海と金魚

1.
金魚は海では生きられない。
海に辿り着くにはまず水槽から出なければならない。万に一つもありえないが、その檻から出られたとしても、青い楽園に見えるそこは地獄だ。
でも、それでも、彼らの憧れは海なのだ。

2.
ドアを開けると、消毒液のツンとした匂いと柔らかな陽気に、智太郎は包まれた。
彼女のベッドの傍にいる女医は機器を片付けている最中で、皮の鞄に銀色の機器を仕舞っている。数日に一回の問診が終わったばかりのようだ。
「では、また3日後に来るから、くれぐれも外で遊びすぎたりしないように」
はあい、彼女は女医の言葉ににっこり返す。銀縁の眼鏡が似合う女医は満足そうに微笑み、少し頷いて、ベッドを離れた。
智太郎にも一つ会釈をして、女医は部屋を後にした。部屋には智太郎と彼女だけが取り残された。
「ちーちゃんも物好きだねえ」
彼女は開口一番、そんなことを言う。
「モノズキって何、まーちゃん」
智太郎はまーちゃん、もといマナミに答える。
「んー、変わってるねってこと」
「どこが?」
「私なんかのところに毎日毎日遊びに来るところ」
マナミには自分を卑下する癖があった。少し面倒臭く思った智太郎は何も言わず、額に浮かんだ汗をハンカチで拭った。水槽の酸素ポンプが、無機質な音を立てている。
「あっそうだ、さかなにも挨拶して」
ふと思い出したかのように、マナミはベッドの左側にある水槽を指差した。彼女から向かって左側には、海が一望できる大きな窓があった。その窓枠に大きめの水槽がひとつ、設置されている。
マナミの友人であるたった一匹の金魚に、智太郎はいつものように挨拶をした。
「お邪魔してます」
金魚はこちらを向くことなく、相変わらず窓の外を眺めていた。
水面のすれすれまで浮かび上がった金魚の体に、水中に取り残された長い灰色の尾ひれが、ふわふわひらめいている。
「やっぱりきれいだね、さかなは」
金魚はこっちに一瞥もくれないが、マナミは満足そうに微笑んだ。
そいつの品種は、鉄魚というらしい。マナミの友達であるそいつの名前は、つけていないという。たださかなと呼んでいると聞いたので、智太郎もさかなと呼んでいた。
町から少し離れたところにある、古い屋敷。そこには、都会から病気の療養に来た一人の少女とその祖母が住んでいる。その屋敷の二階に上がって突き当たりにある、日当たりの良い部屋。マナミが暮らしているこの部屋でだけ、智太郎は自分がやりたいように振る舞うことができた。
一人称をぼくと言ってもからかわない、足を閉じて座っても笑わない。智太郎が髪を結びたいと言うと可愛らしい髪ゴムを貸してくれるのも、智太郎をちーちゃんと呼んでくれるのも、マナミだけだった。
「今日あったこと、わたしとさかなにも教えてよ、ちーちゃん」
智太郎がベッドと窓の合間に置かれた椅子に腰掛けると間を空けずに、彼女は今日もわくわくした様子で、智太郎に話をせがんだ。
家から出られない彼女に、虚実織り交ぜて、今日小学校であったことを智太郎は話す。
「今日はね、メイちゃんと一緒に花の輪っかを作ったんだ。シロツメクサ、いっぱい生えてるねって話しながら、いっぱい作ったんだ。メイちゃんは編むのはうまいんだけど、花の輪を止めるときにね……」
マナミはいつも、智太郎の話を楽しそうに聞いてくれる。嬉しそうに相槌を打ちつつ、たまに笑う。
彼女は智太郎が知っている他の女性と全く違う笑い方をする。
喉の奥で押し殺したような感じで、クックッと笑うのだ。その上品さを人はしとやかだと言うのだが、まだ幼い智太郎は知らなかった。
智太郎は、きれいだが何か物足りないその笑い方が、いつもどこかつまらなさそうに思えてならなかった。
智太郎はそんな表情をいつか崩してみたい、本心を見てみたいと、少し思う。が、彼女とこうして放課後の数時間を過ごすようになって二月ほど経っても、彼女は相変わらず出会った頃と変わらない。
マナミと会って話すのは楽しい。だが彼女の仮面が剥がれないことに、智太郎は多少寂しさを感じていた。

