やりきれない夜に

 どうにもやりきれないことがペン先よりもすばやい速度で鋭くやってくるので、どうにもやるせなく『海辺のカフカ』や『試みのユダヤ・コンプレックス』、あるいは『はたらくカッパ』を読んでみるが、どうにもやるせない。けっきょく、やりきれなくなって、どうにもさびしくって青い光をカタカタ移動させてやりきれなさをやってしまおうかどうか迷ってしまって、書き物机の周りにあるその積読を積み替えてみるが、床に寝そべったままでハードカバーの本を掴むのは重たくてしんどい。青い光をカタカタさせては、本をつまんで並べ替えてみる。書籍の色調に合わせて積まれていた本は無残にも崩された。こんどは五十音の行列毎に分けてみたものの、どうにもア行とハ行がバベるってるくらいにうずたかく積まれてしまって不恰好だ。「ああもう!」と叫んで、やっぱりそのやりきれなさをカタカタさせた果てで微笑んでる天使ちゃんに向かってやってしまう。天使ちゃんはあまりに美しくやらかかった。でも虚しかった。
 もうどうでもよくなって、やりきれなさを残した右手を適当なシャツで拭った。それから腰をばねにして飛び起き、ジッパーが歯抜けしてうまく締まらない財布と菅原菊枝のアンリオ文庫版詩集を尻のポケットに差しこんで小さい部屋を出ていった。

 大きく書かれたFUCK!!の糞グラフィティが隣の空き家の塀に書かれている。ずいぶん前からのことだ。たしかにここに住んでるうすらっぱげはファック野郎だけど。なにも落書きすることないって、いまは思う。夏にはFUCK!!の下に吐瀉物がぶちまかれてて、カメラで撮影したことは覚えている。次の日には後悔して削除したことも忘れていない。
 FUCK!!の文字をなんだかじっと見ていた。夜にも関わらず、外灯はその巨大な単眼でFUCK!!を照らしてくれていた。なにかこのFUCK!!に返す言葉があるような気がした。さっき崩したときにカバーがペロンと捲れてしまった『草のかんむり』の中からその言葉を見つけようとしても無駄だった。FUCK!!と対峙している間に女が俯きがちにFUCK!!を避けるようにして足早に過ぎていった。ヒールの音がコツコツ鳴らなかった。他には不安や安堵、剣呑あるいは大作家先生の偉大なコピペの記録が過ぎ去ったような気がした。いや嘘だ。本当は女しか通らなかった。
 女は花であり
 吐息は蜜である
 夕暮れからやっと書き物机に向かって搾り出した十数行の言葉の中でもっともFUCK!!に相応しそうな言葉をマジックペンで書いてやった。誰にも見られなかった。と思う。FUCK!!はこの応答に満足しただろうか。マジックペンをポッケにしまって、なんとなくまた歩き出した。

 偉大な哲学者は散歩を日課としてた、みたいな浅学な逸話を大作家先生とおんなじようにコピペしてる浅い脳みそから引き出してみても、散歩などせずに結局はいつもの飲み屋に真っ先に足を運んでしまう。
 大丈夫だ、今日は十数行だけど書いたじゃないか、これをまあ、四捨五入して約二十行だとするだろ。そうするとまあ原稿用紙一枚は書いてる計算になるわけで、ようするに目指しているのは巨大な詩篇なわけで、それでー、毎日原稿用紙一枚書いてるとするとだな、一年あれば三百六十五枚で、えっと、八千三百行か? あ、ああ、あれ、ホッピーセット四百八十円、追加ナカ百円、ゴマレバ二百六十円、あと串焼き半額メニューから五種類で三百円、あ、そっか突き出し三百円か、まじか。菊の花のおひたしが三百円。うわ。そうすると、千四百……円、まあ千五百円あればいいのか。あったけな。あるか。それにしても向かいの空席はいつになったら埋まるんだ。きちんと来た試しがない。
いつもの居酒屋だけれど、今日はあいにくいやな音楽ライブの日だったらしい。一年前くらいに店主が変わって以来、この店は平日の人の少ない時間は少人数・音響機材なしという条件で小さなライブのできる居酒屋&ライブスペースになってしまった。という話をまだ来てない奴が店員から聞きだしてた。だから、奴と話した店員の言によれば、まあそういうことらしい。本当のところがその通りなのかは知らないが、そういう店になってしまったのは事実だ。居心地が悪くなったのはたしかだ。でも、ここのゴマレバとホッピーの組み合わせの魅力を断ち切ることが未だできずにいる。無限に食べたくなってしまう旨さとコスパの良さが売りのゴマレバにホッピーで割る焼酎の安っぽさが実に合う。それにこの店の無骨で脂っこい木の机に向かってると酔いに任せて良い詩が書けることがある。奴が来れば文学の話しもできる。糞つまらないアルバイトと自室の往復だけでは満たされないやりきれなさを緩衝してくれる居酒屋に幸あれ。しかし、奴は来ない。
ホッピーは旨き、ヒッピーは歩き。ゴマレバは口に蕩けて、コンマ数秒で変わる心の模様。はは、進む。進め進め、酒の力で。泥の中へ進め、うずめ、あめのうずめ。うずめろ、心の枷を、うずくまるイエスに石を投げられなかった民衆。はは、なんだこれぁ。

