中庭で花は咲かない

 四方を硝子窓に囲まれた中庭で咲く桜は、箱庭に据えられた作りもののように見える。
 四角く刳り抜かれた空の下、聴色ゆるしいろの花が惜しげもなく咲き溢れるこの季節だけは、小児病棟に面した中庭へ足を運ぶ人々の数と平均年齢がぐっと上昇する。しかし、今日のように二月ふたつきも前へと気温が逆戻りした日は流石に誰の姿も認められなかった。
 情操教育の一端を担おうとしているのだろうか。この中庭は四季折々を通じて、何かしらの花や草木を愛でられるようになっている。桜の大樹も勿論例外ではなく、夏に繁り秋に燃え、冬に眠り春に咲く。一年を通して概ね華やかな姿を見せる桜だが、私にとってこの中庭の桜は一等地味な冬の印象ばかりが強い。
 それは幼い頃、この病院に入院していた時の印象だ。

     *     *     *

 中等部への入学を目前に控えた一冬ひとふゆの間、私はこの小児病棟に入院していた。入院、とはいえ絶対安静を必要とするものではない。動作に特別な介助を要しなかったこともあり、新米看護師が体調と気候の良い日は中庭に出る事を勧めてくれた。同じ年頃の同室者たちに、上手く馴染めない私を見兼ねての提案だということは自分でも察せられたから、私は素直にその言葉に従うことにした。
 彼とそこで出会ったのは、中庭のどこに何が植えられているかを凡そ暴き切った頃だ。

「植物が好きなの?」
 不意に背後から掛けられた声に驚いて、肩が跳ねる。慌てて振り返ると、私よりも頭ひとつ分背の低い少年が立っていた。まだあどけない顔立ちの癖、妙に落ち着き払った少年だ。
 明らかに三つ四つは年下だろう彼の方が落ち着いているという状況に、私は口惜しくなって唇を引き結ぶ。だが、そんな私の表情の変化も、彼は気に留めようとはしない。色の白い顔を僅かに傾けて待つ姿は、当然私から返答があると疑いもしていないのだろう。根競べのような沈黙よりも、その無条件な期待の方が私には効いた。注意深く彼を見詰めながらゆっくり頷く私の目には、警戒の色がありありと浮かんでいたに違いない。
「検査室から、見えるんだよ。君が中庭で色んな植物に触れてる姿が」
 そんな私を安心させるように微笑みながら、彼はまっすぐにひとつの窓を指差す。深緑色の窓枠を持つその部屋が何の検査をする部屋なのか、当時の私は知らなかった。
「ねぇ。君に教えて欲しいことがあるんだ」
 生まれて初めて自分に宛てて使われた『君』という言葉に戸惑う私を置いてけぼりにしたまま、少年が私を見上げる。
「雪と関係のある植物って、あるのかな」
「……雪?」
 反芻する私に、彼は鷹揚に頷いて一歩、私へと距離を詰める。私が一歩後ろに下がるよりも早く、彼は自分の左目を指差して、
「僕はね、雪の申し子なんだ」
 世界で何よりも貴い秘密を紡ぐ慎重さで、そう囁いた。
 彼の言葉の意味は全く分からない。だがその仕草の意味は理解出来た。促されるままに指差された目を覗き込む。深い青とも、暗い緑とも表現出来るだろう不思議な奥行きを持った黒い眸だ。それを背景に、目を凝らすまでもなく見て取れたのは、月長石色に浮かぶ小さな雪の結晶だった。
 一見周囲の光の反射のようにも見えるそれは中心に六角形を抱き、それぞれの角から小鳥の和毛にこげに似た枝を伸ばしている。澄み切った真冬の夜空から舞い落ちる最初のひとひらを思わせるその姿に、瞬きを忘れて見入った。
「生まれつき、ここにあるんだ。しるしみたいじゃない? 雪の女王さまに愛されている、標」
 ゆるやかな瞬きが落とされても、六花は変わらずそこにある。
「だから僕も雪に関することは何でも知っておきたい。でも植物はあまり詳しくないんだ」
 困ったような声の響きに、意識が引き戻された。忘れていた瞬きがまとめて落ち、随分と遅くなったがようやく一歩、後ろへ下がることが叶った。
「……雪柳、とか。……そういうことでいいの?」
 戸惑いがちに紡いだ私の声に、そうそう、と嬉しそうに彼の表情が綻ぶ。それはあどけない顔立ちに相応しい、屈託のない笑顔だった。

 それから毎日、細切れの時間を降り積もらせるようにして、私は自分が知る限りの雪に関係する植物を彼に教えた。
 雪柳、雪の下、雪割草、雪椿。
 自分の手持ちの知識が尽きてからは、図書室にある持ち出し禁止の図鑑に頼った。
 雪薊、雪蔓、雪見草、雪模様。
 中庭にある植物については実物を見せながら説明し、ないものに関しては図書室で可能な限り精緻に写し取った絵を見せた。
「雪、ってつくのに、雪の季節にはほとんど咲かないんだね」
 そういって彼は度々残念がったが、想像していた以上に雪を冠した植物が多い事を、素直に喜んでいた。

