皇女タラカーノヴァ

 一七六五年のパリ。まだ街が眠りから覚めきっていないような春の早朝。
「すぐに。そのうち。永遠に。すぐに。そのうち……」
 朝日に輝く淡い金髪。その見知らぬ若い娘は、セーヌ川にかかる新橋ポン・ヌフの欄干にもたれかかり、スズランの花で花占いをしていた。白い花を一輪ずつちぎっては、ひらひらと水面に落としていく。
 黒髪のアリーヌは花かごを抱えたままその場に立ち尽くし、彼女の透き通るような美しさに思わず見とれた。橋の欄干に背中を預けながら、
「聞き慣れない占い方ね」
 思い切って声をかけた。娘は顔を上げ、澄んだ青灰色の瞳をアリーヌに向けた。
「普通は恋人を想いながら『好き。嫌い』ってやるんじゃない?」
 アリーヌがそう言ってやると、
「ロシアの風習よ。願いがいつか叶うかどうか、スズランで占うの」
 と、娘ははにかみながら言った。
 ロシア生まれだというその娘は、名をナタリーと言って、アリーヌと同じ花売り娘ブクティエールだった。市場で売れ残った花を格安で譲ってもらって、小さな可愛い花束に束ねたのを、大きなかごいっぱいに抱えて街角に立つのだ。悪臭まみれのパリの街で、ささやかな優しい香りを振りまく花は、ご婦人の胸元を飾るために人気がある。
 アリーヌとナタリーは、ほどなく、自分たちが並んで立っていると道行く人の目を引くらしいことに気がついた。漆黒の髪で肌の浅黒いアリーヌと、金髪で色白のナタリー。一緒にいると互いの美しさが引き立つようで、花がいつもより良く売れる。味をしめた彼女たちは、それからは毎日示し合わせて、共に仕事に励むことにした。
 くたびれると、二人の花売り娘は、ブリキの給水器を背負ったコーヒー売りのおばあさんから一杯のカフェ・オ・レを買い求め、地べたに並んで座りながら、分け合って飲んだ。
 往来を行く荷物担ぎの若者たちを眺めつつ、
「ねえナタリー、あの前を行く鳶色の髪の人、素敵じゃない? 見て、あのたくましい体つき」
「そう? わたしは後ろの背の高い人が好きだな。優しそうな雰囲気で」
 他愛のない話をして、笑い合うのが楽しかった。

 夏が終わって秋が来る頃、あまりにも意気投合した二人は、アルプ街のじめじめした安アパルトマンに部屋を借りて、一緒に住むことにした。すきま風の吹き込むひどい住まいだったけれども、寝台の中でぴったり身を寄せ合って眠れば暖かい。
 ある夜、
「アリーヌ、まだ起きてる?」
 思い詰めたようなナタリーの声にただならぬものを感じて、アリーヌは寝返りを打ち、彼女に向き直った。
「起きてるわ。どうかした?」
「……秘密を守れる?」
「もちろん。あんたが黙っていてと言うなら何だって」
「実はね、ずっと隠していたことがあるの」
 アリーヌの手を、ナタリーは両手で握りしめた。彼女の口から飛び出したのは、信じられないような言葉だった。
「わたし、本当は、ロシア帝国の皇女なの。ロシアの先々代の君主、女帝エリザヴェータの娘、皇女タラカーノヴァなのよ……」

 女帝エリザヴェータ。金髪に青い瞳、抜けるように白い肌をした、妖精のような佇まいの美女。彼女は、宮廷聖歌隊に属する身分の低いコサックの美青年と、長いあいだ愛し合っていた。
 君主である前に一人の女。愛する男と、どうしても神の前で結ばれたい――。女帝のたっての望みにより、二人はモスクワ郊外の小さな教会で結婚式を挙げた。しかしロシアの帝室は身分違いの結婚を厳しく禁じている。それは、公にすることのできない婚姻関係だった。
 やがて、彼らは愛の結晶である女児を一人授かった。
「わらわは身を以て存じておる。この魑魅魍魎ちみもうりょう渦巻くロシアの宮廷で帝位継承者として生きることがいかに危険かを」
 愛し子タラカーノヴァを抱きしめながら、エリザヴェータ女帝は言った。
「かつてはわらわも、アンナ女帝より叛意を疑われ、命の危険に怯えて過ごしたのじゃ。帝位に就くため、わらわもまた、哀れな嬰児みどりご――先帝イヴァン六世を、牢獄に送らねばならなんだ。この子にだけはそのような思いをさせとうない」
 女帝の意向で、皇女タラカーノヴァは、宮廷から遠ざけられて育てられることになり、ウクライナの寒村に預けられた。
 歌を歌いながら牛や羊を追い、機を織る暮らし。裕福ではなかったが、それは平和な日々だった。

