喫茶かもめ
喫茶かもめ。海辺の街にありがちな名前のこの店には、特別なメニューなどなにもない。
コーヒーとカフェオレ、紅茶にはレモンとミルクのどちらかを。とびきり美味しいこともなく、特別まずいわけでもない。一息入れた客たちが一歩外へ出た途端、記憶からふわりと消えるような存在感の薄い場所。それがこの店、なのだが。
どうもたまに、妙な客が紛れ込むようだ。
「昨日の雨が嘘みたいですねぇ」
湯が沸騰するまでもう少し。僕はグラスを拭きながら、当たり障りのない会話を始める。
初めての客とふたりきりの店内。ただ無口なだけなら気にしないのだが、どこかぎこちなかった。音を絞ったラジオでは埋めきれない無言の空白を、世間話でどうにかしようと試みる。
店に入ってくるなり老人が注文したのは、メニューにあるものではなかった。
『喫茶というのは茶が飲めるということではないのか。外国のものは好かん』
あいにく日本茶の用意はない。頭をひねって、どうにか今、別のものを準備している。
「あんまりひどいんで昨日は店閉めちゃったんですよね」
台風みたいなひどい時化だった。
じいさんは、窓の外の青空に少しだけ視線を向け、まぶしさに目を細める。
「商売あがったりだな」
窓から舞い込んだ風に乗り、ラジオの音がわずかに大きくなって耳に届く。ぴくりと、じいさんの眉間に皺が寄る。よりによって、遭難した船の船員が遺体で発見されました、なんていう暗いニュース。
かすかに漏れたため息。空気を変えたいと口を開くと、なにを言うより前に、
「まぁ、普段も儲かってるようには見えないがね」
いたずらっぽい口調で、そんなことを言われた。
「おや、失礼ですね」
「儲かってるのかね」
「いや、さっぱり儲かってないですけど」
「だろうな」
きひひ、と引きつったような笑いで、空気が緩む。常に仏頂面のタイプかと思ったがなかなか普通に笑えるじゃないか。言ってることは憎たらしいが。
「お客さん、今日はどちらから?」
特に興味もない質問。
「あぁ、さっき海から這い上がってきたところだよ」
これが本来の調子なのか、じいさんがにやりと笑って答える。
けれども当然ながら、彼の服は濡れてなどいないわけで。変わったじいさんだ。
「それはそれは」
まぁでもそういうことにしておいてやろう。どうせこの店自体、僕にとって暇つぶしなんだから。
手元のグラスからケトルに目を移し苦笑する。
暇つぶしにしても面倒なことだ。
「船から落ちでもしたんですか? よくご無事で」
「わはは、違う違う。そんな間抜けじゃないわい」
じいさんは笑いながら首を振り、ちらりと入り口に目をやった。誰も入ってこないことを確認し、声を小さく低くして、
「兄ちゃん、海坊主ってわかるかね?」
カウンター越しに、異次元の内緒話を始めた。
「……聞いたことはありますよ」
あぁ、しまった。変わったじいさんというより、面倒なじいさんだった。
「でも、あんまり詳しくないですね。その海坊主があなただと?」
「その通り」
さて、その言葉は嘘か本当か。まぁ、どちらでもいいんだけれど。
「海坊主……海坊主って……あれ、すみません。なにする人でしたっけ?」
ケトルがしゅんしゅんと音を立て始める。
「船を壊したり、船乗りをさらったりだな」
なにかが、頭をよぎる。
けれど、それにはきっと、触れてはいけない。
「悪いことするんですねぇ」
まるで他人事みたいな台詞で、境界線を引く。
「そうでもないさ。人が約束事を守らないときに、わしらが罰を与えるんだ」
「例えば?」
「海神さまに供物をささげるとか、月末に船を出してはいけないとかな」
ケトルが銀色の口から勢いよく湯気を噴き出し始める。
僕は火を止め、熱湯を湯飲みに注いだ。
器を温める必要なんて正直ないだろうけど、今飲むこれは、きっとやけどするくらいに熱いほうがいい。
飲み込まれる。
ほんの数秒前の穏やかな流れは、彼の棲む、暗く淀んだ海の底まで。
「……でも、それってずいぶんと勝手な話ですよね」
それをどの口が言うのかと、自嘲しながら。
「そうだな」
自分勝手な注文。メニューにないものだと突っぱねてもよかった。
それでも無碍にできなかったのは、店に入ってきた瞬間、なんとなく、彼が落ち込んでいるとわかってしまったからだ。
「そんな勝手で、何人も殺してきた」
静かに、淡々と、無機質に。
ゆっくりとした穏やかなはずの口調が、僕の心臓を冷たく鷲づかみにする。
「それでも後悔はない。わしらの神が決めたことに従ったまでだ」
なにかを押さえつけながら、声にほんの少し力を込めて彼は言う。
卑怯な免罪符だと、わかっていながら。
ぱしゃりと中の湯を捨て、湯飲みを軽く拭く。
傍らの缶を開け、普段はパスタの隠し味に使う粉末を湯飲みに移す。
あとはケトルをもう一度手にして。
彼にとって、今ここは懺悔の場だ。
色々なものに縛られて、人を死なせたことを悔やんでいる。
けれど、僕は神父でも牧師でもない。
「どうぞ」
「……これは?」
なら、救いも赦しも与えられない僕ができることは、
「梅昆布茶です。日本のものってそれくらいしかなくて」
ただ、その指先をあたためてやることくらいだろう。
じいさんは短く礼を言うと湯飲みに口をつけ、一口すすって、静かに息をはき出した。
「おまえは、わしが怖いか」
「……いいえ」
続く回答を待つように、なにも言わないまま、彼はこちらを見る。
「世を渡ること以上に恐ろしいものは、ありませんから」
「……そうか」
かみしめるように何度か頷くと、満足そうな顔をする。
「実は僕も世渡りリタイヤ組でしてね。組織で動くのが苦手で逃げてきたんですよ」
その後は軽い調子で話をし、次の客と入れ替わりにじいさんは席を立った。
「じゃあ、お会計100円で」
まぁそれなりに足りるのではと思えるだけの古いお金を受け取って、すっかり穏やかな表情になった老兵を出口まで見送る。さすがにもう疑う気はなかった。
「またのお越しをお待ちしております」
「わしらは人とは時間の感覚が違う。居眠りしているうちに何十年も経っていたりもするからな。次はいつになるやら」
「大丈夫ですよ。海坊主を見たものは長生きするらしいので。今度は日本茶も用意しておきますよ」
営業用の笑顔を向けると、
「きみは色々上手だな。組織が苦手とは思えないが、どんな仕事をしていたのかね?」
若干上品になった口調で、そんなことを言われた。
「あぁ、失礼。単なる興味本位だ。答えたくなければ、」
「……じゃあ、海坊主さんには特別にお教えしましょう」
人差し指を唇の前にぴんと立て、たいした仕事じゃないですよ、なんて前置きをして。
「簡単なお仕事ですよ。柄杓で船を沈めるだけの、ね」
サークル名:SiestaWeb(URL)
執筆者名:桂瀬衣緒一言アピール
全方向受信型文章書き。現在文章がまとまらない病に羅漢中。久々に長文書いたらよくわからない方向に流されました(海だけに)