 別れは、呆気なく訪れた。

 彼が無菌病室に移されたことを教えてくれたのは、私に中庭で過ごすことを勧めた看護師だった。私が彼と短くはない時間、中庭で共に過ごしていた事を知っていたのだろう。看護師は、私を彼の病室へと連れて行ってくれた。
 そこは奥まった場所にある大きな病室で、扉を開くと内側に更にもうひとつ部屋があった。中を見通すことが出来るようになっている透明な壁の向こう側に据えられた寝台の上。艶やかな夜空色の髪を枕に散らし、目を閉じて横たわっているのは確かに彼だった。
 色の白い少年だとは思っていた。だが、こうして改めて硝子越しに見るその白さは、膚の下の血の流れというものを感じさせない。彼は本当は雪の精霊だったのだと聞かされたところで、今なら誰も疑いはしないだろう。青白い目蓋に守られ、今は見えない眸に確かに刻まれた標も、間違いなくその証となる。
 地上に遣わせた愛しき精霊を、雪の女王自らが迎えに来ようとしているのだろうか。
 唐突に胸に浮かんだ思いに、馬鹿馬鹿しいと首を振りそうになる。おとぎ話と現実の区別が付かない年齢ではない。だが、そう自分に言い聞かせて唇を噛んだところで、一度浮かんだ思いを拭い去ることも出来ない。
 女王が降らせる祝福の粉雪は、私の膚に触れた途端儚く溶けてしまうだろう。だが、彼の透徹とした白い膚は雪の花をたやすく根付かせ、素直に咲かせてしまいそうに見えた。目蓋に、頬に、唇に、次々と幻の白い花が芽吹き、綻ぶ。そんな姿を見ていられずに、私は踵を返した。それが、私が彼を見た最後だ。

     *     *     *

 私は程無く退院し、無事に中等部へと進学した。幸いなことにその後体調を崩すことはなく、時を重ねた私は看護師になることを選んだ。
 幼い頃世話になった人たちに憧れて、なんて殊勝な気持ちではない。
 ただ、何となく離れがたかったのだ。
 あの中庭から。
 希望通り私はこの病院の看護師となり、幾つもの季節を見送り、幾度目かの桜の花を迎えた。

 誰もいない中庭に出てみた。成る程、恐ろしく寒い。これでは誰も出てこない訳だ。それでも確かに桜の花は咲き誇り、間違いなく今は春だと告げている。
 強い風が梢を揺らし、一斉に花びらが虚空に舞った。
「雪、ですか」
 中庭には私以外誰もいなかった。背後から掛けられた低い声は、私に向けてのものだろう。
「いえ、降っていませんよ。春なのに降りそうなくらい、冷え込んでいますけれど」
 淡く笑って、振り返る。そこには私よりも頭ひとつ分背の高い男性が立っていた。白衣を着ているが、知らない顔だ。研修医だろうか。
「降っているじゃないですか」
 そう言って彼は柔らかく笑い、まっすぐに桜の樹を指差す。
「桜が」
 その仕草に。
 その笑顔に。
 そして何よりも、その言葉が孕む意味に、呼吸を忘れる。

     *     *     *

「桜が?」
「そう」
 影絵にも似た、桜の黒い幹に掌を宛がいながら、幼い私は空を見上げる。
「『空に知られぬ雪』っていうの」
「空に知られぬ、雪」
 私の言葉を繰り返し、彼も小さな掌を固い木肌に宛がう。
「冬が終わって、春になったら。この桜も空が知らない雪を降らせるの。きっと」
「そっか」
 彼がゆっくりと、笑う。
「雪の女王さまも知らない、雪だね」

     *     *     *

 信じられなかった。
 だから一歩、彼へと距離を詰めた。あの時は下向きに覗き込んだ左の眸を、今度は見上げて覗き込む。確かめずには、いられない。
 そこには確かに、月長石色の溶けない雪が息衝いている。
「でも、こっちも直に降りますよ」
 薄曇りの空へと視線を向けた彼の言葉通り、音もなく雪が降り始めた。
 ほらね、とばかりに私へ向けられた屈託のない笑顔は、精悍な顔立ちを一気に幼くする。
「僕には、解るんです」
 その顔立ちは、私のよく知る『彼』のものだ。
「僕は、雪の申し子だから」
 仰ぎ見る彼の頬に落ちた雪のひとひらは、そこに咲くことはなく、儚く溶けて消えた。


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サークル名:イン・ビトロ・ガーデン(URL
執筆者名:灰野 蜜

一言アピール
閉じた世界で展開する物語の箱庭。少女や天体、鉱石や植物などうつくしいものをモチーフにした作品を綴っています。
初めてのテキレボ直参、とても楽しみにしています。新刊予定もありますので、どうぞお気軽に遊びにいらして下さい。

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