「けれど、十六の時に母エリザヴェータが亡くなって……」
 粗末な寝台の上で、組んだ両腕に頬をのせて、彼女は語った。
「新しく帝位についたエカテリーナ二世は、タラカーノヴァを見つけ出して捕らえるよう密かに命令を出したの。新女帝には皇家との血の繋がりはほとんど無かったので、エリザヴェータの娘に地位を脅かされることを恐れたのよ」

 村を出た皇女タラカーノヴァは、追っ手から逃れつつフランスに渡った。亡き母の忠臣であった老女が手引きをしてくれたが、旅の途中で亡くなり、寄る辺の無い身となってしまった。自分一人でも生きていける場所を求めて、彼女はパリで花売り娘ナタリーになったのだという――。

 長い身の上話を、アリーヌは呆気にとられながら聞いた。作り話にしても荒唐無稽にすぎるが、ナタリーが嘘を言っているようにはとても見えない。
「いつか、」
 アリーヌは絞り出すように尋ねた。
「あんたがスズランの花で占っていたのは、いずれ安全なところから迎えが来るかどうかってことだったの?」
 ナタリーは静かにかぶりを振り、
「いいえ。あの時の願い事は、今、叶ったわ」
 そう言って、白い細い指でアリーヌの手の甲をそっと撫でた。
 それからというもの、アリーヌは夜な夜なナタリーに話をせがむようになった。
 暖炉ペチカの火が燃えるウクライナの村のこと。祭りや遊びや、着る服や、食べ物のこと。村を出てから、ポーランドやドイツを経て、パリに辿り着くまでの旅のこと。
 ナタリーは喜んでウクライナの民謡を歌ってみせ、タマネギ型の屋根や色鮮やかな壁画で飾られた東方の教会の様子、赤い瓦屋根が並ぶ東欧の街の景色を、目に浮かぶように巧みに物語ってくれた。温かい蜂蜜酒をふるまってくれたおかみさん、荷馬車に同乗させてくれた親切な行商人の親子、旅の途中の街々で出会った人たちのことも。
 パリの貧民街で生まれ育ったアリーヌにとっては、ウクライナにしても、ポーランドやドイツにしても、この世に本当にあるのか疑わしいほど遠い。知らない世界を見せてくれるナタリーは、まるで不思議の国からの使者だった。

 愉快な二人の暮らしが永遠に続くかに思われた冬の半ば。ナタリーはふと引いた風邪をこじらせて肺炎になり、寝台を離れられなくなってしまった。
 つきっきりで看病するアリーヌの献身にもかかわらず、病状は日増しに悪くなる。もとより医者を呼ぶ金などあるはずもない。
「なんで……、なんでよ……。あんまりじゃないの……!」
 アリーヌは悔しさのあまり涙ぐみ、拳で両目を拭った。
「あんたは皇女様なのに……。本当なら、宮殿の暖かい部屋で、立派な天蓋のついた寝台で、綺麗な絹にくるまれて侍女たちに大事にされてるはずの人なのに……」
「アリーヌ。お願い、泣かないで」
 ナタリーは苦しげに息をしながら手を伸ばし、濡れたアリーヌの頬を拭ってやった。
「あなたに会えて……このパリで一緒に暮らせて、わたし、とっても幸福だったのよ。あのまま、村で女帝の使いに密かに殺されてしまうより、幽閉されてロシアの冷たい石の修道院で一人ぼっちで長生きするより、どれだけ幸福だったかしれないわ」
 しゃくり上げて泣き続けるアリーヌに、ナタリーは微笑みかけた。
「ありがとう、アリーヌ。神様はわたしの願い事を叶えてくれた。ずっと、孤独を分かち合える仲間が欲しかったの。心に秘め続けた秘密を打ち明けられるお友達……。他にはもう、望みは無いわ」
 それだけ言うと、力尽きたようにナタリーは眠りに落ちた。
 意識が戻らないまま、彼女はやがて天に召された。