3.
この教室に充満している水の質は、智太郎に合わない。
「オンナオトコの智太郎が、更衣室に来たぞ!」
今日もまた、幼稚な言葉ではやし立てるのは泰斗だ。
智太郎と同じ三年一組の生徒、中嶋泰斗。所謂ガキ大将と呼ばれる部類の人間である泰斗は、事あるごとに智太郎をからかう。
クラスと言えども、智太郎が通っているのは、一学年一組のみの小さな小学校だ。低学年の連中を引っ張っているのはこいつ、ということになる。
泰斗の引き連れる子分たちも、そうだそうだと合わせる。
「更衣室も女と一緒にすればいいのにー」
智太郎の胸に、チクチク刺さる。
智太郎はオンナオトコ。その言葉がどんなに痛いか、どんなに息を吸えなくするか、それは智太郎以外の誰も知らない。女の子になりたかったなんて、そんなこと。
智太郎はただ俯いたまま、何も言わない。ただ脱いだシャツを丁寧に畳む。
智太郎が何も言わないとさらにやかましく、彼らは続ける。
「言い返さないってことは認めたってことだろ」
「きゃー、おれ、オンナオトコに着替えるとこ見られてる!」
「庇ってくれるオトモダチも居ないもんな、カワイソーッ」
稚拙な言葉で追い討ちをかけるのは、智太郎の友人である女子がいないときだけだ。女子に男子は口論で勝てるわけがないと分かっているため、彼らは姑息な手段を取る。女子のいない着替えの時間、智太郎はいつもされるがままだった。
やり返すすべも知らない上、彼らの言っていることは図らずも的を射ているのだ。
その時、続く罵倒に、終止符が打たれた。
「何やってんだ!」
ドアをガラリと開けて、その人はつかつかとこちらに歩み寄ってくる。
「昨日人をからかうのはやめろって言ったばっかだろ」
「うわ、兄貴」
泰斗に兄貴と呼ばれたその人は、泰斗の頭をはたいた。ぱしんという音で、周囲の子分たちはひっと息を飲む。
「何度言ったら分かるんだよ、そういうのは馬鹿がやることだって。お前らも同じだ、なあ」
彼らより頭一つ分背が高いその人に睨まれて、子分らもきまりがわるそうに縮こまった。
泰斗の兄である基一は、六年生の学級委員を勤めている他、去年水泳で県大会に進むという大快挙を成し遂げていた。そんな奴に歯向かえるほどの強さは、この中の誰も持っていなかった。
かすかに外から聞こえてくる蝉の音がしばし教室を支配して、基一と智太郎以外の子供達に、重苦しくのしかかる。
「もういい、行けよ」
基一の言葉で、子供達はばっと教室の外に逃げて行った。
基一は一つため息をついてから、教室に一人取り残された智太郎の横の机に座った。
「智太郎、大丈夫か?ごめんないつも、俺の弟が」
嫌なことを言われたのなんて忘れる程には、智太郎の気分は高揚していた。
「んーん、大丈夫」
どきどきするのを抑え込むのに必死で、うまく笑えていないかもしれない。でもこれ以上基一に格好悪いところを見られたくない、その一心で、智太郎は精一杯笑って見せた。
「言い返しもせずに、お前は偉いなあ」
チャイムの鳴る音が、基一の言葉を遮った。去り際に智太郎の頭を撫でて、基一は三年一組から走って出て行った。

