花になれない私のスープ

 わたしの知っているそのひとは、花のような女のひと。
 転職をした最初の日に上司が、年の近い同性の先輩だから頼りにするようにと、わたしに引き会わせたのが、彼女だった。
 少し低い声でわたしに語りかけるそのひとと、親しくなれたらいいなと思った。

 そのひとを眺めていて、感じたことがいくつかある。
 ひとつ、花は過剰には語らない。相手に見つめられたときだけ、ひっそりとした声で語りかけてくれる。彼女も、ほとんどは自分から声を上げることはなかったけれど、誰かが語りかければ、淡くラメの光る目元に穏やかな喜怒哀楽を浮かべ、心地よい声で答えていた。
 ひとつ、花は不相応な衣装を纏わない。彼女はいつも自分の身体にしっくりと馴染む服を着ていた。まるで花が自然に美しい花弁を装って咲くように、彼女が選んで着る服はすべて、このうえなく彼女に相応しいものに見えた。
 ひとつ、花は人を不快にしない。花がそこにあるだけで、人は心地よくなり、日常にすり減らされる心の痛みを和らがせる。爪の先まで過不足なく清潔に装った彼女が背筋を伸ばして自分の席に座っている。それを眺めているだけで、どこか幸せな気持ちになれる。
 数日のうちは、わたしはそのひとと同じ場所にいられてとても嬉しかった。彼女といるのはとても気分がよくて、わたしは先輩に恵まれていると純粋に思った。けれど、その感情が長く続かないことは、ある程度の時間を重ねれば容易にわかってしまった。
 華がありながら楚々として、控えめでありながら凛として、非の打ちどころのない彼女の隣で、わたしは当然、日陰者になった。羨望の感情はあっというまに妬みに姿を変え、彼女と自分をなにかにつけて比べては、より相手と自分自身への嫌悪を深めていった。
 そうして、わたしはそのひとを嫌いになった。
 嫌いになったならただ突き放してしまえば楽なのに、わたしはそれでも花であるそのひとを眺めるころをやめられなかった。それは、かさぶたを幾度も爪で抉って血を流すことに似ている。わたしは自分で嫉妬の感情を刺激して、その下にあるコンプレックスを自分から引きずりだして愛撫する。その痛みは不快であるのと同じくらい、心地よかった。
 彼女が華やかで清楚な百合の花であるとしたら、わたしはきっと花にも及ばない。花屋に並ぶことも、花瓶に飾られることもない、道端で見向きもされない雑草なのだろう。
 おしゃれに敏感だったことなど人生で一度もない。髪は一度も染めたことはなく、メイクも就職活動の一環で身に着けてからひとつも変えていない。
 そんなわたしに比べて、彼女は自分が花であるため、きっとたくさんの努力をしているのだろう。初めて出会った頃からいままでのあいだも彼女の「美しい」が揺るがないのは、年月の経過やその時々の流行に自分を柔軟に添わせているからで、そうでなければ、常に花の盛りのような容姿を保ってはいられないはずだ。
 わたしが無為に過ごす日夜のなかで、彼女は自分に似合う髪型、化粧、服の選び方を研究し、その体形と姿勢を保つために日々の食事や生活にルールをつくった。彼女が毎日デスクに置いているのは外国産のミネラルウォーターや美容に良いのだというお茶。ヨガを習っていると、以前、話しているのを耳にしたことがある。
 自分の美しさを知っているというのは、こんなにも強いことなのかと思う。彼女には、自分自身のために惜しみなくお金や時間を投じることが、なんのてらいもなくできてしまうのだ。そして、わたしにはそれができなかった。そうして出来上がったのが、彼女という花と、わたしというぼんやりした存在。
 わたしが選び取らなかった道を、彼女は進んでいるだけ。それだけのことだとわかっているはずなのに、この打ちのめされたような気持ちと、醜い嫉妬の感情は絶えずわたしのなかから湧き上がってくる。

 ある日、ドラッグストアで化粧水を買った。わたしは化粧品といえば、実家で母が使っていたものしか知らない。陳列棚を占領するたくさんの種類のなかで、わたしが信じるのはほんのわずかなものだけ。
 けれどその日はついでに、若者向けの安価なカラーコスメの並ぶ棚を見て歩いてみた。そこは、棚の一つひとつが電灯で照らされて、一際明るい空間だった。宣伝用のパネルに印刷された流行りの女優の笑顔が眩しい。
 目についた口紅をなにげなく手に取る。真っ赤な色だった。あのひとも、こんな色の口紅をときどきしている。わたしもしてみようか、と思ったのは一度や二度ではない。だけど、試したことは一度もない。
 わたしは、口紅の色をじっと見つめて、頭のなかで自分の唇にその色を重ねてみる。化粧などしていないも同然の顔のなかで、唇ばかりが赤くてかてかと輝いている姿が容易に浮かんで、そのピエロのような顔に、羞恥心がおなかの底から湧き上がってきた。わたしは震える手で口紅を棚に戻して、きらびやかなその空間から早足に逃げ出した。