 凍てつく冬の夜。セーヌ川のほとりの舗道。アリーヌは幽鬼のように黒い髪を乱したまま、呆然と歩き続けていた。
――すぐに。そのうち。永遠に。すぐに。そのうち……
 一輪ずつゆらめいて水面に落ちていく白いスズランの花。初めて出会った時の、ナタリーのあの声が、今も耳にこだまする。
 彼女の人生は一体何だったのだろう。特別な生まれで、広い世界をその目で見てきた特別な娘だったはずなのに。自分のような、どこにでもいる紙切れみたいな花売り娘なんかとは、価値が違う人間だったはずなのに。
 アリーヌの瞳に、また熱いものがこみあげてきた。セーヌ川の欄干に、アリーヌはわっと突っ伏した。
「神様、あたしをあのにあげて! あたしの命を、ナタリーにあげて!」
 ナタリーの人生がこんなにあっけなく……、あんな粗末なアパルトマンで誰にも知られずに終わってしまっていいはずがない。
 自分の命を使ってナタリーがもう一度生き返れるのなら、皇女タラカーノヴァとして堂々と名乗りを上げて欲しかった。女帝エリザヴェータの娘ここにありと宣言し、ロシア宮廷を混乱に陥れ、彼女の苦しみの元凶となったエカテリーナ女帝とやらに一矢報いて欲しかった。そうして、皇女タラカーノヴァがこの世に生きた証を、歴史に刻みつけて欲しかった。
 だが、そんなことはできやしない。自分が彼女にしてやれることはもう何も無いのだ。
 肩を震わせて泣いているアリーヌの側で、貴族のものらしい紋章がついた一台の馬車が止まった。
「君!」
 アリーヌが川に身投げでもすると思ったのだろう。降りてきた紳士は彼女の肩に手をかけた。
「触らないで!」
 手を振り払ったアリーヌは、紳士をきっと見据えた。
 その瞬間、一つの考え……一つの決意が、天啓のようにアリーヌの身体を貫いた。衝動のままに、アリーヌは口にしていた。
「わたくしは、ロシアの皇女タラカーノヴァ」
 紳士は目を見張った。アリーヌは構わずに続ける。
「我こそは、誇り高きエリザヴェータ女帝の娘。宿敵エカテリーナの手から逃れるため、このような姿に身をやつしているのです」
 紳士はおののきつつ、その場に丁重にひざまずいた。言葉の真偽を考える暇もなく、目の前の娘の威厳に気圧されてしまった様子だった。
 何かにとり憑かれたかのような異様な気配。謎めいた高貴さをまとったその娘は、既に花売り娘アリーヌではなかった。
 女帝エカテリーナ二世に対する闘志を胸に燃え立たせる、皇女タラカーノヴァがそこに立っていた。


Webanthcircle
サークル名:銅のケトル社(URL
執筆者名:並木 陽

一言アピール
中世グルジアを舞台にした『斜陽の国のルスダン』など西洋史に取材した物語を書いています。ロシアの名画『皇女タラカーノヴァ』に興味を惹かれ、歴史を騒がせた偽皇女タラカーノヴァについて調べていた所、偽皇女の他に本物の皇女も存在した可能性があると知り、偽皇女と本物の皇女が出会っていたら……と想像しました。

Webanthimp

この作品の感想で一番多いのは胸熱!です!
この作品を読んでどう感じたか押してね♡ 「よいお手紙だった」と思ったら「受取完了!」でお願いします!
  • 胸熱! 
  • ロマンチック 
  • 切ない 
  • 感動! 
  • ドキドキ 
  • ゾクゾク 
  • 受取完了! 
  • かわゆい! 
  • 泣ける 
  • しみじみ 
  • しんみり… 
  • 尊い… 
  • そう来たか 
  • エモい~~ 
  • この本が欲しい! 
  • ほのぼの 
  • うきうき♡ 
  • 楽しい☆ 
  • キュン♡ 
  • ごちそうさまでした 
  • 笑った 
  • 怖い… 
  • ほっこり 

皇女タラカーノヴァ” に対して1件のコメントがあります。

  1. シノザキ マサヒコ より:

    とても自然な導入部でキャラ設定とストーリーに全く違和感なく新しい物語ですね。
    皇女タラカーノヴァの複雑な時代背景と目的を考えながらググってたらここに来ました、出だしから面白くてこんなことあるかもって思っちゃいました。
    ありがとうございました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

次の記事

Gardenia