智太郎が校庭に辿り着くと、担任は智太郎に遅い、と怒鳴った。
くすくすと笑いが起きる。智太郎はおそるおそる、体操の隊形の中に入った。
体操の途中、隣の泰斗は智太郎にわざと少し寄る。
「また兄貴に守られてやんの」
泰斗は小声で智太郎に、意地悪く囁く。
「良かったな智太郎、だぁい好きな兄貴に会えて。でもお前も知ってるだろ、兄貴には好きな人が……」
そこまで言われてやっと、智太郎は泰斗を睨む。基一に好きな女の子がいるのは有名な話だ。
「ひゃー、睨まれちゃった。怖い怖い」
泰斗は大袈裟に肩をすくめて、また元の位置に戻る。
智太郎は体操を本気でやって、泣きそうな気持ちを抑えていた。
梅雨がようやく開けて、太陽は容赦なく智太郎の肌を焼く。今にも肌が焦げる、じりじりという音が聞こえてきそうだ。
基一、あるいは先生に叱られたのがこたえて、一時はいじりが下火になる。しかしその効果はいつも短期間で終わってしまう。また一週間も経てば元通りの日々が智太郎を待ち受けている。いじられる、泰斗達が叱られる、一時いじりがなくなる、またいじられる、その繰り返しが、もう何年も続いている。
こんなことを父や母に言ったところで、やり返さないお前が悪いと言われるのはわかっているから、親にも相談できない。
女子がいない時だけとは言っても、嫌なものは嫌で、痛いものは痛いのだ。
だが、放課後はマナミが智太郎を待ってくれている。それが智太郎の救いで、楽しみだった。

4.
あの日も、基一に叱られたすぐ後の日だった。
「なあ智太郎、ちょっと来い」
放課後、マナミのところに急ごうとする智太郎を泰斗が引き止めた。
「ちょっとおれ急いでるんだけど」
智太郎が控えめに対抗するが、泰斗は引き下がらない。
「少しでいいから」
基一に似た目でせがまれて、智太郎は首を横に振れなかった。
着いて来ようとする子分らを追い払って、泰斗は人気のない音楽室の方に智太郎を引っ張って行った。
蝉の歌が響いている。蒸し暑く埃っぽい智太郎が音楽室の戸を閉めると、ようやく泰斗は口を開いた。
「なあ智太郎」
泰斗はそう言ったきり再び黙った。どうやら続く言葉を探しているようで、泰斗の視線は智太郎から外れ、床を見ていた。
痺れを切らした智太郎が声をかけようとした時、やっと泰斗は聞いた。
「お前、何でいつも言い返さないんだ」
ナンデイツモイイカエサナインダ。
思ってもいない言葉をかけられて、智太郎は戸惑った。久しぶりに聞いた悪態でない言葉に戸惑って、焦って、言葉を幾度も反芻してから、その意味を理解した。しかし答えられる訳もなく、智太郎は口をつぐんだままでいた。
「兄貴はいっつも、何も言い返さないお前を褒める。でも、おれはその理由がわからないんだ」
思いがけない素直な言葉に、智太郎はこんな関係になる前の泰斗のことを思い出していた。そういえば泰斗は、素直な子だった。智太郎はその素直さが好きだったが、今はその実直さが智太郎を苦しめている。
なんでいつも言い返せないのか。その答えは決まっている。分かっている。しかし泰斗に言える理由じゃあない。
「おれは兄貴の考えてることが分からないし、それ以上にお前が分からないんだよ、智太郎、なあ」
そこで適当な理由を返せるほど、智太郎は成熟していなかった。
智太郎は返答に詰まる。どくどくと血が巡る。体の奥の方は熱く、表面だけは変な風に冷えている。
「なんで黙ってるんだよ」
頭痛がする。目の前が霞む。なんとか答えようとして震える唇に、泰斗だけでなく智太郎自身も苛立っていた。
「なあ、オトコオンナさんよ」
どうしてその行動に出たのか、智太郎が今思い返しても、色々な原因があっただろう。早くマナミのところに向かいたかったこと、毎日毎日嫌なことを言われっぱなしで鬱憤が爆発したのかもしれない。ともかく、気が付いた時、智太郎は泰斗の胸ぐらを掴んでいた。掴みつつ、「お前に分かるか」と叫んでいた。
智太郎のその形相と、その目から流れる生ぬるい水滴を受けて、泰斗は初めて自分がやってはいけない事をしたのだと知った。
智太郎は止まらない。どこから出ているのかも分からない、今まで出したことのないほど大きな声で、なおも叫ぶ。
「なあ、ぼくの気持ちがお前に分かるのかよ」
「智太郎!」
泰斗のぐっと苦しそうに呻く声と扉から聞こえた怒声で、智太郎は我に帰った。
掴んでいた手をパッと離す。離してから、自分がしでかした事を振り返った。弟の無事を確認する兄の姿に急に冷静になって、その温度差に凍えそうになった。
智太郎は何も言わず、音楽室から駆け出した。

