いつか、世界の果てで
潮騒が響く砂浜は、視界の半分以上を占めていました。
かつて私が住んでいた湖も風によって波立つことはありましたが、これほど絶え間なく、波飛沫の音が空まで鳴り響くことはありませんでした。
森に住んでいた頃。
私は山ブドウや野イチゴなどの木の実を好んで食べていました。ドングリやクルミの実を挽いた粉からできたパンや、アシタバやウドといった野草も少し食べました。
湖で釣れる魚を食べられるようになったのは、ごく最近のことです。
「食べられそうなら、口にしてみて」
コイ、マス、ワカサギ。新鮮な物はそのまま食べられるといわれましたが、私は全く食欲がわきませんでした。
串に刺して火で炙ったり、鍋の中で塩茹でされたものを僅かに食べることができるようになったくらいです。しかし小刀を持ち、自分の手で魚をさばくことが私にはできませんでした。
「君に持っていてほしい」
譲り受けた小刀は、木で出来た鞘の中に刃が収められています。木の鞘の表面は、あの人が丁寧に彫り込んだ繊細で美しい文様が刻まれていて、私は何度もその文様を指でなぞりました。
私の指から絵筆のように長く伸びていた毛は、すっかり抜け落ちてしまいました。指で絵を描けなくなってしまった私のために、あの人は木を彫って作った工芸品を街で売り、馬の尾の毛で作られた絵筆を買って来てくれました。あの時の気持ちは、いつまでも私の心に彩りを与えてくれています。
「いつか、一緒に海へ行こう」
湖という、閉ざされた空間から。
森という、周りが木々で覆われた世界から。
海はすべてを解放してくれる。
あの人をはそう信じていました。私もその言葉を信じました。
あの人が最後に作った、己の姿を模した小さな木彫りを巾着袋から取り出して手のひらに乗せます。
見えますか、イニセ。
こんなにも広く美しい世界が、私たちの目の前にありますよ。
【おわり】
サークル名:chiche – シシュ -(URL)
執筆者名:春木のん一言アピール
ふだんは幸せや笑いに溢れているとは限らない限らない日常系の短編小説を書いております。このお話は「すくわれようが すくわれまいが」の後日談のようなものです。テキレボには委託で参加しております。どうぞよろしくお願いいたします。