冬の日

 数日前の雪がまだ溶けきらずに後宮のあちこちに残っている。侍女たちの白い制服と同じく、冬の弱い日射しに輝いて眼底に痛い。
 リュードは目を押さえ、溜息になった。この日の午後少し過ぎた頃から会議であるが、エルシアンは少し長めの昼を取る為に後宮へ戻った。出仕の挨拶がてらわざわざ迎えにきたのだが、本宮へ行くとエルシアンはランファのほうへ行っていると言われた。ランファの宮はエルシアンの本居宮の隣である。
 こちらですと通された広い応接間に入った途端、リュードはゆるく笑った。床に色とりどりに敷かれた沢山の織物と毛皮、それと机の上に放り出された真珠、珊瑚、琥珀に紅玉、翡翠、碧玉、緑柱石。真珠の連玉紐をゆるくぶらさげて照りを見ていたらしいエルシアンがおはようリュードと笑い、それをくるみ綿の上へ置いた。
 何がおかしかったのか女たちが一斉に笑った。彼女たちはエルシアンの妃である。全員揃っているのは珍しいが、床に転がされている沢山の綾織物を彼女らは熱心に鏡の前で当て外しをしている。年末に地方の貴族等から徴税の一部現物納付で来ている織物を選ばせているのだ。
 エルシアンが真珠連の糸を平箱の上で切って、真珠を見ている。大きいものをいくつかよりわけ、ミーナと呼ぶと同じようにアルディスと布を選んでいた女が滑るように近付いて彼の側に座った。
「この前の奉納錫の追与が出るから、合わせて何か目立つものを作りなさい……ディー、ちゃんと選べよ?」
 アルディスは鏡の前で陣取らず散乱した布をせっせと巻いたり誰のものなのか仕分けの付箋を書いたりと忙しそうである。私は残ったものでいいですよと笑うが、エルシアンのほうは首を振る。
「君は去年もそうやって最後だったろ。今年くらいは先に選べよ。春先のミシュアルに着てけばいい、君がそうやって装っていることをクースト公が喜ぶ」
 クースト公はアルディスの父である。そうですよとエルシアンの隣に控えたハルミーナ妃が口添えをして、真珠をいくつかエルシアンのほうへ転がし、アルディスの側へ戻っていく。彼女は神官族の貢妃で見事に完成された女性らしい曲線と蠱惑的な美貌の持ち主だが、性格はごく穏やかで慎み深い。二度の離婚歴があることも影響しているのかもしれなかった。
 リーディ妃はまだ少女期に入ったばかりの幼い嗜好のままに淡く華やかな色が好きで、ファイエ妃はどっしりと重たい色を選ぶ傾向がある。マルファ妃はとにかく愛くるしく、サルシア妃は大人しい少女めいた雰囲気が甘い。アルディスは地味ではあるが理性と知性からくる落ち着いた雰囲気がある。
 女たちの化粧と香水の匂いが柔らかく空間を取り巻き、硝子戸を透して降る冬の薄い日がエルシアンの周辺に光の絨毯を引いているようで、リュードは目を細くした。
 壮観というのが正直な感想である。アルディスは見てくれは多少劣るがエルシアンのよき内政の補助者であり、他は沢山の異なる花が一斉に乱れ咲くようだ。
 ずっと昔、自分が彼の侍従に入った頃の彼の身辺はひどく簡素な寂しさで、後背貴族を持たない不利益の見本のような部屋だった。生活に必要なものは提供されるし多少の服や装身具などは毎年の予算が僅かにつくからそれでまかなうが、他の兄弟たちと比較する気にもならなかったのに。
 不意に女たちが歓声のような溜息をこぼした。さらりと拡げられた一本に目をやり、リュードも微かに唇をゆるめて笑う。朱子織に金銀で総刺繍し、散りばめられた花々にそれぞれ小玉硝子の粒を縫い付けた見事な一枚だった。下地の朱子織も濃淡の境目がないだんだらになっていて、この一枚で気が遠くなるほど金がかかっているのが分かる。
「すごいな」
 リュードが思わずこぼすとエルシアンが頷き、これはランファに、と言った。
「次の新年までには仕立てておけよ。左胸と右肩には徽章が馬鹿みたいに沢山さがるから、胸ぐりはあまり凝ったことをしないほうがいい」
