海の忘れもの
「ね、行こ」
昼のぼやけた陽光を背にして、
これだけのことに疲れた貴海はうすっぺらでひょろりとした上体を折っていたけど、長いくろ髪の間から僕を見上げる眼は、煌々とあおく輝いている、ように、僕には見えた。僕は応えた。わかった。行こうか。海へ。
貴海も僕も、海には一度しか行ったことが無い。しかも泳いだことも無く、波打ち際をぱちゃぱちゃしただけだった。波は微かで薄くて、大した力もないみたいなのに、足が紐に引っかかったみたいに、するり、ずるり、引き込まれそうになって、僕はそれがもの凄く怖かった。高いところから落ちるようなふわりとした感じ。背筋がぴーんと冷えて凍える感じ。
僕はその感覚に怯んで、転んで手を着いて必死になって波打ち際から這い出た。振り返ったら貴海はいなかった。
びっくりした。びっくりして、びっくりの力を借りて人を呼んで、貴海を探した。
浜から少しだけ沖で溺れているところを見つかって、貴海は無事だった。でも、その時にはもう、僕の眼には貴海の眼があおく見えるようになっていた。あおくて暗くてくろい、波の狭間に反射する光がきらきらする、海を映した眼。
僕はその一連の出来事ですっかり海が怖くなってしまった。だが、貴海はけろりとしていた。そしていつしか、どこへともなくどこかへ行きたがるようになった。僕はすぐに分かった。僕にしかわからないみたいでもあった。貴海は海を求めている。
貴海が再び海と出会ったら、海は貴海を返してくれないのではないか。僕にはそう思えてならなくて、貴海を海へ連れて行くことはなかった。彼女の部屋を海色に変えて、満足させて――誤魔化していた。誤魔化されていたのは僕だった。僕が作った、海から守る海色の要塞は、貴海の手によってどんどん海に似せられていった。壁紙に描かれる水中の波、海の匂いが残ったままの、浜の砂の瓶詰めや雑貨が日に日に増えていった。
僕は疲れて、諦めてしまったのだろうか。
車のキーと財布だけを持って出発したのは昼過ぎ、目的の海が見えたのは夜になってからだった。ただの海ではない、貴海の望んでいる海は、前に一度だけ行った、あの場所。
海岸線を暗闇の中、ヘッドライトだけを頼りに走る。
「なんか、変な夢見た」
潮のにおいに気がついたらしい貴海が、後部座席で起き上がる。ミラー越しに見える顔はぼんやりとしていた。
「夢って?」
「なんか、忘れものしたけど、取りに戻れない、みたいな」
あんまり覚えてない。貴海は大あくびして伸びをする。
「忘れものかあ」
僕はなぜだか声に出した。車のキーと財布。貴海に至っては手ぶらだ。それなのに、忘れ物だなんて、あるわけがない。なにを持ってきたとして、貴海と海の間を引き裂くなんてことができるだろうか。
僕は諦めているのか。
長時間運転でぼやけた頭がやっと受け入れる。僕は、貴海と海とをもう引き離せないと認めてしまった。
それなら、忘れ物は山ほどある。貴海との、普通の、海を意識しない思い出はまだ足りない。貴海はまだほんの少女で、僕だって歳が少し上なだけなのだから。
「うーみー!」
後部座席の窓が開く。むわりと重たい潮風が車内に入ってきて、貴海はそれも構わず身を乗り出して叫んだ。
ああ、もうすぐだよ。
僕は声を掛けることができない。
サークル名:夢想甲殻類(URL)
執筆者名:木村凌和一言アピール
美少女が蟹を食べるアンソロの他にも、海を題材にした個人誌がいくつかあります。
今回は海と選択がテーマの短編集「きらきら」収録作からの一編です。