「月は欠けゆく」 抄
【おことわり】
今回は、二〇〇四年NHK大河ドラマ『新選組!』の二次創作『月は欠けゆく』(二〇〇五年刊行)から寄稿致します。これは、表題作と何本かの
表題作「月は欠けゆく」は、第四十三回「決戦、油小路」の、オープニング前の展開後から、伊東甲子太郎がその生涯最後の朝を迎える直前までを、ドラマで描かれなかった部分に限定して書いた、
岩倉邸での屈辱の会合の翌日、
∇∇∇∇∇
肌身に
夜が明けていた。
いつの間に眠ってしまっていたのか、筆を置いて
くしゃみがひとつ、
いつ眠ってしまったかもよく覚えていないくらいなのに、汚してはならぬという思いだけは強かったのか、夜を徹する勢いで書き上げた建白書の
……表紙に「
題を記したものは、
何も書かれていない二冊の内の一方は、他の二冊を作る時に手許に置いた、昨日平助にも貸し与えた控え。
そして、もう一方は……
甲子太郎は、人前では見せなくなって久しい自然な笑みをこぼすと、立ち上がり、
静かに開け放つ目の前に、
ふたつの
(……
その昔に聞いた話では、高く見えた方を
(下から見上げているだけでは、わからぬことがあるものだ。山も……この国も)
けれども今、それが何と遠くに見えることか。
近付いていたと思っていた分、その衝撃は大きかった。
だが、その衝撃に
(今のままでは、この国の行く末は危うい。ひとつ国の中で我こそが政治の実権を握らんといじましく争い続けることに、何の利があらんや。双方
そこまで考えたところで、甲子太郎は
日本の国の行く末を思う
しかし、そうは言っても自負心はなかなか捨てられるものではないということも、甲子太郎にはわかっていた。
己の策をきちんと示すことさえ出来れば
無用の誇りを捨てねばならぬと痛感しているのは確かでも、全ての誇りを捨ててしまうことは出来ない。心の働きは、なかなか、ひと筋縄では行かぬ。
「薩摩藩邸へ出掛ける。供をしなさい」
「はい」
「それから、後で、こちらの写しを一部、作るように」
言って、甲子太郎は、傍らに置いていた三冊の綴りの内、表紙に何も書かれていない綴りの一冊──昨日貸し与えた一冊とは別の一冊を、相手の前に置いた。
「……これは」
「この建白書の控えだ。……写しを作ったら、元の綴りだけを戻すように」
「はい……写しの方はどなたにお渡しすれば宜しいのでしょうか」
「君の手許に残して良い」
「えっ……!」
「たとえ単なる書写であっても、自ら手を動かして言葉を綴れば、単に耳で聞き、目で読むよりも
平助は、紅潮した顔を伏せるようにして頭を下げた。
「有難うございます、戻りましたら直ちに取りかかります」
「ただ文字
「はい、かしこまりました」
「……すぐに、出掛ける
喜びと緊張の入り混じった平助の表情には敢えて目を据えることなく、甲子太郎は、そっけないほどの態度で、
写しを作らせるという名目に
だが、それ以上、目に見える形での謝意を、相手に示したくはなかった。
優しい顔は出来る。出来るけれども、笑おうと意識した途端に、そこにどうしても偽善が混じる。相手に
それが、自分で許せなかった。
平助に対し、かつて一度そういう打算の潜む”心遣い”を見せてしまったという事実もまた、素直に謝意を表明することを阻む原因となっているのは間違いない。
(……いつになれば私は、この男に、今少し素直な言葉をかけてやれるようになるのか)
ふと、そんなことを思ってみる。
甲子太郎は無論、平助が、師である自分から素直な好意を示されれば嬉しく思う性分であることぐらい、承知している。だからこそ、平助が上洛する時に、”優しい気遣い”を示してみせたのだ。
だが……いと易く笑顔を見せることが出来たあの時とは異なり、今はどうしても、素直な感謝の言葉と笑みをかけてやることが出来ない。
そこには、偽善が許せないだけではない、もっと複雑な思いが潜んでいた。
優しい顔をすることが、弟子である相手の
弟子に対して媚びたくない、というのとは少し違う。
自分より格下だと思っている筈の相手と張り合うなど、あってはならぬこと。あってはならぬことなのに、平助の後ろに勇の影を見てしまうと、張り合うような思いを
だからつい、素直さから全力で遠ざかってしまう。
(永遠に、素直な言葉をかけてやれる時など来ないのか。……この男の後ろに、近藤の影が見えてしまう限りは)
平助の後ろに見える近藤勇の影、それは己自身の器量に対する不信の投影に他ならぬのだと、無論、甲子太郎にはわかっている。
一体どうすれば、平助の後ろに勇の影を見なくて済むようになるのだろう。
(……己があの男よりも
だが、それがどうしても出来ないのであれば。
(あの男と私と、いずれが上であるかという決着を、ハッキリと、付けること)
しかし、どうやってその決着を付けるというのか。
これまでに何年間も相手を見てきて、自分の方が総体として格上であると結論付けてきた筈ではないか。
今更、何の決着が必要だというのか。
甲子太郎はかすかな
手の届く所に簡単な答がある気がしてならないのに、今の自分にはどうしても、その答が見えない。
もどかしさが、心の片隅に、
──『月は欠けゆく』表題作(肆)より
サークル名:千美生の里(URL)
執筆者名:野間みつね一言アピール:架空世界物や似非歴史物が中心。大河ドラマ『新選組!』の伊東甲子太郎先生や超マイナーRPG世界を扱う等、ニッチな二次創作も。現在、架空世界の一時代を描く長編『ミディアミルド物語』を主に執筆中。今回は、幕末群像劇ドラマ『新選組!』二次創作『月は欠けゆく』の表題作から、第四節の一部を「抄」として投稿。
新撰組!は観ていませんけど、十二分に楽しめました! ツンデレ伊東先生がよいです!
有難うございます。そう仰っていただけるとホッとします。
あのドラマで「伊東先生が一番好き」というファンは間違いなくマイノリティですが(汗)、谷原章介さんの熱演もあって本当に読み込み甲斐のある人物造型でした。
テキレボWebカタログの方には別場面の抜粋を掲載しておりまして、そちらを御覧いただくと今回の「抄」の部分の背景が垣間見えてきますので、もし宜しければそちらもどうぞ(笑)。
ウェブサイト欄にURLを入れておきますね。