なのはな紳士協定
耳もとで風が鳴る。
内側から叩くように心臓が脈打つ。ペダルと一体化した足を一心に動かし、ただひたすらに前へ進む。
すでに息は上がりっぱなしで、喉がギュッと詰まるみたいだ。ハンドルを強く握る手が痛い。新しいサイクルジャージは俺の体にぴったりで、空気抵抗を減らしてはくれているはずだけど、だからといって登坂がラクになるわけでもない。
だからこそ、燃える。
自然と口の端が上がった。
シフトレバーをグッと押し込む。足にかかる負荷が一段階重くなる。踏み込みながら立ち上がり、全身の力を込めてラストスパート。
前へ。前へ! あの頂上まで!
爆発しそうな鼓動、ギシギシ軋む足、でたらめな呼吸、ああ、邪魔だ、もうグローブやヘルメットなんて取っ払ってしまいたい、もっと近く、もっと直に、この
***
「納得いかねえー!」
と叫んだ声が山頂に響いた。すこし遅れて、くすくすと笑う声が周囲から聞こえる。俺たちのあとから
「元気だねー、お兄ちゃん」
と片手をあげながら通り過ぎていった。
「どもっす!」
俺は同じように手をあげて応えたが、隣にいるリョータは「うるさくして、すみません」なんて頭を下げている。そういうところも気に食わない。
「うるさくなんかしてねーだろ」
「うるせーよ。存在がうるせー」
ヘルメットを外して、リョータは軽く頭を振る。汗でしっとりしたまっすぐの黒髪が、ちょっと重たげに三月の風に散った。中学の女子どもに言わせれば「かっこいい」仕草だ。ぜんぜんわからん。
「おまえほんとムカつくよな! なんだあれ。なんかこう、いきなりうしろからこう……シュッと」
「うまく脚をためておいてゴール前でアタックかけるのなんてロードレースの定石だろ。戦略だよ、戦略」
「プロ気取りかァー!? ていうかこれべつにロードレースじゃねぇし! あとじょうせきってなんだよ難しい言葉使いやがって!」
いま俺たちが参加している「なのはなファンライド」は、競い合うことを目的とせず、ただ安全に楽しく完走することを目標にした地元のサイクルイベントだ。
約百キロのコースを走る間に、三箇所ある
ちなみにここらへんの特産品といったらだいたい菜の花と落花生だ。要するに走って菜の花見てついでに菜の花食って落花生食ってまた走って菜の花食う、みたいなイベント。県外の人はそんなに菜の花が食いたいんだろうか。べつに美味くもないのに。
ともかく、そんな感じだから自分のペースで走れるし、道路交通法に違反してさえいなければだれでも好きな自転車で参加できる。初心者もガチの人もウェルカム、みんなで仲よく走ろうぜっていうほんわか系イベント。
……なんだけど。
まあそこに道があって山があって自転車があってライバルがいれば、勝負したくなるのも当然というわけで。
「おまえが勝負しようって言ったんだろ、アキラ。とりあえず山岳賞は俺のもんだ。認めろよな。俺の勝ち。おまえは負け」
リョータがニコリともせずに言った。クッソ腹立つ。勝ったならせめて嬉しそうな顔しろ。
「わかってますぅー! でもまだ負けてねーからな! 次がほんとの勝負だ!」
俺たちが競いはじめたのは、ひとつめの
次の休憩所まで競争しよう、と言い出したのはたしかに俺だった。でもふたつめの休憩所で俺がガッツポーズをとったとき、リョータがぶつぶつ文句を言ったから、だから! しかたなく! もう一度付き合ってやったのだ。
で、みっつめの休憩所、つまりここにはリョータのほうがはやく着いた。ほんのちょっとだけ。ほんのちょっとだけね。
これで一対一。もうこの先に休憩所はない。あるのはゴールだけ。
そこで、勝負が決まる。
「ま、とりあえずトイレ行って補給しようぜ。ほら、アキラの好きなマアム牧場のソフトクリームがある」
「え、マジで? 食う食う」
ロングライドはエネルギーの消費が激しい。
俺たちはソフトクリームとバナナとコーラを腹に入れて、スポーツドリンクをボトルに、それからゼリー飲料をジャージのバックポケットに補充すると、再び走り出した。ソフトクリームの隣で配られてた菜の花入りの味噌汁は華麗にスルーした。
***
「菜の花ってさぁ」
山を下りきってから、ほっとしたようにリョータが言った。
下り坂は、正直言ってかなりしんどい。相当な集中力とテクニックが必要だからだ。
「おお、不味いよな」
俺もようやく息をついて、答える。
「やっぱそう思うか」
「思うよ。なんでみんなありがたがって食ってんの?」
と、話しながら走る道の両脇には、延々と続く菜の花畑。一面の黄色は綺麗っちゃ綺麗だけど、地元民にしてみれば見飽きた景色だ。これが全部ひまわりなら、ツール・ド・フランス気分を味わえるのかもしれないけど。
「花はさ、食うもんじゃないよな」
「そうだよ、見るもんだよ」
前を走るリョータの意見に同意する。車が来ていないことを確認してから、前を交代した。
縦に並んで走る場合、先頭は空気抵抗をモロに受けるが、うしろにつけば前の人が風よけになってくれるからラクになる。でも、ずっとそのポジションにいるのはフェアじゃない。ロードレース好きならだれもが知ってる紳士協定。
