日置
天狗の山には青花がほころぶ。
天狗の花は値千金の霊薬、花弁の油は千変万化の幻を見せ、茎や葉を煎じればあらゆる病を退け、全身に活力を巡らせる。干した根は若返りさえ叶えるとか。母様に教わったとおり、
鴉どもが騒いでいる。梢から梢へと飛び回り、耳がひりつく笑い声をあげ、針の羽を振りまいて、柳を威嚇する。
鴉は天狗の使い、ならば方角は正しい。天狗の花を手に入れるまで、里に戻るつもりはなかった。母様の置かれた苦境を思えば、これほどの恫喝が何だというのだ。
「ここは天狗の山ぞ」
「そうと知ってのお通りか」
ぎゃあぎゃあと鴉が嘲り、一羽二羽とかすめ飛ぶ。敵意に満ちた蹴爪や羽を前に、古びた着物は何の守りの力も持たぬ。皮膚に走った傷が見る間に赤く滴り、柳は震え上がった。
「おぉい、獣の臭いがするぞ」
「馳走じゃ、馳走じゃ」
「食ろうてしまえ」
「吊して血を抜け」
鴉の騒ぎに、天狗たちが姿を現した。背の黒い翼を広げたり閉じたり、逃げ惑う柳の前を塞いで高笑いし、背後から尻の肉をつねり、横手で舌なめずりをする。
どこをどう走ったのか、息が上がって目の前が真っ赤になって、ついに転んだところを天狗につまみ上げられた。やんやと囃す天狗たちの口が耳まで裂け、黒ずんだぎざぎざの歯がぬらりと光る。
母様、と唱えて目を閉じたとき、突然の大風が山を駆け抜けて吠えた。天狗の爪から逃れた柳は斜面を転がり、大樹の根に引っかかって止まる。
「かように不味そうな子狸相手に、何ぞ騒いでおる」
「日置様!」
「日置様じゃ」
腰が抜けて根に取りすがる柳の前に降り立った天狗は、彫りの深い顔だちに上等の羽織、胸元で揺れる宝珠と、他の天狗とはいっぷう異なる高貴さがある。さま、と呼ばれたことからして、元締めか親玉か。ぬばたまの眼が一瞥すると、鴉と天狗たちは気まずげに後退った。
ここぞとばかりに、柳は両手両足を揃えて額を地面にこすりつけた。
「さぞや名のある御方とお見受けいたします。わたくしは柳、山向こうの湯の里で、薬師の母を手伝っております」
「天狗の花を寄越せと申すか」
「仰せの通りにございます」
日置の声音は嵐の前触れを思わせる低さ、しかし険はない。事情を話せと命じられた気がして、柳は母の窮状をかいつまんで語った。
根無し草の柳たちは湯の里に温かく迎えられたこと。湯治客らにちょっとした薬湯やら薬草やらを分け与えているうち、母の薬師としての腕が広く知れるようになり、都を守る武家の殿様がやって来たこと。殿様の腹にはたちの悪いできものがあり、それはもう薬では治しようがないこと。
「治らぬものを治せと、母は無理難題を押しつけられております。殿様はご病気にもかかわらず、毎日飲めや歌えの大騒ぎで、里の者も困り果てているのです」
「ふむ。治せぬなら里を燃すとでも?」
「一族郎党を根絶やしにしてやると……」
殿様が黄ばんだ眼で里の女を眺め、背中を流させ酌を求めるものだから、家来たちにも羽目を外す者が現れた。見かねた母が酒や料理に眠り薬を仕込んで事なきを得ているが、それも長くは続くまい。
「どうにか殿様の病を癒やし、お戻り頂かなくてはなりません。天狗の里には何ら関わりのないことではございますが、どうかお情けを――!」
ふうん、と気のない相槌を打った日置は、さておき、と呟いた。
「尾が丸見えじゃ、子狸よ。人に化けるならまずそのふわふわをしまえ」
柳は大慌てで尻尾を隠した。どうにもまだ、気が動転すると変化が疎かになってしまう。里でこそ粗相をしたことはないが、殿様一行の身勝手にはそろそろ我慢が利かぬ。そうなれば住みよい暮らしを捨て、また流れねばならない。心労ゆえか近頃めっきり老け込んだ母に無理をさせたくはなかった。
「薬売りの化け狸な。
「曾祖母にございます」
「さようか。樟にはちいと恩があったのだが、返せぬままでな。縁ある者と巡り会うたのも天の計らいやも知れぬ」
日置は柳の腰に腕を回すと、背の翼を大きく羽ばたかせて舞い上がった。杉を見下ろす高みに、柳の足はむなしく宙をかく。
「暴れるな」
睨まれては頷くことしかできない。尾を出さぬよう身を縮めて、木々が後ろへ飛び去るのを眺めた。
足下は緑が連なるばかりの山、はるか彼方に目を遣ってようやく、山の端の集落が見えるといったありさまで、山向こうの湯の里を臨むことは叶わない。こんなに遠くまで来て、果たして無事に帰れるのだろうかと不意の郷愁が胸を満たした。
母様は今日も殿様の無体に耐えているのか。里の人々の期待と信頼をあの細い肩で支えているのか。
「なにゆえ泣く。母御が恋しいか」
そうだと答えるのも癪で、だんまりを決め込む。頬を拭うと、腕の傷にひりひりと染みた。