「ちーちゃん、本は読まないの?」
智太郎はふるふるとかぶりを振った。
「苦手?」
「うん、ぼく、本は苦手。」
「勿体無い。こんなに面白いのにねぇ」
彼女はそう言ったっきり、また本の世界に戻ってしまった。彼女がそれに没頭しているのを見るのもまた、智太郎は好きだった。
丸っこい指がページをめくる様も、たまに落ちてくる髪を耳にかけ直す仕草も。
だから、こんなの初めてなのだ。
彼女の一挙手一投足に、嫌な感情を持つのなんて。
「わたし、大きくなったら世界中を旅するつもりよ、他でもないこの足で」
智太郎の感情を知らないマナミは、読みかけの本に栞を挟みつつ、智太郎に話す。
今日のマナミはよく話す。どうやら調子が良いようだ。
「海で泳いで、山に登って。果てしなく長い道をただ何日も歩くのも、知らない言葉を使う人たちと話すのも、わたし、きっと厭わない」
調子が悪い智太郎は、彼女の夢見るような口調に苛々していた。さかながちらと、智太郎を見た気がした。
「そうしてその旅路を本に書いて、わたしみたいに外に行けない子どもたちに世界を見せるの」
智太郎はとうとう、我慢ならなくなった。
「ぼくはできるよ、まーちゃん」
窓の外に顔を向けたまま、智太郎は言った。
「ぼくは外を出歩ける。ぼくは学校で会った事をまーちゃんに言える。でもぼくは、まーちゃんみたいなかわいい女の子じゃないんだ」
基一兄ちゃんにかわいいって言ってもらえるような、女の子じゃないんだ。言ってるうちに、智太郎は悲しくなってくる。自分の感情でいっぱいいっぱいで、今自分が何を言っているのか分からない。
「ぼくがまーちゃんだったら良かったのに」
言い切ってから、自分の視線をマナミに向けた、その時のマナミの顔を、智太郎は忘れられない。
凍りつく、とはまさにその事なのだろう。
「なんでそんなこと言うの」
途端、マナミの大きな目が潤んだ。決して剥がれなかった仮面が、ズレた。ずっと願っていたことが、智太郎が望まない形で実現されてしまった。
潤んだ目から、涙がこぼれた。真っ白な布団に一つ、灰色の斑点ができるのを智太郎は見た。
「ちーちゃん、なんでそんなこと言うの」
あっと思う間も無く、彼女はベッドの上で泣き崩れた。白い手が顔を覆い、その指の間から垂れる透明なものは、シーツの上に落ちては斑点を増やす。
「なんで、君にできてわたしには、わたしは……」
右手を顔から離し、智太郎を掴んだ。彼女の指が、智太郎のタンクトップから出ている薄っぺらな肩に食い込む。彼女の剣幕と、その白い指先から伝わる力の差に驚いて、智太郎は何も言えなかった。
彼女のその目から、目と同じように丸い雫が後から後から溢れる。丸い頰に筋を残して、白いシーツに灰色の斑点が増えていく。
彼女を泣かせてしまった。そんなつもりはなかった。呆然とした智太郎は、戸を叩く音が聞いた。次いで、彼女の名が呼ばれる。マナミ、入っていい?
彼女の祖母がドア越しにかけた、この何でもない声に、智太郎はぎょっとした。この状況をどう話したらいいというのか。智太郎がなんとか答えようと体を戸に向けたそのとき、彼女はぐいと智太郎の腕を掴んだ。
「今お友達が来ているところだから、ちょっとだけ待ってて」
間髪入れず、彼女は戸に向かって答えた。いつもの大人びた調子で、落ち着いた声で。
彼女の真っ赤な顔と涼しい声は、てんでばらばらだった。
「慣れてるの?」
泣いてるのを隠して振る舞うのに。智太郎の言葉に彼女は答えず、一層強く睨みつけた。
「あんたに何が分かるって言うの、智太郎に。男にも女にもなりきれない癖に!」
押し殺した声で彼女はそう言い、扉の方へ智太郎をドンと押し出した。
彼女が後悔するのは、智太郎が何も言わずに出て行った後になってからだった。