「なあ、ここ少しいい?」
 やっと来たと思ったが、違う奴だった。金髪の女が話しかけてきていた。ずいぶん若かった。五つは下じゃないかな。よく分からない。
「いや……ここ人来る……の、で」
「ふーん、じゃ来るまで」と座りこんで、店員に瓶ビールと灰皿を頼んだ。
 女はボブカットのぼやけた色の金髪を掻きあげた。頭部のサイドは刈りこみがされてた。そのボブカットに隠された短い髪の毛がどうにもやりきれない感じがした。菊の花のおひたしが一口残っていた。食べた。なくなった。啜れないほどの汁気はあった。
「ね、ここの常連?」と女は聞いてきた。詩を今日はもう書けないだろうなという予感があった。
「ああ、月に何度かってところだけど」多めの焼酎とホッピーにより力を授かったので、随分と普通な感じで話せてる気がする。ちょっと舌足らずかもしれないが、舌が回らないよりはましなものだ。
 女はビールを飲んで、菊の花のおひたしに醤油ではなく塩を振って食べた。さっき食べたおひたしの小鉢を見た。やっぱり小鉢は空だった。念のためもう一度チラ見したがおひたしはなかった。女の不器用な箸さばきに目を移して、詩を書いていたメモ帳をしまおうとした。こいつはすっかり尻の形に馴染んで三日月みたいなやらかい湾曲を描いている。
「あ、なあ。それなに書いてるの?」女は煙草に火をつけながらメモ帳を指差した。
「べつに……なんも」と呟いても女はてんで気にしない風だった。女は煙を肺にじっくりと満たしてから、蕾のように小さくすぼめた口から煙を吐いた。煙の花、咲いた。刹那に枯れた。ちょっとやるせない。いらつきが眉間に寄ってきた。
「ねえ、あんたさ」あんた呼ばわり、(きっと)年下のくせに。「詩でも読みにきたんじゃないの?」シデモヨミニキタンジャナイノ?
「違うよ」ホッピーの瓶、その愉快なラベルは目を逸らすこともなくしっかり女に向き合ってて偉かったので少し撫でてやった。しっかり女の首元、あるいは薄い胸元に視線を上下しながら、たまに菊の花のおひたしが残っていないか確認した。
 残ってなかった。……念のため。残ってない。
 異様な緊張がある。
 酔ってきた。
「チガうよ。ヨってる、けど、それだけはチガうってイえるよ」って反論する。
「じゃあ書いてるのは? ねえ、これからあたしはライブがあるんだ。あたしが主催なんだよ。小さなイベントだけどさ。なあ、あたしは歌うんだけど、詩も大好きなのさ。だから朗読ってのも歌とおんなじくらい大事にしててさ。ここではイベントの中でオープンマイクってのがあるんだ。知ってる、ねえ、オープンマイク。開かれてる場所なんだ。誰でも、詩や音楽をやっていい場所なんだよ。分かる? ねえ、目が据わってるけど、分かる? 開かれてるんだ。誰でもマイクを握って」咥えられるんだけど、詩を読むなんてとてもとても。できることじゃない。女は喧々あれこれ諤々つべこべずっとなにか言ってる。ときどきなにか食ってる。あれあ、なんだ。あ、やっこさん。ひややっこさん。かつぶし、のってる。あ、ショウガのってない。
「生ガのってない」
「生ガのってるの」
「いつものってる」
「いつもはそうか」
 女はショウガを頼まない。さっきからホッピーを飲んでる気がするが、一向に減る気配はない。近頃はやりのループものですか、もしや。じゃあ菊の花のおしたしは? あ、やっぱない。はは、おしたしだって。
「ねえ、詩を書いてるんでしょ? あんたをじっと見てたよ」
「子は欠いてるよ。でも、予む足芽じゃないさ」
「それは口に出さない。目で猛るように昂奮するものってことかな」
「目退く」
「そうなんだね。ここで音楽が鳴りだすよりずっと以前から常連さんってことね」
「そうだ! 呱呱に御樂は茄かった。死人は口を喪たない。目退くが幻廼子の篤件だから」
「でも声にだして悦楽に身を浸してしまうような朗読だってあっていいよね」
 女の正論がとまらないように、ホッピーは飲み続けてもなくならないし、詩を朗読しない口はその喉を鳴らすのをやめない。
 なんだか、向かいに座るきっと年下の女とやるせなさをやってしまうような気がした。未来への予感なんかじゃないんだ。いま、やるせなさをやってしまってる。いやあ、にしたって遅いじゃないか。いつになったら奴は来るんだよ、もう潰れてしまう寸前だよ。なあ。ぺちゃんこってよりどろどろのぐずぐずに濁った粘液みたいになっちまいそうだよ。串打ちもできないようなどろどろのにちにちになって、排水溝まで誰にも気づかれず流れてしまいそうだよ。
「他乃んだ者は鬼たのか。おーい、男寝餌さん!」
「あんた、あたしもう行くよ。もう準備しなきゃね。帰って寝ちまうか、ここで寝ちまうか、その、まだやりきれないだろうけど、もうやっちまいなよ。場所は開かれてるんだ」
 あとさ、ってしょぼいステージを見ながら女は言う。トイレに行きたくなってきた。
「あんた、誰も待ってないよね」
 そういって、ぼやけた視界の中から、女の残像が消える。酔う。完全に、絶対的に、確信できるほど、酔う。ぅえぇ、――しぃってぅ? おんなってぇ、さぁ、こう、こうだよ、o、n、a、ってにゅうろくしぇもきちんと

