海を飛ぶ
決まった毎日の中に気づくとぽっかりと穴が開いている。時々目印を無視してその穴に飛び込んでしまう。僕は昔からそういう
僕はコタツの上にあったいつものカップ麺を食べた。それから玄関まで行って、もう一度部屋へ戻った。テキストの入った黒いリュックを背負って靴を履く。後ろをついてきた飼い犬のゴマを抱きかかえて外へ出た。背中のリュックは塾に行くためじゃないし、パーカーの中に入れたゴマは散歩のために連れてきたわけじゃない。
冷たい風に首までファスナーを引き上げた。お腹の中でゴマが体勢を整えようともぞもぞ動いている。コートが必要だったかもしれない。それでももう一度部屋へ戻る気にはならなかった。
海まで20分。うちのコンビニも夏には水着姿の人で賑わう。ガラス張りの店内から視線を感じて僕は下を向いた。平日の午後3時、客でも来ない限り皆バックヤードに引っ込んでいる。後ろめたいからそう感じるだけだと自分に言い聞かせる。5分も歩けば体が温まってくる。
空気が乾いているから海の匂いはしない。この辺りの道はどこも広く、ずっと平坦だ。人工浜に沿って作られた海浜公園は予想通りひっそりとしていた。無料駐車場はガラガラで、あとはポツンポツンと見捨てられた自転車があるだけだ。
クネクネした緑の遊歩道を突っ切ると、ジョギング向けに舗装された道へ出た。風避けのコンクリート塀とネットが見え、かすかに潮の匂いを感じる。風がぐっと冷たくなる。
僕は駆け上がるようにして塀の階段を登った。
冬の人工浜は黒い。灰色の砂は夏だともう少しマシに見えるのだけど、日も落ちてきた今はなおのこと黒く染まって見える。その向こうの海はもっと酷い。天気がよくたってまるで砂場の泥水みたいだ。
それでも海には違いない。テレビで見るエメラルドの海もここと繋がっている。
さっき目の端に映った赤いコートを僕はもう一度見た。
彼女はひとりだった。
見える限り、ここには彼女と僕とゴマしかいなかった。
ゴマは僕のパーカーの中でぐっすり眠っているようだ。
僕は一歩一歩近づきながら、途中で彼女がふり返ったらどうしようと考えてばかりいた。何かの途中を見られることが僕は苦手だ。
「あの、」
思ったより俊敏に彼女はふり返った。そうだ、学校と同じ。なぜだか僕が何か言うと皆こんな顔をする。
「……チワワ!」
「……はい」
いつの間にかゴマがパーカーから顔を出していた。
表情の明るさにほっとしたのも一瞬で、彼女は再びくるりと背を向けた。
赤いダッフルコートのフードの中でふわふわした髪が風に揺れている。
黙っていてはいけない。今はそういう時に違いなかった。
「石沢ゆいが結婚したらしいですよ」
めちゃくちゃどうでもいい。さっきコタツでカップ麺を食べながらワイドショーを見たのだ。相手はよく知らないかなり年上のバンドマンだった。
「へぇ」
興味がないのを隠そうともしない。そうだよ、女の子を楽しませる話題なんて僕が持っているわけがない。それでもこの時僕はゴマの小さな黒い頭を見つめて一生懸命頭を働かせた。
「ねぇ、なんで靴を脱ぐんだろ」
何のことだか分からなくて黙っていると彼女は独り言みたいに勝手に続けてくれた。
「私はさぁ、ほら、面倒臭いので来ちゃったから」
彼女は砂の上へ右足の外側を寝かせるようにした。先の尖ったブーツ。
「きっとこういうところが駄目なんだろうなぁ……」
僕は急にドキドキして思わずゴマをぎゅっと強く抱きしめてしまった。
ゴマがブフッだかフガッだか大きく息を吐くと、彼女はゴマに目を合わせるようにして腰を屈めた。コートの衿から細い首を包む白いタートルネックが見えている。
彼女はかなり長いことそうやってゴマを観察した後、静かに僕を見上げた。
「震えてるよ?」
「あ、はい」
「寒いんじゃない?」
「こいつ、いつも震えてるんで」
「ふぅん」
ゴマは酷く臆病で知らない人を噛むことがある。彼女がゴマに触りたがるんじゃないかと僕は気が気じゃなかったけれど、幸運にも彼女はそれ以上ゴマに興味がないようでゆっくり姿勢を戻した。
風と波の音が僕のため息を消してくれた。
彼女と向き合ったまま僕は足元の砂ばかり見ている。
泣かれたら嫌だなと思う。なぜ嫌なんだろうと考えるけれど、それより何か彼女が泣かなくて済むようなことが今すぐ起きればいいと頭が忙しい。
例えば僕が人気のお笑い芸人だったり、彼女が一目ぼれするようないい男だったり、いっそ天変地異でも構わなかった。
