってその場を去って行きました。
 残された女性は、まだ波を見つめていました。
 この島の人々にとって海は愛憎相半ばする存在でした。海産物によって人々の暮らしは支えられていますが、時々それを得るために海に出て生命を失うこともあるからです。実際、彼女の父親は漁に出て台風に遭って亡くなり、その後を追うように母親も世を去ってしまいました。十二歳の時のことでした。
 天涯孤独の身の上になった彼女は妓女の世界に身を置きました。聡明な彼女は妓女に必要な歌舞音曲その他の技能を瞬く間に身に付け、正式に仕事を始めるとあちこちからお呼びが掛かり売れっ妓の一人になりました。
 花柳界に身を置きながらも堅実な生活を送っていた彼女は、徐々に貯えも増えて行き経済的に余裕が出来ました。このまま妓女を続けていけば豊かな生活が出来たのですが、彼女はそれを拒みました。
 二十歳を過ぎたある日、彼女は役所に願い出て妓籍から抜いて貰いました。
 堅気になっても一度妓界に身を置いた女は普通の結婚生活は到底出来ないため、彼女は商売を始めました。妓女の時稼いだ金を元手に本土との“貿易”を手掛けたのです。この方面の才能があったのでしょうか、商売はうまくいき、手堅い経営をしていたため、彼女は島有数の富豪となりました。
 彼女は金品に執着しませんでした。それをよく示す出来事がありました。昨年、島は飢饉に陥りました。中央からの救援米はなかなか届かず、人々は死を待つばかりでした。その時、彼女は私財を投げ打って本土から米五百石を買い付け、島民に配りました。彼女は、かつての自分のような思いを子供たちにさせたくなかったのでした。
 このことは直ちに朝廷に伝えられ、彼女に褒美が出されることになったのですが…。