 正妃立后の式典に張り込んだということらしかった。花もよく見ると全て蘭の種類だ。そこに金の糸で天国鳥、銀の糸でイ家の使う鳥紋が描かれている。
 ランファが頷き、丁寧に布を撫でた。マルファ妃が漢語で何か言って、ランファが自分の肩に当てて見せている。素敵と女たちがざわめき、それがふっとやんだ。
 エルシアンが窓の外を見た。リュードが振り返るともう一人、女がゆっくりと歩いてくるところだった。
 途端、浮ついていた自分の神経が急に冷えたのが分かった。リュードは剣の留め金を見えるように外し、何をしに来たと突き放すような声を出した。
「布合わせがあるとお伺いして……でもお邪魔なら本日は失礼しますわ」
 ゆったりと叩頭礼をし、裾をさばいて立ち上がる仕草に慣れがあった。もともと彼女は侍女だったのだと思い出す。
「リュード様、やめて下さい。彼女は私が呼びました。日常の衣装にも使えるものは沢山ありますから」
 ランファが凜と遮り、出て行こうとしたナリアシーアの手を取ってどうぞと優しい声を出している。ちらりとエルシアンを見ると、彼は真珠をよけてハルミーナ妃とそれにあわせるための琥珀を見立てているようだ。
 ……見ない、ほうが気にいらなかった。何の意識も気持ちも残っていなければ声くらいかけるだろうからだ。
「ラファーナ様の好意に甘えて図々しく出てくるなど、貴様の身の程をわきまえよ」
 リュードが強く言うと、ナリアシーアが正面から自分を見た。リュードは僅かに怯んだ。今までの記憶の中で彼女はどんなに罵声を浴びせてもじっと耐えているだけの女であったのだ。ナリアシーアが不意に微笑んだ。ぎくりとするほど美しく、だから一層ぞっと肌が冷える気がした。
「わたくしは少女時代から誰かと特に仲良くさせていただいたことがございません。皆様が優しくして下さるから嬉しいだけなのです」
「リュード様」
 ランファの声が尖る。
「ナリアシーア様は可哀相なかた、せめてここにいらっしゃる間は辛くあたるのはやめていただける?」
 彼女は最近はっきりと支配側に回ろうとしている。正妃として、ということをイダルガーン辺りから散々吹き込まれているだろうしエルシアンも期待を口にするから応えようと必死なのだ。
 ……似合わないことこの上ない。
 けれどランファの顔を潰すこともする理由がない。軽く会釈してエルシアンを見ると彼は苦笑して立ち上がった。リュードが呼びに来た理由は理解しているらしい。
「ランファ、あとを頼むよ」
 ぽんとランファの肩を叩いてエルシアンが歩き出す。それに従って数歩ゆき、リュードはナリアシーアに足早に歩み寄って喉を掴んだ。
「いいか、良く聞け」
 苦しげにナリアシーアが喘ぐ。吐息が微かにこぼれた唇の赤く瑞々しい色香。
「お前があいつに色目を使うなら目が使えないようにしてやる。口説こうとするなら喉を切って二度とさえずらないようにする。死ぬ前に好きな男に抱かれたいというなら止めないが、今生の思い出になると肝に銘じろ」
 リュード様、とランファの固い声がして手を離し、分かったなと念を押した。ナリアシーアは喉を押さえて咳き込み、それから視線をあげてじっとリュードを見た。
「勿論です、ご不快な思いをされたなら謝ります」
 まだかすれている声が、それでもひどく艶めかしくて痛々しい。男ならば誰でも抱き寄せて大丈夫だと宥めてやりたくなるほど。だから憎い。この女がエルシアンの胸を占めて他を駆逐することが。
 ナリアシーアがふと唇をゆるく開いた。それは微笑んでいるようでまったく違う表情だった。目が凍えるような冷徹で、青灰色の瞳が鋭く自分に張り付くのが分かる。
 リュードは何かを言いかけて黙った。唇が乾く。
「わたくしは皆様のお情けにすがって生きていくしか出来ないのですもの。どなたかのご負担になるような真似など、するはずはありませんわ」
 けれど小さく、本当にリュードにしか見えない程度に彼女は笑い、薄く開いた唇をちろりと舐めた。それは獰猛な獣が獲物を引き裂く直前の目だ。
