繰り返し、繰り返し

 記憶と人格の結びつきについて、今日もふと考える。記憶がなくても同じ人格というのはあり得るのだろうかと。しかし、例えば人間は、一ヶ月前の食事を聞かれて思い出すことは難しいという。初めての口づけの場所は覚えていても、数年前のある日に立ち寄った村のことなど忘れてしまっていたりする。
 忘れたからといってその人がその人であることに異論を差し挟む者はいないだろう。大事なものを忘れていることを、責められることはあったとしても。
 ――こんなことを考え出したのは、目の前で繰り広げられるやりとりに覚えがあるからだ。座り込んだまま岩壁に背を預けたレーナは、額を指先で軽く叩く。
「勝手に食うなって! これは飾るために摘んできたんだって!」
「でもこの花と一緒に食べると美味しいんだよ? 蜜が染み込んでるみたいでさ」
 桃色の小さな花を巡って、ネオンとイレイが口喧嘩を始めている。食料を探して戻ってきたと思ったらこれだ。その花は、この洞窟から少し離れた場所に群生していた。一帯が甘い香りに覆われているので近づけばすぐにわかる。迷いやすい森でも、その匂いが目印の代わりになっていた。
「だからって断りもなく食うな!」
 ネオンの怒声が響く。記憶がないのに同じ会話を繰り広げるというのはどう解釈したらよいのだろう。仲間たちの様子を眺めていると、何度となく考える。あの頃のことはすっかり忘れているのに。『器』さえも変わってしまったというのに。
 神や魔族であれば『核』が本体だからだと結論づけることができる。しかし彼らはそれよりももう少し人間に近い存在だ。そもそも、本当に『核』が同じかどうか確かめる術もない。
 記憶がなく、肉体も新たになった、『核』が同じかもしれない存在を、同じ見た目で同じ言動をするからといって同一人物と称してよいものなのか。同じ名前で呼ぶべきなのか。
「これくらいいいでしょ?」
「イレイはいつもそれだな! なあレーナ、なんか言ってやってくれよ」
 口論に疲れたらしく、ネオンがこちらへ助け船を求めてきた。彼女は頭を傾けて破顔する。この流れになるのも同じだった。無邪気な主張を繰り返すイレイに、ネオンははなかなか勝てない。
「ああ、何も言わずにというのはまずいな。目的をはっきりさせないとな」
 おそらくそれはどちらもなのだが。飾るつもりでネオンが黙って摘んだ花を、イレイはきっと自分のためのものだと思い込んだのだろう。実際、ネオンはイレイのためにこっそり木の実を取ってきてやったこともある。だからこそ言葉は大事だ。
「でもさー」
「大体、オレたちに食事は必要ないんだ」
 この会話も聞き慣れてしまった。人間と同じような見た目だとしても、人間ではない。食事も睡眠も必要ない。生きていくために必要なのは精神量の維持だけだ。もっとも、それがある意味では一番厄介だ。
「でも美味しいもの食べたら幸せになるでしょ? ほら、そういう意味では食事だってレーナも言ってた!」
「花を飾るのだってオレたちの精神衛生のためなんだよ! こんな薄暗いところにずっといたら気分が沈むっ」
「お前たちうるさいぞ」
 そこで冷たい一言が放たれた。入り口の方を見遣れば、顔をしかめたアースが袋を片手にため息を吐いていた。不満と苛立ちを気にも表情にも滲ませ、彼はつかつかと歩み寄ってくる。不機嫌な靴音が洞窟内で反響した。ネオンが身を縮ませる様が視界の端に映る。
「お帰りアース」
 彼女がいつものように軽い調子で口を開けば、アースは何も言わずに隣に座り込んだ。乱雑に置かれた布袋が音を立てる。すると立ち上がったネオンが慌てた様子で袋を取りに動いた。食料補給を手伝ってもらった上、仕分けまでアースに任せたらますます不機嫌になることがわかっているからだろう。口喧嘩を続けている場合ではなくなったので、騒がしいのもここまでだ。
「収穫はあったみたいだな」
 狭いだろうと場所をあけるべく左へずれようとしたら、右手を無言で掴まれた。彼女は思わずアースの横顔を見上げる。文句を言おうとあれこれ考えてみたが、結局そのどれもが声にはならなかった。握られた手の意味を問うのは、墓穴を掘る行為に等しい。幾つかの会話を想定したところで、そう結論づけざるを得なかった。
 だが決定的な一言を避けるために、身体的な接触をそのままにしておくというのはどうなのか。
 本当に黙っているべきか逡巡したところで右手をぐいと引き寄せられ、ますます彼女は当惑した。こちらが振り払えないのをわかっているからか、この頃のアースはやや強引だ。『前』とは違う。
 同じ顔で、同じ声で、同じように心配される。それでも確実に変化している。
 それは一体何によるものなのだろうか。記憶には残らない、積み重ねてきた何かが、彼らを変えていくのだろうか。
 そう思ってしまうのは期待が混じるせいであったらどうしようと、彼女は瞳をすがめた。時々自分の気持ちがわからなくなる。適切な距離を保つことに必死になっているはずなのに、心のどこかで喜んでしまっている気がする。
 悲しみや痛みを奥底に押し込めるには慣れているが、嬉しいという感情を隠す経験はない。自覚していない何かが筒抜けになってはいやしないかと、時に心配になった。