5.
錦 マナミという人間は、生まれつき病弱だった。
入退院を繰り返すため、彼女が生まれてから10年間に、まともに会話したことのある人は片手で数えられるほどだ。
マナミの両親が働いているのは、ただ単に家を豊かにするためだけではないのを、マナミは分かっている。なぜ祖母の家に預けられたままでいるのかも。
それはマナミの為であり、同時に娘にどう接すれば良いのか分からない、不器用さを拗らせた夫婦のとった手段だったというのを、マナミは最近になって気付いた。

大昔に貰った図鑑の中に、鉄魚はいた。
その優雅さに虜になって、いつまでも図鑑を眺めているマナミを見て、珍しく会いに来たマナミの父親は、その歳の誕生日に鉄魚をくれたのだ。
そうしてやってきた鉄魚を待ち受けていたのは、残酷な環境だった。
海を目前にした場所に置かれた水槽の中に、たった一匹のさかなは入れられた。窓辺に置いた狭い水槽からは海を一望できるようになっている。
彼女はひらひら、泳いでいた。長い見事なヒレをひらひら揺らめかせて、眼前の海よりかずっと狭い金魚鉢の中で退屈そうに泳いでいる、マナミにはそう見える。
マナミはそれを見て少し満足していた。同じ境遇のものが、目の前にいる。世界が広いということは知っている、眩しくきれいな未知の場所が広がっている。だがそこに一歩踏み出せば、一巻の終わり、死んでしまう。金魚の体に塩水は合わない、マナミには世界が合わない。
いつしかマナミに彼女は小さな人のように見えるようになった。細い細い肢体を持つ、長いグレーのワンピースを身に纏った、小さな少女に。
とうとう退屈すぎて、マナミの頭がいよいよおかしくなったのかもしれない。でも、マナミはそれでも良かった。話し相手ができたから。
彼女が水の中を少しでも動くと、彼女のワンピースは裾を光に反射させながらひらめいた。なめらかな鱗が、薄いひれが、やんわり光を返す。身じろぎ一つですら、彼女の魅力の元となる。
彼女は稀にこちらを向き、その小さな口をぱくぱく動かした。
そんなとき、金銀に光るごく小さな水泡が水面に浮かんでいく。
私に伝えようとしていることばがあぶくに包まれて、きらきら光りながら登って弾けて消える。私には届かない。
こちらを向いていないときのさかなは、窓の外を見ていた。
鉢の淵に吸い寄せられるように水面のぎりぎりまで浮かび上がっては、窓の外に身体を向け、瞼のないつぶらな瞳に水平線を映す。
海が羨ましいのだろうな。そう思うたびにマナミはたまらない憐れみと共に、自分は多少は外に行けるのだという優越感と、いつまで海を見てるのだろう、と同族嫌悪にも似た苛立ちを感じていた。
鬱屈なさかなとの毎日を変えたのは、智太郎という同い年の子と会ったこと。
同い年の、男の子の姿の女の子。マナミの知らないことを経験している、毎日会いに来てくれる子。
マナミにとっては初めての友人かつ、自分と世界の「普通」がズレている生き辛さを共感できる初めての人だった。その上、さかなを認識してくれる。
そんな人と、喧嘩をしてしまった。喧嘩をした日の夜、マナミは布団の中でぼんやりと考えていた。
普通になりたいと夢を見るのも、もう終わりかもしれない。智太郎と話しているとき、あれは夢のような時間だったと、マナミは振り返る。私は普通の女の子のように誰かと会話ができたし、智太郎も「ちーちゃん」として振舞っていた。
だが実際はそんなことはない。智太郎の体は顔は、もう女の子には到底見えない。私だって、「普通」じゃなかったから、智太郎を傷つけてしまった。きっと 彼はもう来ないだろう。
じっと耳を澄ますと、水槽のポンプの音より遥かに小さな潮の音が聞こえる。
やっぱり金魚は、海には入れないのだ。 夢の世界に落ちる前に、マナミの思考はそこに行き着いた。