どうせここらへんの道は、一列になってお行儀よく、信号待ちとかもしながら走るしかないのだ。だったら負担を分け合ったほうがいい。ゴールゲートのある公園内だけは車が入れないようになっているから、そこからが勝負だ。
「でもな、アキラ。聞いてくれ」
「なんだよ」
ふいに、リョータが真面目な声を出した。思わず身構える。
「ゴール地点で配られる菜の花のおひたしは、ナナ先輩が作っている」
「なん……だと?」
ナナ先輩。全校生徒の憧れのひと。高嶺の花。この前の卒業式で旅立ってしまった麗しのマドンナ。
そのナナ先輩の手料理が、食える。
大事件すぎる。
「そっか、ナナ先輩の家、定食屋だから……」
「そう。協賛店として料理を提供している……」
そう言うリョータの家は自転車屋だ。当然のように協賛店になっているから、そんな情報も仕入れられるのだろう。うらやましい。
「でもおまえ、なんでそんなこと教えてくれるんだよ」
俺だったらたぶん秘密にしておいてひとりで食う。振り向いて訊くと、リョータは今日はじめての笑顔を見せて、言った。
「おいおい、自転車乗りなら忘れるなよ。紳士協定、だろ?」
「リョータ、おまえ……!」
いいやつじゃねーか! と感動したのもつかの間、
「というわけで俺はおまえに勝ってナナ先輩の手料理を食う!」
リョータがうしろから飛び出した。アタックだ。
「ああ!? ふざけんな、俺だって食う!」
「敗者にナナ先輩の手料理を食う資格はない!」
「負けてねーよ!」
しまった、罠だったのか。
必死に追うが、前方の信号はリョータが通り抜けた直後に赤になった。計算してやがったな、これで一気に差をつけるつもりだ。
「紳士協定どこいった!」
「知るか! じゃあな!」
あのヤロォオオオオオオ!
リョータの姿が見る間に遠ざかっていく。あと何秒だ。赤い丸を睨みつける。変われ、変われ、変われ……
「変わった!」
バチン! 足をペダルにはめ、全力で回す。景色が動く、風が鳴る、菜の花が視界の端で踊る。黄色。黄色だ。それは、自転車乗りにとって勝利の色だ。
勝つのは俺だ!
「待てコラァァアアア!」
リョータの背中が見える。まだ追いつける。ハンドルポジションを変え、より前傾姿勢に。加速しろ、食らいつけ。敵はすぐそこだ。
「リョータ!」
抜いた!
そのまま風を切って走る。リョータもすぐうしろにいるはずだ。振り返ってる暇はない。回す、回す。ただひたすらにペダルを回す。
道はまっすぐに続いていて、信号ですら俺を邪魔することはない。最高だ。
でも、そこで俺は異変に気づいた。振り返る。
いない。リョータの姿がどこにもない。
思わず、止まって足をつく。それでもリョータは現れない。まったく見えない。
……メカトラか?
心臓が大きく跳ねる。いま、また走り出せば、勝利は確実に俺のものになる。
メカトラブルもレースのうちだ。それで順位を落とす選手だっていくらでもいる。自転車にはつきものの、だれのせいにもできない不運。だから、これで俺が勝ったとしてもリョータはなにも言わないだろう。けど。
だけど。
そんなのは、紳士じゃない。
「アキラ!?」
待って、けっこう長いこと待って、俺はリョータと再会した。
「おう、遅かったな」
「チェーンが外れて……おまえはもうてっきりゴールしてるかと……」
そう言うリョータの、グローブから出た指先は真っ黒だ。きっと焦ってチェーンをうまくはめられなかったんだろう。
「バーカ。見くびんなよな」
俺はふんっと鼻を鳴らした。
「紳士協定、だろ?」
菜の花が風に揺れている。リョータはなにも言わず俺の横に並んだ。前を見る。
ゴールを、見据える。
バチン! クリートをはめる音が同時に二つ。それがスタートの合図だった。
横一直線に並ぶ。前に出る。追い越される。追い抜いて、また並ぶ。
ゴール前一キロ。二分にも満たない短い勝負。そのために、いつだって俺たちは長い距離を走るんだ。
全身の力でペダルを踏む。歯を食いしばって全力で踏む。
前へ。前へ!
だれよりも速くあの場所へ!
ただひとつのゴールへ!
***
……で。
「俺だろ!」
「俺だな」
結局、並んでゴールした俺たちのために写真判定なんてものはあるわけもなく、お互いに勝ちを主張しあうことかれこれ十分。そろそろ体も冷えてきたころに、俺たちはかつてない衝撃を受けることになる。
見てしまったのだ。
ナナ先輩が。見知らぬ年上っぽい男に。なんかいい感じの雰囲気で。菜の花のおひたしを「あーん」している。その光景を。
「…………」
「…………」
二人して黙り込み、我先にと入手したナナ先輩の手料理をつまみ上げる。
「リョータ、あーん」
「アキラも、あーん」
そして呆然としながらお互いの口に突っ込んだ菜の花は、
「にげーーーーーーーーっ!」
やっぱり、苦くて不味かった。
サークル名:カワズ書房(URL)
執筆者名:井中まち一言アピール
3/21、テキレボ当日が私の誕生日です!!!!!!!イエーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!