「レーナ」
「……え、あ、うん?」
 こういう時は、名を呼ばれるだけでひやりとする。応える声に感情が乗らないようにと慎重になる。遙か昔の、彼の記憶には残らないあの頃の思慕が、刷り込みが、どうか滲みませんようにと。祈るような心境で彼女は顔を上げた。
 利用することと依存することは違う。守りたいものがあるから、距離を間違えてはいけないのに。
 すると布袋を抱えたネオンが立ち上がるのが見えた。その袋から一枚、花弁がふわりと落ちる。かすかに甘い香りが鼻先をかすめた。
 とにかく話題になるものが欲しくて、彼女は桃色の花びらを指先で摘まんだ。名も知らぬ花に縋りたくなるというのも久しぶりのことだ。
「ネオンが摘んでたやつか」
 ぽつりと、囁くようなアースの声がした。ゆっくりと相槌を打った彼女は、再び彼を見上げる。先ほどの不機嫌さは遠ざかったようで、花片を見下ろす彼の眼差しは穏やかだった。
「あんまり摘んでしまうと申し訳ないとかいって、遠慮してたな」
「ああ、それで」
 食べるにしても飾るにしても、花にとっては命を絶たれることにかわりはない。それを気にするのがネオンだ。自分たちという歪な存在のために他の命を犠牲にすることに、どこか罪悪感でもあるのかもしれない。生まれてしまったという点ではどうしようもないのに。
「そんなに気にするなら摘まずに何度でも行けばいいのにな」
 嘆息したアースは、背を丸めて遠ざかるネオンへと一瞥をくれた。どうやら二人の口喧嘩はアースの耳にも届いていたらしい。彼女は握られた手へちらと視線を落としつつ、少しでも彼から距離を取るべく体勢を変えた。そして花びらを顔の位置まで持ち上げてみせる。
「そうだな。花が咲いているのも今時期だけだろうからな。じきに枯れる。香りを楽しみたいなら、何度でも行っておいた方がいいな」
 永遠に咲いている花などない。変わらないものなどない。それでも季節が巡れば、また花は咲くのだろう。眺めるだけの者にとっては同じ花だ。何をもって同じと称するのかは、時と場合による。――きっと周りには、自分たちも同じに見える。
「お前は行かないのか?」
「……休んでいろといったのはアースだろう?」
 不思議そうな彼の声音に、左手を下げた彼女は思わず眉根を寄せた。彼は彼女が出歩くのをよしとしない。無理をする癖があるからといっても、近くをうろつくくらいは許して欲しいところだ。
「他の奴のために行くなら駄目だ。お前の精神のためになるならいい」
 と、アースは当たり前だと言わんばかりに断言した。目を丸くした彼女は、その基準の奥にあるものを意識しそうになり唇を引き結ぶ。
 記憶には残らなくとも、感情は残るらしい。ふいと、どこかで誰かから聞いた話を思い出した。高齢になり、あらゆる記憶がどんどんとこぼれ落ちるようになっても、それでもその時の感情はどんどん積もっていくのだと。人間はそうなのだと。
 同様のことが起こり得るのだろうか。だから彼らはこんなにも彼女の負傷や消耗を忌避するのだろうか。
「それなら行ってみようかな。ここは安全だが気が滅入る。ついでにイレイの食事用のも取ってこれるしな」
 彼女は顔をほころばせた。アースと二人きりになる最悪の状況を避ける意図は読み取られていそうだが、文句は返ってこなかった。
 ふてくされていたイレイが、ぱっと顔を輝かせて両手をあげるのが見えた。袋をのぞき込んでいたネオンが「オレらを巻き込むな」と視線を寄越したが、彼女は無視をする。口喧嘩の仲裁をさせようとしたのだから、これくらいは協力してもらわなければ。
「やった、レーナも一緒! ほらほらネオンも袋は放っていこうよ」
「は? 今からか?」
「ああ。カイキも迎えにいってやらないとかわいそうだろう? まだ帰ってきてないというのは、迷っている可能性がある」
 もう一人、なかなか洞窟に戻らない仲間の名を口にすれば、アースがあからさまに不満そうな目を向けてきた。彼女はそれでも意に介さなかった。まだ彼が声に出して要求してこないうちならば、この手が使える。
「手伝ったのに置いていかれたとすねられても困るだろう?」
 彼女は手のひらに乗せた花びらへと息を吹きかけ、ついで立ち上がろうとした。腰をかがめれば、仕方なそうにアースが手を離す。ほっと安堵した彼女は服の砂を払った。
 いつかこの花を、香りを思い出し、今日のことを考える日が来るのだろうか。その時は穏やかな気持ちでいられることを、今はひっそり願うばかりだった。


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サークル名:藍色のモノローグ(URL
執筆者名:藍間真珠

一言アピール
主に理屈系ファンタジー、ふんわりSF等を書いているサークルです。異能力アクション、滅び、駆け引きを愛し、じれじれや両片思い、複雑な関係の話を書き続けています。今回はメイン長編「white minds」の人外な彼らをメインとした話です。じれじれの一端を楽しんでいただけたら嬉しいです。

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