6.
智太郎が屋敷に来なくなって、数日が経つ。その間マナミは体調を崩し、短い間、二駅隣にある病院に入院していた。
気がつけば季節は盛夏で、ただ外に立っているだけで汗が流れるようになった。マナミはこの季節が嫌いだ。外に出るのを、いつも以上に厳重に禁止されるから。
一週間ぶりに屋敷に帰ると、何かがおかしかった。何か物理的に、おかしいところはない。祖母も何もおかしいところはないと言う。いや、そんなわけはない。嫌な予感がマナミの全身を突き抜け、病み上がりの体も気にせず、マナミは二階に駆け上がった。
自分の部屋の扉を開けて、マナミはその違和感の正体に気が付いた。さかなが、水面に浮いている。駆け寄ると、さかなの目は白く濁っており、重そうなワンピースの裾ばかりが水中に漂っていた。
さかなが、さかなじゃない。
膝から崩れ落ち、マナミはしばし、そこからさかなを見上げた。さかなはびくともしない。いつも通りなのは、ポンプの無機質な音ばかりである。
一階の柱時計が、17時を告げた。やっと落ち着いたマナミは立ち上がり、おそるおそるさかなだったものを指先に当てた。ざらざらして、ぴくりとも動かない。
ああ、さかなは死んだのだ。
祖母を呼ぼうと一階に下ると、祖母はロックチェアに座ったまま眠りこけていた。
入院している間、祖母は毎日病室に見舞いに来てくれていた。大した距離ではないにしろ、病院と家を毎日行き来するのは齢70の老婦人にとって重労働に違いなかった。
せめてさかながよく見ていた海に葬ってやりたいと、マナミは考えた。祖母が付き添わないのならば、わたし一人で。
裏口の戸を少し開けてから、マナミは再び二階に上がった。部屋についてから、まず酸素ポンプの電源を止めた。部屋に帰ればいつでも鳴っていたその音が、ぴたりと静止した。次に、そっとさかなの抜け殻を両手ですくい上げた。マナミの小さな手に大きなさかなの体は有り余って、大きなヒレが手の中から飛び出すが、気にしてはいられない。
裏口から出ると、夕方の橙の光と夏の空気がマナミを包んだ。その眩しさに目をそばめて、そのむっとした空気に気持ち悪さを覚えながら、彼女は浜辺の方へ下って行く。
蝉の声が頭を締め付ける。暑さは容赦なく、マナミを蝕む。
浜辺にたどり着いて、マナミはほぼ倒れこむように、波打ち際にしゃがんだ。しかし、なかなか考えていたことが実行に移せない。今更色々なことが頭を巡って、マナミの頭は感情にまみれたまま、そのからだを動かそうとしない。
気がつくと、誰かがマナミの横に並び、波打ち際一緒に眺めている。マナミが少し揺れると、その誰かの影も同じだけ揺れる。
マナミがふと隣に視線を移すと、長い灰色のスカートと、白い素足が見えた。マナミはぞわっとした。と同時に、何故か安心するような、泣きたくなるような気持ちになった。
「ねえ、マナミ」
ささやくようなその声は、すっとマナミの耳に入ってくる。
「あたし、さかな」
「しってる」
マナミは頷いた。ぱそん、波を手のひらで打つ音が隣で聞こえた。
「海に、行きたかった。すぐそばで見られる海はきれいで、広くて。でも、マナミは、海にはいないんだね。」