いずことも知れぬ山奥に降り立った時には、陽はとうに落ちていた。さらに歩くと言う。暗闇の中を歩くなんて、と怖じ気づいていると、日置が扇を貸してくれた。提げ持つと、ぼうと赤く輝く。さりとて燃えているわけでもなく、まじないの込められた品であるらしかった。
腕を引かれて歩くこと四半刻、日置が茂みをかき分けた先には青いひかりを放つ花が一面に咲き広がっていた。星の野と見紛う光景に、言葉もなく立ち尽くす。
菫や竜胆、桔梗に菖蒲。青い花はいくらか知っているが、そのどれとも違っていた。
「天狗の花は夜に咲く」
すぐ近くで日置が囁いた。黒い翼、黒い羽織は闇に溶けて輪郭も定かではない。高く結い上げた髪に挿した女物の櫛だけが、妙にはっきりと見えた。
「だが子狸よ、おまえに入り用なのは花ではなかろう。殿様を助けてやるのか?無体をはたらき皆を困らせる人間を助けてやる謂われがどこにある?放っておけば死ぬのだろう。ならば蓬でも含ませて、治りましたと言えば良い。違うか?」
扇を持つ左手を、大きな手が包み込んだ。かれの手は炎のように熱い。
「この扇は我ら一族に伝わる秘宝でな。ひとつ扇げば蝋燭の火、ふたつ扇げば竈の火を招く」
闇の中にぽ、ぽ、と炎が灯り、消える。ふたつめの火は大きく、思わず尻尾を出してしまい、日置の燃える手に握られた。ひゃん、と憐れっぽい声が漏れる。
「みっつ扇いでみよ、子狸」
言われるがままに、三度扇ぐ。さぞや大きな火が生じるのだろうと身構えていたが、遠くに風を感じるのみだった。
「みっつ扇げば大火を招きうる。何も起こらぬやも知れぬし、どこかが燃えるやも知れぬ。おれにもわからん」
子ども騙しではないか、と声を荒らげかけたところへ、静かな声が耳を撫でた。
「戻れば殿様が死んでおるか、はたまた。殿様の屋敷が攻め落とされて急使が着いているか。すべてが起こりうるのじゃ、子狸よ。おまえが扇いだがゆえに」
「そんな……!」
「おお、もちろん扇がずとも殿様は死ぬだろうの。病で、馬に蹴られて、流れ矢に当たって。何が、誰がそうさせたのか、知る由もなく」
そういうものじゃ、と天狗は言った。
「だが、おまえは選ばねばならぬ、樟に連なる子狸よ」
扇の光の輪に、ぬうと日置が立った。右手には青い天狗の花、左手には傘にいぼを持つ茸。
頭がぼうっとして目が回る。誘われて見上げるも、ぬばたまの眼に貫かれるだけで柳の身は強張った。
「お許しを……どうか、どうか……」
「選べ、柳よ」
天狗の翼に包まれて、柳は気を失った。
木のうろで柳は目を覚ました。慌てて周囲を見回せば、よく見知った、湯の里にほど近い山裾である。青い花畑も日置の姿もどこにもない。
しかし、うろに転がる緋色の扇と鴉の羽、櫛、薬の包みが、夢にあらずと告げていた。
日置と名乗る天狗に会ったと話すと、母は何も言わずに柳を抱きしめ、樟の葉が彫られた櫛と薬の包みを受け取った。
五日後、体が軽うなったとご満悦の殿様を、湯の里の者は胸を撫で下ろしながら見送ったのだった。
目まぐるしく時が移り変わった。ほどなくして殿様が死に、殿様が目をかけていた寺院が凋落し、代わって台頭した社を別の殿様が後押しした。家督をめぐって戦があり、都が焼け落ちた。焼け跡からはるか遠くの海が見えたと噂されるほど、苛烈な戦であった。鄙びた湯の里にまで戦火は及び、湯治客が絶え、母は風邪をこじらせてあっけなく逝った。
物騒な世が去り、柳は年頃の娘になっていた。すらりと伸びた手足に男物の着物、尻尾はきっちりしまい込んでいる。
悪心とともに腹が膨らみ、半年前に子を産んだが父親はわからない。里を荒らして去った鎧兜の者どもだろう。柳はぬばたまの眼をした赤子を
日置にもらい請けたもののうち、鴉の羽は混乱の日々のうちにどこかへ失せ、扇だけが手元にある。扇は柳の命を何度も助けた。ひとつ、ふたつ、扇げば誰もが尻をからげて逃げ出すのだ。「鬼火だ!」
木々の合間に里を見下ろす。白くけぶる里には金銀の御殿が建ち並び、すっかり様変わりしていた。女たちが着飾って殿方をもてなし、簪の数を競い合う里において、柳の仕事もまた、大きく変わった。健胃、強壮、そして堕胎。
頃合いであろう。
緋の地に金で曼珠沙華が描かれた扇を開き、ひとつ、ふたつ、みっつと扇いでみる。ごう、と風が巻き起こり、茂みを、梢を揺らした。槇が楽しげに声をあげる。
「呼んだか、子狸」
天狗が耳元で笑った。
サークル名:灰青(URL)
執筆者名:凪野基一言アピール
理屈っぽいファンタジーや文系SFを書いています。テキレボアンソロ「和」参加作「白露」以来の和風ファンタジーでした。舞台よりも作風の参考になるのではないかと思います。ピピピと来た方はwebカタログをご覧ください。