 それから一年経ったある日、彼女は官衙に呼ばれました。
――何事だろう? そういえば新任の牧使さまにはまだ挨拶していなかったな。
 あれこれ思案を巡らしながら彼女は官舎に入り、牧使の前に平伏しました。
「汝が金萬徳<キムマンドク>か?」
「左様にございます」
牧使の問いに萬徳は答えました。牧使は彼女に面を上げるように言った後、
「汝を内医院差備待令行首に命じる。都より迎えの者が既に来ているゆえ、すぐに発つように」
と言い渡しました。
――内医院差備待令行首って医女の長ではないか!
 商売柄、薬草についての知識は多少ありますが、医術の心得は皆無の萬徳は驚きました。――何故、自分のような者にこのような命が下されたのだろう?
「これは褒美だよ」
 牧使の前を辞し、官舎を出ようとした萬徳に顔馴染みの吏員が告げました。彼女が不思議そうな表情を浮かべていたためでしょう。
「褒美、ですか」
「ああ、救恤米に対するな。お前、都を見てみたいと言っていただろう。主上はそれを叶えようとされたんだ。行首任命はお前を都に呼び寄せる口実に過ぎない。だから都見物を楽しんでくればいいんだよ」
 吏員の説明で合点の入った萬徳は、さっそく旅の準備を始めました。
 二日後、萬徳は迎えの者と船に乗りました。いつもは見送る側なのに今回は見送られる側になった萬徳の心は弾んでいました。
 陸地が船後に遠ざかり、暫くすると前方に陸地が見えてきました。
「あれが本土なのね!」
萬徳が子供のようにはしゃぐと
「じきに都に着くよ」
と迎えの者が応じました。
 船は順調に進んで行き、思いのほか早く都に到着しました。
 船から降り、本土に足を踏み入れた萬徳は別の世界に来たように思いました。人々の話す言葉、家の形等々、全て島のものとは異なっているのですから。そんな彼女を迎えの者はとある屋敷に連れて行きました。
「立派な御邸ですけど、どなたの…?」
「蔡宰相だ」
 領議政(太政大臣に相当)蔡済恭<チェジェゴン>は、この国で王様の次に偉い方です。そのような方と会うことになった萬徳はさすがに緊張しました。
 宰相家の使用人に案内されて屋内に入った二人は母屋の一室に通されました。正面に品の良い老士大夫が座っていました。蔡宰相です。
二人は平伏しました。
「汝が金萬徳か」
「はい」
 宰相は二人に頭を上げさせ、萬徳には救恤米の礼やねぎらいの言葉をかけました。そして、何かあったら遠慮なく言うようにとも言ってくれました。
 蔡宰相の屋敷を出た後、二人が向かったのは王宮でした。広い宮城の片隅に萬徳の宿所が用意されていたのでした。片隅といえども自分のような庶民の女が王宮内に住めるのは夢のようであり、ありがたいことでした。
 翌日から万徳は宮女の案内で宮城内を見学しました。自分の住んでいる村ほどの広さの中に様々な部署があり、老若男女多くの人々が往来している光景に彼女は圧倒されてしまいました。
 都に来て数日後、宰相が萬徳を訪ねてきました。彼女の後見役をしている宰相は、その後もしばしば訪れ、要望その他を聞いていきました。当初は緊張してあまり多く話せなかった萬徳も次第に慣れていき、その日の出来事や感想等々を父親に接するような気安さで話すようになりました。宰相もそんな萬徳を娘のように慈しむのでした。
 王宮見物が一段落した頃、萬徳は王様と謁見することになりました。宮女の正装に身を包んだ萬徳は王様の前に平伏しました。
 身を起こすよう言われて顔を上げた萬徳に王様は、救恤米に対する謝意やねぎらいの言葉そして都滞在中の要望等があれば申し出るように等々の言葉を掛けて下さいました。萬徳は身に余る思いに、ただただ恐縮するばかりでした。
 王宮見物を終えた萬徳は都の名所巡りをしました。案内人の説明を聞きながらの見物は興味深いものでした。
「他に見たいものはあるか?」
 一通り名所・旧跡を歩いた後、案内人が言うと、萬徳は
「市場を」
と答えました。仕事柄、都の市場は見ておきたかったのです。
 案内人に連れられて行った市場は想像以上に大きく、扱われている品物も多種多様でした。並べられている商品を見ながら、自身の商売の参考にしました。
 夕方、萬徳は宿所に戻ると、宰相がお見えになるとのことでした。彼女は大急ぎで部屋を片付けると、宰相はすぐにやってきました。
「主上との拝謁はいかがだったか?」
「はい、もう、ただ有り難いだけです」
 宰相の問いに萬徳は興奮気味に答えました。続いて都見物の感想も話しました。宰相はいつものように柔和な表情で聞いているのでした。
「…ところで金剛山は天下の名勝と言われていますがまことでしょうか?」
「行って見たいか?」
「ええ、出来れば」
「そうか…」
 この何気ない会話によって萬徳は金剛山へ行くことになったのです。蔡宰相が王様に伝えたところ、実現したのです。
 下賜された騾馬に乗って萬徳は天下の名山へと旅立ちました。
 金剛山は話に聞いたよりも絵で見たよりもずっと素晴らしいところでした。景色はもちろんのこと、散在する岩々は万物相といわれるだけあって、世の中のありとあらゆるものの形をしていてとても面白いものでした。
 都での滞在期間は終わりに近付きました。この地での生活はともかく、蔡宰相と別れがとても辛くなりました。これまで頼れる人がいなかった萬徳にとって宰相はようやく出会った文字通りの後見人的な存在でした。
 島に戻る前日、宰相に会った萬徳は、涙を流しながら別れを惜しみました。すると
「汝は都見物のみならず、金剛山まで登ったのだ。これは士大夫でもなかなか出来ることではないぞ」
と慰めながら「萬徳伝」という冊子を手渡しました。
「わしからの土産だ」
 宰相が書いてくれた彼女の一代記でした。
 萬徳は、もったいないことと言いながら丁重に受け取りました。

 萬徳は今日も海を見つめています。
「萬徳ばあちゃん、海の向こうには何があるの?」
 いつの間にか近所の女の子がやってきて話しかけてきました。
「海の向こうには竜宮城があるんだよ」
 都は彼女にとっての“竜宮城”でした。そこには、賑やかな町並み、壮麗な王宮、絶景の金剛山があり、そして敬愛する蔡宰相がいらっしゃるのです。


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サークル名:鶏林書笈(URL
執筆者名:高麗楼

一言アピール
朝鮮半島の歴史と古典文学を扱っています。
今回は済州島の女商人・金萬徳ののお話です。韓流史劇にもなっていると思いますが、この物語は筆者のオリジナルです。

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