波をきけ
崙国・柳王朝が終焉のときをむかえたとき、
「……これからが大変でございましょうよ、若き皇帝は」
新たに皇帝として立った尊慶は、崙国の四分の一にあたる志知郡の郡主であった青年だ。問題の多かった柳王朝をたおし、新たに玉座に座った……、とたったそれだけの言葉でまとめてしまうのは簡単だが、それでは済まない葛藤や悲哀があったであろうことは、楽のような一市民にも想像ができた。
波が、盛り上がっては砕け散った。海はこうして眺めると、とてもただの塩辛い液体のあつまりとは思えない。ひとつの意志を持って、何かを訴えようとして、繰り返しうねり押し寄せ引いてゆくような……そんな気がしてならない。
この海辺の町に腰を落ち着けてもう数えきれないほどの年月が過ぎたが、楽はいまだに、その波の意志や訴えをきくことができていない。
「お父ちゃーん、統さん来てるよー」
六歳になる楽の末娘・杏が、小道をとてとてと駆けてきた。母親に言われて楽を呼びに来たのだろう。そうか、と笑って楽は愛娘を抱き上げ、海に背を向けた。
楽は、貧しい家の出身だった。とある名家で使用人として働いていたが、様々な経緯で、運送の仕事をすることになった。最初はひとりだけでこなしてきたが、次第に信用を得、人を使うことができるようになった。そして年齢を重ねるにつれて、自らが移動し荷物をはこぶことは少なくなった。
「ああ、旦那さん、すみませんお呼び立てして」
自宅へ戻った楽に、立派な肩幅を持った青年が頭を下げた。
「いや、気にすることはない。さあ、かけなさい。杏、お母ちゃんに頼んできてくれないか、お茶をいれてほしい、と」
「うん!」
抱きかかえていた杏をおろし、楽は禄山の向かいに腰を落ち着ける。禄山はすぐさま、卓の上に地図を広げた。
「旦那さんのご心配通り、大きな街道はどこも混乱しています。行き来が目に見えて増えたところもあれば、反対にぐっと減ったところもあります。でも、暴力沙汰にはなっていないようですね。この混乱は、一時的なものでしょう」
「ふむ。では、すぐに全体的な混雑が始まるはずだぞ。帝都と、志知郡の取引先を中心に、早めの申し込みを促してくれ」
「かしこまりました」
禄山は力強く頷くと、帝都と志知郡を結ぶ街道を筆でなぞり、くっきりと朱色に浮かび上がらせた。これから先、ここがいちばん重要な道となる。朱色が、ゆるやかな波線をえがくのを、楽は不思議な気持ちで眺めていた。この道を、切実な祈りを抱えながら駆けたこともあった。
若かったころのことを思い出して、ふと頬が緩んだとき。かちゃかちゃ、と陶器のふれあう音がした。
「大丈夫よ、お母ちゃんはさわらないで」
杏がそう言いながら、盆に湯呑と菓子壺をのせ、そろそろと歩いてくる。背後には、はらはらとそれを見守る楽の妻の姿があった。
「ありがとう、杏。いただくよ」
卓の手前までやってきたところで、楽が盆を受け取った。杏は少し不満そうだったが、そもそも杏の背では卓に盆を置くことはできない。素直に盆から手をはなすと、すました顔で禄山に向かってお辞儀をした。
「統さん、どうぞごゆっくり」
「は、はい、ありがとう」
禄山は呆気にとられたようにぽかんとしたが、あわてて頭を下げ返した。楽は笑いをかみ殺す。
「大きくおなりですね、杏ちゃん。あんなに小さな赤ん坊だったというのに」
「そうだねえ。私も歳を取るはずだ」
「何を仰いますか。まだまだ若々しくていらっしゃるのに」
目をむいてのけ反る禄山はお世辞で言っているのではないようだった。楽は胸中でつぶやく。歳をとったさ、と。若いころのように自分の足で山道を駆け上り、手紙や花をとどけることはもう、できない。昔はこの足だけが、唯一信じられる道具だった。この足を信じてくれたひとが、いた。そのひとのおかげで、楽は今ここにいるのだ。
「もちろん、まだ引退する気はないけれどね。けれど……、これからは、君たちの時代さ。新しい、時代がくる。新しい皇帝陛下のもとでね。……新しい時代を、生き抜くのだよ、禄山」
「……はい」
差し出された湯呑を大事そうに両手で持って、禄山は頷いた。
新しい時代がくる。それは決して、悪くない時代だろうと、何の根拠もなく楽は思っているけれど、それでも良いことばかりでもないだろう。誰が国を統べようと、どんな風が吹こうと、生きていくということはそういうことだ。大きな波を乗り越え、凪を耐え忍ばなければならない。
「では、私はそろそろ」
禄山が立ち上がる。玄関先まで送ろうと楽も立ち上がると、ああ、と禄山が急に声をあげた。
「申し訳ありません、忘れるところでした。旦那さん宛の手紙を一通、預かってます。志知郡郡都の方からです」
「郡都……」
禄山が取り出した白い封筒にならぶ整った筆跡を見て、楽は微笑んだ。
「ありがとう。……気をつけてお帰り」
封筒は、ふわりと花の香りをまとわせていた。いくつになってもこうした粋を忘れない方なのだ。
「……蘭さま」
かつての主人の名を、楽はなつかしく呼ぶ。きっともう、会うことはないだろうけれど。
手紙には、楽の家族を気遣う言葉が書き連ねられ、まるでそのついでのように、蘭が帝都へ移ることが告げられていた。そして、最後に。
『お前の商売の役に立つことでしょうから、本当はまだ表に出してはいけない情報を、こっそり教えてあげましょう。新しい皇帝陛下の即位日が決まりました』
その言葉の後にしっかりと日付が記されており、楽は目を見張った。これは、本当に表には出してはいけない情報だ。それを楽などに教えてくれた元主人の優しさと、決して悪用はしないであろうと信頼されたことへの喜びで、楽の頬が緩んだ。
「禄山、ちょっと待ちなさい」
そして楽は、あわてて出て行った禄山を呼び止めるため、扉を開いた。海風が隙間から吹き込んだ。
折角手に入れた情報は、きちんと活かさなければ。波を乗り越えねばならぬのは、新しい皇帝ばかりではないのだから。楽は、開いた扉を出て、久しぶりに駆け出した。
サークル名:つばめ綺譚社(URL)
執筆者名:紺堂 カヤ一言アピール
ファンタジー、青春小説などを中心に作品を発表しております。小説の書き手は紺堂 カヤ、伴美砂都でございます。
今回、アンソロジーには、つばめ綺譚社の看板作品『口笛、東風となりて君を寿ぐ』およびそのスピンオフ作品『石壁破りて蘭は咲く』の番外編として紺堂 カヤが書き下ろしました。