彼女を泣くという行為から引き剥がしてくれれば。
「海じゃ、ないみたい」
彼女は首だけ海へ向けた。同じようにして僕も海を見た。
黒い波が白く泡立っている。あいにく年中無休のはずのウィンドサーフィンも見当たらない。突然彼女が向こうへ走り出しでもしたら僕が引き止めなきゃいけないのだろうか。いや引き止めるべきだ、じゃなきゃあらゆる意味で後悔する。
波まで1メートル。
こんな風に誰かと一緒に同じものを見ているのが初めてなら、自分を見つめる視線に気づいたのも初めてだった。僕は気づいたことを知られたくなくて不自然に視線を横へ流した。風はこんなに冷たいのに頬が熱い。
黒い砂の上、灰色の海へ向かう赤いダッフルコート。信じられない、僕が彼女を救ったのだ。
ずっと遠くのコンクリートブロックの上に制服姿のカップルが見える。でもどんなに彼らの足が早くてもここに駆けつけるのは無理だ。ここには僕と彼女しかいない。
強い風が吹いて、ちぎれたビニールが飛んでいった。
「この海なんもいなそう」
つまらなそうに彼女が言った。
「いますよ」
「嘘」
「見てて」
僕は黒い海を指差した。
たぶん1分も経っていない。
あ!と彼女が声を上げた。
海面を黒くて細長い影が跳ねたのが見えた。
「トビウオ?」
「いや……」
「トビウオ初めて見た」
「トビウオじゃなくてもわりと跳ねますよ、魚は」
「ふぅん」
彼女の右手のスチール缶、ジュースかと思ったらお酒だった。能天気な桃のイラストの下にお酒ですと大きく印刷されてある。
もしかしたらお酒の臭いがするのかもしれない。彼女と僕はあまりに遠くて分からない。
「嬉しいのかな」
「え?」
「嬉しくて飛ぶんじゃないの?」
考えたこともなかった。魚に嬉しいって感情があるのだろうか。
「それとも苦しいのかな」
彼女の声のトーンが低くなって僕は焦って答える。
「何かにびっくりしたとか」
「何に?」
「魚にじゃないですか」
彼女はまたふぅんと相槌を打った。
「私もさっきびっくりした」
ふわふわの髪が白い頬を隠す。
「ほんと飛び上がるくらい」
桜色に塗られた指先と唇。
「ふり返ったら犬人間いるし」
笑った彼女の目と鼻は赤かった。
僕の分からないことで彼女が泣くのが嫌なのだ。
だからといって僕がそれを知ることはできない。
それがとても嫌だった。
「寒~い」
砂の上で彼女が大げさに足踏みする。
彼女の小さな手が僕に向けられる。
「中3」
僕は頷いた。嘘だ。
「受験だ」
「はい」
「余裕じゃん」
「や、全然」
受験は再来年だ。
「塾、サボっちゃダメだよ」
急げばまだ間に合うかもしれない。
「ねぇ、夏になったらさ、ここにまた来ようよ」
ここは遊泳禁止だ。僕は頷く。
「私すんごい奴着てくるから」
何て答えていいか分からない。何か言おうとしたけれど、もちろんドラマみたいな言葉は見つからなかった。
「冬の海なんてしょうもないや」
彼女はそう最後につぶやいた。
その場で別れたのか、公園の外まで送ったのか、僕はもう覚えていない。
ゴマが駆け足で天国に行った後、僕のうちにはウドンが来て、それから冬になると僕はウドンを連れてここへ来るのだ。
もちろんあれから地元の悲しいニュースなど聞いていないし、赤いダッフルコートも見ていない。
もし街で赤いダッフルコートを見ても僕は何ともない。
例えば僕の頑張り屋のかわいい彼女が赤いダッフルコートを着たって構いやしないけれど、それを着てここへ来るなら話は別だ。僕の彼女が笑ってくれたり、そう、例えばここでキスしたりしたら年甲斐もなくどぎまぎすると思う。
保育園のよしこ先生、放送委員の山岸さん、テレビの中のアイドル。
全部違う。今は分かる。
あの日彼女は泣かなかったけれど、それは僕が泣かせなかったのだ。
今なら彼女が泣いたって平気。
今なら泣かせてあげる。
風が強くて泣いたら肌がちぎれそうだ。
僕は精一杯目を開いて海面を睨む。
僕はもう大人で小さな車だって持っていてどこへだって行ける。
けれど僕は今もまだ苦しい。
黒い海を小さな影が跳ねる。
魚だって苦しくて飛ぶのかもしれない。
(了)
サークル名:ミツモト時計店(URL)
執筆者名:ミツモト メガネ一言アピール
悲しかったり寂しかったり切ないお話を書きたいです。テレキボ7では「海を飛ぶ」に似た感じの短編集とふわっとファンタジーの二冊を頒布予定です。無配本もあるのでぜひお立ち寄り下さい。