 女になるんだ。

 ぐらんぐらんしながら、ずっとなくならないホッピーと焼酎をミックスして飲み続けている。女が近くで歌いだしているのが聞こえる。小さな書き物机の傍に置いたMDプレイヤーには入ってない音楽。でもそのプレイヤーから録音された女の声が再生される未来がぐでんぐでんの上半身いっぱいで予想されてる。なんだかやるせない? ばっか、もうそんなのどうでもいいんだ。
 上はくうそうし、下はやるせない。おい注文まだか。
 Fuck!!、女は花であり、ゆきずり、菊の花のおひたし、吐息は蜜である、って、なんなら男は? Fuck!!にふさわしい男の返歌は? FUCK!!を鯨飲してしまうような男でも女でもなさそうな奴の返歌を書かなくちゃ。飲むか、言うか、鬱か、喰らうか? ねえそれより注文まだなの。
 ああ、やっと来た。
 ねえ注文ついでに聞いていいかな、元気な色黒のお姉さん?

 あたしの待ってた人は
 いまどこにいて、
 いったいいつ来て、
 三百円のお通しを、
 菊の花のおひたしを食べるのかしら?


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サークル名:羊目舎(URL
執筆者名:遠藤ヒツジ

一言アピール
現代小説と現代詩を主軸に活動しています。いつもは不穏な空気感や哀切みある作品を好んで書いております。今回は、飲み屋でぐだぐだ云々かんぬんするやるせない小説を書きました。ホッピースキー。

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