遙かなる、その先へ
海があった。
ずっとずっと昔から、海があった。
島があった。
ずっとずっと昔から、島があった。
海と島には、人の営みがあった。
ずっと昔から、人々は営みを続けていた。
海と島からの恵みを受けて。
足りぬ事はあっても、過ぎる事は無いよう恵みを受けて、営みを続けてきた。
それは、ずっと続いてきて、これからも、ずっと続いていくはずのものだった。
あの男をのぞいては。
男は言った。島を出て、空と海とが接する先に行くのだ、と。
周りは言った。やめろ、と。空と海とが接する所に向かっても、そこにたどり着くことはできないのだ、と。
いくら進んでも、空と海とが接する所にはたどり着けないのだ、と。
だが、男は言った。誰も行った事が無いのに、なぜにたどり着けないなどと言うのか、と。
長い間、男と皆は話し合った。けれど、男の決心を変えることは出来なかった。
そして、男の子供達が独り立ちを迎えた頃、
男は皆から捨てられた。
この島で、海と島からの恵みを受ける事をから外れるのだ。そんな男を、皆の中に置いておくわけにはいかない。
そして外れるものは、皆から捨てられなければならない。
皆から捨てられた男は、誰も見ていない時に、誰にも知られぬよう、海へと旅立って行った。
それきりだった。
男が島へ帰ってくる事も、男の後を誰かが追う事も無かった。
当然だろう、男は捨てられたのだから。
捨てられたものが戻ってくる事は許されないし、追う事も許されない。
捨てた以上、捨てられたものと関わる事があってはならない。
それが掟だった。
寄せられた木切れが、いつか並に再び浚われて行くように、日々が過ぎる内に、男の事は人々の口に出る事も無くなっていった。
あの若者をのぞいては。
若者は、あの男の孫であった。
勿論、祖父の顔は知らない。祖父の事を知らない。
誰一人として、若者に祖父の事を話した事など無かった。
しかしある日、若者は言った。空と海が接する先に行くのだ、と。
血なのだろうか。
あの時を知る人は、そう感じたりもした。
そして人々は、あの時と同じように若者を止めた。
空と海が接する所にはたどり着けない。
その先を目指しても、何も無い。
海と島との恵みの理から外れては、生きてはいけない、と。
若者はその一つ一つに反論する事は無く、ただ小さな木切れを取り出して見せた。
明らかに、人の手の入った木切れ。
そして、この島の誰もが知らない模様の刻まれた木切れを。
空と海が接する、その先には、自分達が知らない人達が営みを続けている所がある。
だから、そこへ行ってみたい。かなう事ならば、自分も新しい営みを始めてみたい、と。
若者は本気であった。
懇ろとなっていた娘と共に行くつもりであるくらいに本気であった。
だが、それが皆の反発をより強くした。
娘は女であり、女は母となれるからだ。
若者と娘への説得は、強く、そして粘り強く行われた。
月がその姿を失い、再び輝きを満ちるまでの間、説得は続けられたが、若者と娘とを翻意させる事は出来なかった。
皆は、長へとすべてを委ねる事とした。
長は皆に問うた。皆、自分にすべてを委ねるのか、と。
皆は答えた。はい、すべてを委ねます、と。
長は重ねて問うた。自分が下した事に、皆従うか、と。異を唱える事はないか、と。
皆はまた重ねて答えた。はい、すべて長に従います、と。
長は静かに頷いて言った。では、これから先は、自分以外がこの事を話すのを禁ずる、と。自分と若者だけで話をする。他のものはけっして話してはならない。娘に対しても、同じだ、と。
皆は約束の通り、長の言葉に従った。
若者を止めつつも、日々の営みは続けなければならない。
日々の海と島からの恵みを得た後に、長と若者は二人だけで話し合った。
潮が大きく引き、小さく引き、そして再び大きく引くようになっても、二人は話し続けていた。
そしてある日、長は皆に言った。
二人を捨てる、と。
元々、人々に捨てると言う言葉は無い。
たとえ人の営みの中で不要となったものでも、それは海や島に還るものであり、いずれは形を変えて人の営みの中へと戻ってくるものだからだ。
ゆえに、どんなものであろうと、還るのであって、捨てる事は無い。
だが、長は二人を捨てると言った。
海と島からの恵みを得て営まれる日々、その理から捨てると言ったのだ。
二人が捨てる事は許されない。二人を捨てねばならないのだ。
それは、恵みを与えてくれる海と島に対する、当然の務めであった。
長は皆に言った。捨てるからには、この二人に関わってはならぬ。もはや、理の外のものなのだ、関わればいかなる災いが訪れるかわからぬ。言葉を交わしてはならぬ、想いを寄せてはならぬ、と。
そして長は、若者と娘に言った。捨てられたものが、いつまでも島に留まってはならない、と。
ただ、すぐに出ていく事もならぬ、と。
太陽が空にある内に出て行けば、太陽からの恵みを裏切る事となる。
月が空にある内に出て行けば、月からの恵みを裏切る事となる。
だから、お前達は日が沈み、月が沈み、再び昇ってくるまでの間に出て行かねばならぬ、と。
若者と娘は頷いた。
再び長は皆に言った。
捨てたものを、誰も見送ってはならぬ、と。
皆、この時をもって、この二人を捨てるのだ、と。
若者の親兄弟、娘の親兄弟、いずれも言葉をかける事すら許されなかった。
すべてを委ねられた長が捨てるとしたのだ。捨てる相手に言葉をかけ、心をかけてはならない。
理の内のものが、理の外のものと関わりを持ってはならないのだ。
二人は皆に背を向け、島の端へと歩いて行った。
そこには若者が用意していた、舟と旅立ちの品がある。
捨てられるに相応しい時まで、二人はそこで過ごすのだ。
太陽が沈んで幾時、入れ替わるように昇って来た月もまた、海へと沈んでいった。
ぼやぼやとしていては、太陽が昇ってきてしまう。
若者と娘は、舟を海へと押し始めた。
その時、人の気配がし、茂みを分ける音がした。
若者が振り返ると、そこにいたのは長だった。
長は言う。
捨てたものが、きちんと島から出ていくか、それを見届ける役割が、自分にはある、と。
若者は軽く目を伏せた。
感謝の言葉も、別れの言葉も、彼が口にする事は許されない。
若者と娘が海へと進み出る、まさにその時、長は待てと声を発した。
もしも、ここでは無い島を見つけ、そこで営みを重ねる事が出来たなら、この名を付けて欲しい。
続く言葉に、若者は目を見張った。
「長、その名は……」
「そうだ。お前の祖父の名。そして……」
長は何かを懐かしむような、どこか優しげな表情を浮かべた。
「俺の、最も誇りとする友の名だ」
サークル名:POINT-ZERO(URL)
執筆者名:青銭兵六一言アピール
主な活動ジャンルは、ハードボイルド調作品。世の中を斜めに見て、醒めた笑いを浮かべているような話を中心に書いています。お天道様の下のような作品は不得手なのですが、お楽しみいただければ幸いです。