 お前とリュードが言いかけた時、ランファの声がやめてくださいと割って入った。途端、ナリアシーアから凄味が消えてあわあわと優しい空気に戻る。
「リュード様、今日はこれから会議ですよね、もう行って……ナリアシーア様、どうかゆっくり選んでいってくださいね? リュードが失礼ばかりで本当にごめんなさい」
「まぁそんな……リュード様がご心配なのはごもっともですもの、あんまりラファーナ様がご親切にして下さるからつい図々しくなってしまって、わたくしこそ謝らなくては」
 微笑み交わす二人の女のやりとりにリュードは溜息になり、背を返した。ランファはエルシアンに嫌われたくないのだろう。
 エルシアンはランファの宮を出る辺りで待っていて、リュードが追いつくと苦笑になった。
「お前はナリアに何か言わないと気が済まないのか」
 リュードが戻った用事は大体を察していたらしい。返答の必要を感じないからふんとそっぽを向くと、エルシアンが肩をすくめて歩き出した。この件の言い争いはアウルーから帰還して以後のことでもない。実際には十六歳でナリアシーアがエルシアンの祖母の侍女となってから、二人の間では繰り返されてきた小競り合いなのだ。
 けれど先ほどのナリアシーアの不服従が目の奥をちらつく。一体彼女はあんな顔をする女だったろうか。リュードの記憶の中では常に魔女の運命にうなだれて耐えるだけの受け身の女だったのだ。
 ……それが挑発よりも更に悪い表情を見せる。自分だけに、だ。
「あの女と寝たら殺すからな」
 エルシアンに言うと、友人は苦笑してリュードの頬を軽く叩いた。やめろ、とその軽く流そうとする仕草を振り払い、リュードはエルシアンの肩を掴んだ。
「いいか、あの女は王宮に残りたいんだよ、そのためにランファにも媚びを売ってる、分からないのか」
「分かるけどさ」
 エルシアンはリュードが強く掴んだ肩をゆすって身を離し、面白くなさそうな顔になった。
「とはいえケイに俺は任せたんだし、ケイが何かする前に俺が手を出したら可哀相だろ。行き先はケイに任せてる、俺じゃなくて奴に言えよ」
 それに、とエルシアンがつぶやく。
「ナリアを俺がどう思っているか、お前は知ってるはずだ」
 小さくて、本当にささやかにすがりつく声だ。
「でも、今更どうにかなるとも思っていない。もう終わったことだ……」
 エルシアンが不意に振り返った。リュードは足を止めた。自分を見つめる友人の目は辛くひたすら切なくて、許して欲しいと言われているような気分になる。
「俺に必要なのはランファのほうだ。だから、……ほんの少しの時間、彼女が不幸ではないと確認したいだけだ。それだけはどうか理解して欲しい……」
 リュードは目を反らした。あの女はそんなに綺麗なものじゃないのだと怒鳴りつけてやりたいが、自分があまりにも強く言い募ってもエルシアンには届かない。彼の胸内にある美しい思い出に泥を投げるような真似だとしか受け取れないだろう。でも。
 先ほど見たナリアシーアの表情をどう説明すればいいのだろう。あれは確かに必死で自分を取り巻く現状と戦おうとする者の、戦支度いくさじたくの目だ。前へ進み勝ち取るためには、手段を厭わないと決めている。
 リュードの沈黙にエルシアンは宥めるような笑みを浮かべて先へ歩き出した。
 リュードは中庭の雪を見る。数日前に降り止んだ雪はもう溶けかけて、泥混じりの寂しい姿をさらしていた。


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サークル名:ショボ~ン書房(URL
執筆者名:石井鶫子

一言アピール
シタルキア創国記2部4巻から抜粋しました。大きな物語ですのでまずは代行で無配の序章「自由の翼」からご請求ください。アンソロはエルシアンが既に皇帝を名乗りアスファーンを倒したあとの話になっています。

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