さいごの授業
先生は、あす学校からいなくなる。
だというのに、いつものように国語の授業はすすんだ。
いつものよう、に教科書を無視した授業は大人には不評だったが、生徒には何かと都合がいい。今日の先生は生徒に背を向けて、一心不乱に四字熟語を板書しているから、クラス全員が紙を回し合うのはたやすかった。
五穀豊穣
真実一路
仁者無敵
千射万箭
不羈之才
明目張胆
和而不同
闊達自在
温故知新
快刀乱麻
霖雨蒼生
……
読み方も書き順もわからない漢字の羅列が、小さい手でぎこちなくノートに書き写されるなかを、一枚の紙片が机から机へと回ってゆく。白髪をふり乱し、チョークで呪文を唱えるかのような先生の背後で、一輪、また一輪と、机を渡るごとにその紙片には花が描き足されていった。
チューリップあり、桜あり、ただの二重丸に線をひっぱったものもあれば、鼻から葉っぱを垂らしたものもあり、チャイムが鳴るころには、それらをくくるように赤えんぴつで描いたリボンが添えられて、誰かのノートの切れ端は、一つのブーケとなって先生の手へ渡った。
先生は皺の寄ったしかめっ面でそれを受けとると、全員が板書をちゃんとノートに書き写したのか、それだけを聞いて教室を出て行った。
いつものようにニコリともせず、いつものようにふりむきもしない。
これが最後だというのに、まるであすからも、いつものように板書する日々が続くかのような予感さえ残して、先生の背中は廊下の奥へと消えた。
そんな先生に、豊は真実と顔を見あわせて目を丸くし、仁は肩をすくめた。
千里は一之と明日香にさっそく放課後の誘いをかけ、和香は達也に借りた消しゴムを返し、知恵と麻子は蒼生と手遊びを始めてゲラゲラと笑った。……
先生の板書は、まもなく日直に消された。
しかしクラス全員が皺の寄った老人となるまでに、このときのノートは各人によって不思議と幾度か開かれた。それが励ましとなる者もいれば戒めとなる者もあり、ときに予言めいて映ることもあった。
豊は実家の米農家を継ぎ、孫と田んぼの見回りをするのが何よりの楽しみとなっていた。
真実は弁護士となり、いくつもの難解な案件を解決してきたが、良い白髪染めが見つからないのが悩みだという。
仁の温厚な性格は、長らく続いていた町のゴミ問題を解決に導き、自治会で重宝されている。
千里は何事にも飽きっぽかったが、なぜか玄関のそうじには毎朝手を抜かなくなったそうだ。
一之は早々に海外へ飛び出し、研究者となった。ひそかにノーベル賞候補だとも囁かれている。
生来のひっこみじあんだった明日香は意中の男性に自らプロポーズし、幸せな家庭を築いている。
友人と洋菓子店を立ち上げた和香は、意見の衝突をくりかえしながらもようやく軌道にのってきたようだ。
達也の神経質は多少緩和された。テレビのリモコンなら、テーブルの上であれば定位置でなくともイライラしなくなったという。
知恵は同窓会に、先生の板書のノートを持ってきて会を盛り上げた。すでに廃校となった母校を映画のロケ地として誘致すべく奔走しているらしい。
麻子は育ての親と、実の親を和解させた。自分にかかった養育費を一円単位で双方に叩きつけ、「私が可愛いなら握手して!」とレストランの真ん中で叫んだ麻子に親4人がひれ伏した姿は店の語り草となっている。
蒼生は若いころ世話になった廃寺に住みついた。坊主でもないのに法話がうまいと住人に面白がられ、今では子どもがにぎやかに走り回るその寺は、ご近所の井戸端会議所の体をなしているそうだ。……
そして私は。
一攫千金
婿入りした先で相続したそこそこの遺産で、今、人を雇ってようやく探し出した、先生の眠る石の前にいる。
ピンポン菊にトルコキキョウ、カーネーション、カスミ草にスターチス。
供えた花は、とてもあの時のブーケにはかなわないけれど。
サークル名:草幻社(URL)
執筆者名:梓野みかん一言アピール
初参加です。短編小説を置いています。よろしくお願いします。
何故と問いかける暇を与えず、時間さえも飛び越えていく伸びやかなストーリー。どこへ連れていってくれるのだろうかとドキドキしながら読み進められました。純粋に楽しかったです。
コメントしていただき、ありがとうございました!m(_ _)m