 ドラッグストアの帰り道、わたしは家の最寄りのスーパーに寄って、腹いせのように大量の食料を買い込んだ。奮発して、普段は買わない牛肉の、しかも黒毛和牛の、しかもブロック肉を買う。口紅の色を見比べるのに対して、並んだ牛肉を眺めることにはなんの気負いも後ろめたさも感じない。楽しいとすら感じる。
 頭に思いつくままに買った食材を満杯にした買い物袋を提げ、狭いワンルームに帰り着く。わたしは重い荷物を下ろすと、シンクの下から大きな鍋を引っ張り出した。一人暮らしにはあまりに贅沢で大きな、ひとつ二万円ほどする有名ブランドの琺瑯鍋。そこに、水道の蛇口から直接水を注ぎ、目分量で止めてコンロに置く。
 手を洗ってほとんど伸びっぱなしの髪を後ろで無造作に結ぶと、買い物袋から野菜を取り出して洗い、ざくざくと大胆に切って、切れた端から鍋に放り込んだ。それを野菜の品数だけ繰り返したら、次は奮発して買った牛肉ブロックを切り分けて、同じように鍋に投入。さらに調味料棚から固形のコンソメをつかみ取り、お湯の分量から推測した数を、これも鍋へ。これでもう、大きな鍋はめいっぱいだ。コンロのつまみをひねって着火し、鍋蓋で封をした。
 次の作業に取りかかる。二口あるコンロの片方に乗せた炊飯用の土鍋に、洗った米を流し込む。実家からお下がりで貰った炊飯器が壊れたのを期に、これ幸いとばかりに長年憧れていた土鍋に買い替えたのが半年前。タイマーもなく、炊き上がりも自動で加減してくれない不便さに不安もあったが、なくしてみればそんな機能はまったく必要なかった。土鍋に水を張って弱火にかけて、美味しく炊けるよう、綺麗なおこげができるように胸のなかでひっそりお祈りする。料理も炊飯も、いつもと同じ手順でやっていても出来上がりは微妙に違う。
 二つの鍋をガス火が調理しているあいだに、小さなテーブルの上を片づける。取り残された朝食の残骸を捨て、ノートパソコンを閉じて脇へよける。できたスペースにランチョンマットを敷き、愛用のカトラリーを並べる。カトラリーのキラキラと鳴る金属音が、わたしの憂さを少しだけ砕いてくれる。
 テレビを点けると、ちょうど天気予報の時間だった。女性気象予報士が高い声で、「明日は曇りがちな、ぱっとしないお天気でしょう」と告げている。それを耳だけで聴いて、明日は折り畳み傘を持っていこうとぼんやり考えながら部屋着に着替えた。気象予報士が言う「ぱっとしない」という言葉が、妙に耳の奥に残って何度も鳴り響いた。
 脱いだ服をクローゼットと洗濯籠へ振り分け、ついでにここのところ畳まないまま積み上げていた服を綺麗に直していると、コンロの上に鎮座した鍋が音を立てて主張を始めた。
 カタコトと鳴る琺瑯鍋の蓋を開ける。具材はしんなりと、琥珀色の液体のなかに横たわっていた。灰汁を取りながら中身をかき混ぜ、香りづけのブーケガルニと塩を足す。その横で、土鍋が蓋の小さな穴からふつふつと湯気が噴き出ていた。
 あとは、弱火にしたガス火と鍋が、しっかりと味を決めてくれる。わたしはコンロの前に置いたスツールに腰を下ろし、ぐつぐつコトコトと鳴るその音楽に耳を傾けた。
 狭い家のなかに、美味しい香りが満ちていく。耳に優しい鍋の音と期待を膨らませる香りに包まれぼんやりしているうちに、テレビが気象予報を終え、ベッドサイドに置いた目覚まし時計が七時を指し示した。
 わたしは鍋を開け、二つの鍋がしっかり仕事をした成果を確かめた。
 土鍋のなかには、ふっくらと炊けたご飯がつやつやと輝いていた。底のほうからかき混ぜると、程よく色づいたおこげが香ばしい香りと共に現れる。
 琺瑯鍋のなかには、琥珀色の液体のなかに肉と野菜がほどよく溶け込んでいる。火を止める前にブーケガルニを取り出して最後の味見をして、少しだけ塩を足した。
 それぞれを食器に盛り付けて、ランチョンマットのうえに並べたさまはひとつの芸術作品の完成を思わせる。
 わたしは心底満足しながら頷いて、食卓に着いた。

 いただきますと手を合わせ、スープを啜り、ご飯を咀嚼しながら、わたしは幸せも一緒に噛み締める。いくつもの野菜の甘みと牛肉のコク深い油分が調和した琥珀色のスープは、大雑把につくったとは思えないくらい奥深い味になった。ご飯は少し固めで、ふっくらとした粒は噛んでいて病みつきになる。
 ほかの誰のためでもない、自分のためだけの高級な鍋と高級な食材でつくる、わたし専用の食卓。
 わたしは黙々と手と口を動かしながら、自分が雑草になった姿を想像した。花が咲くかどうかもわからない日陰の草が、地面の下の根っこで必死に養分を吸い上げている。誰に見向きもされずとも、生きている限りは生き続けなければいけないと、がむしゃらに。けれど、できるものなら綺麗な花を咲かせてみたいなと薄い望みを抱いたりする。
 花になれないわたしのスープは、とても美味しかった。


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サークル名:さらてり(URL
執筆者名:とや

一言アピール
主に異世界だったり和風だったりするファンタジーを書いています。心理描写や情景描写が好き。全体的に女性が強い。テキレボ8にて、復讐を題材にしたダークファンタジー新刊が出ます。ほかに、完結済み和風FT『創月紀 ~ツクヨミ異聞~』シリーズや、掌編100円冊子いろいろ。

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