声色は落ち着いているのに、その体は大人なのに、紡ぐ言葉は幼児のように拙い。
「海はね、カエるものなんだよ、マナミ。いつか、みんな帰るの。ふつうじゃなくても、ふつうのひとでも、みんな。」
隣の影が動いた。さかなは立ち上がって、マナミの正面に座る。
「そんなに急ぐことはきっとないんだよ、マナミ。あたし、幸せだったよ」
さかなは海につかってもいないのにビショビショに濡れているその細い腕で、マナミを一瞬、抱きしめた。
マナミが驚く間も無く、さかなはその腕を解いた。
「じゃあ、ばいばい!またね!」
言うやいなや、水平線に向かってさかなは駆け出した。
「さかな、ねえ、行かないで」
顔を上げると、目の前にはもうさかなはいなかった。さかなが、波の上を走っている。その背中はもう既に小さい。
「さかな、それなら、連れてってよ!」
マナミの悲痛な叫びは、波の音に掻き消された。
智太郎が屋敷に向かう途中、浜辺でうずくまっている彼女を見つけたのはほぼ偶然に近かった。
「何やってるの、まーちゃん!」
「さ、かな!」
血色の悪いマナミはそれでも、指をさそうとする。視線の先には小さいさかながいるのに、智太郎は気にも留めない。
「まーちゃんのばか」
そう言って、智太郎は立ち上がれそうにないマナミを背負った。
智太郎の頼りない背中、暖かい背中に揺られながら、マナミは智太郎と会うのがいやに久しぶりに思えてならなかった。大人になる途中でまだ小さい、だが自分とは明らかに骨格の違う背中にもたれていると、智太郎はマナミに話しかけた。
「ぼく、ずーっと考えていたんだ、まーちゃん。はっきりした、大人みたいなことは何にも分からなかったけど」
マナミを背負ったまま、智太郎は海辺から屋敷へ続く道を登る。
「ぼくらは、世界の言う普通の人間じゃない。なりたい自分にはなれないのかもしれない。けど、なりたい自分と今の自分を少しずつ混ぜることはできるんだ」
世界にゆっくり、夜の帳が下りていた。蒸し暑い空気が涼しい風に吹き飛ばされて、日中から暮らしやすい夜に変わる。
「悲しいし、やっぱり優しくない世界だけど。でも息継ぎのできるおおきな泡がまれにあるんだよ、海の中にも。ぼくにとってその泡は、まーちゃんの部屋なんだ」
マナミはふと遠い海を見た。もうそこに、さかなの影はない。
「ねえ、まーちゃん、ぼくが君の泡になるから。だから、ぼくに黙って海の向こうに行こうなんて思わないで」
智太郎の声は震えていた。マナミはそのとき、分かり得ないなあと思った。 分からないし、きっとこの先、わたしの抱える気持ちは、だれともぴったり重なり合うことはないんだろう。
でも私は今、幸せだ。


Webanthcircle
サークル名:ネコと菜の花(URL
執筆者名:Miki

一言アピール
NL、BL、GL、はたまた人ではないものとまで、様々な恋愛をお届けする恋愛小説中心の合同サークルです。よろしくお願いします

Webanthimp

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