満月の夜に、ビルの屋上で


 月明かりが太陽の光を反射したものであると脳裏をよぎったのは、頭からかぶっていた掛布シーツを外して、肩からかけた後だった。
 途端に、全身を痛いほどの痺れと緊張感が走り抜けたけれど、身構えたところで皓々と明るい月光が膚を焼くことはない。
 夜空には満月。それと周囲のビルの明かりに照らされた屋上は昼のように明るいが、月はあくまで月であって、太陽の下に出るのとは決定的に違う。ばかばかしいと思っても、そういう論理に命を握られているのが、自分という存在なのだ。
 ため息をついて、ゆきは白いシーツをはためかせながらアスファルトを踏みしめる。吹き抜ける強い風は、夏の終わりらしい生温い空気。しかし少しずつ夜が長くなり、冬に向かうにつれて動ける時間はどんどん増えていく。この時期にほっとするようになったのは、つい最近のことだ。
《今二十二時四十五分。日の出まではあと六時間ちょっと》
「問題なさそうだな。これを逃したら次の満月だ。今夜で仕留める」
 イヤホンから聞こえる相棒の声に小さく答えて、晋はできるだけ足音を立てないようにしながら慎重に足を進める。もし師匠なら、意識もせずにすいすいと足音を立てず歩いていけるのだろうが、自分にはまだ難しい。シーツの下、腰につけたシースナイフの感触を後ろ手に確かめて、ゆっくりと歩いていく。
 その先に、少女が立っていた。
 階下との唯一の出入り口からまっすぐ歩いた向こう、転落防止のフェンスを背に、こちらを待ち受けるようにして佇んでいる。
 冴え冴えとした光の下に立つ彼女のことを、奇妙であると自分が言えた口ではないことを、晋は重々承知している。
 ただ、対照的ではあった。
 晋のくせがついた黒髪に対して、少女はまっすぐな白髪を肩口まで伸ばしていたし、こちらが上下真っ白なスウェットで、白いシーツまでかぶっているなら、向こうはこの生温い湿気の中にもかかわらず、真っ黒な冬用のセーラー服に身を包んでいる。自分はナイフをシーツにくるんで隠しているけれど、彼女はこちらからはっきり見えるように、鞘に納めた日本刀を手にぶら下げていた。そして、こっちは男で向こうは女、と言うわけだ。
 共通していることと言えば、お互い見てくれは同い年ぐらいだけれど、それぞれ見た目通りの年齢ではない、ということぐらいだろう。
 もっとも、実際の年齢で言えば、晋の方がはるかに若輩者だ。
「……吸血鬼『もどき』かえ。なんとまあ難儀そうな格好をして」
 黒い目を薄く細めて、少女はくすくすと笑った。顔を寄せて確かめたわけではないが、自分の赤く充血した目とは正反対に、彼女は健康的なつるりとした白目をしているのだろう。ふつうはそういうものだ。
「お初にお目にかかります。〈神究会〉の舞洲まいしまと申します」
 少女から数歩離れたところで立ち止まり、晋は頭を下げた。ただし、手だけはナイフの柄にかかり、いつでも抜き放てるようにしてある。
「それと、お気遣いありがとうございます。でも、難儀なのはそちら側も変わらないと思いますが」
「そうだねえ。ずいぶん噂を流してくれていたみたいだからね」
「『妖怪退治』の基本ですから」
 時代がかった口ぶりで話す少女に頷いて見せると、晋はズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「転化した段階で性質が固定される俺たち不死者と違って、妖怪フェノメノンは後から書き換えられる。あなたたちが人間の頭の中から生まれてくる以上は、そこからは逃れられません。今ならこれもあります」
 言って、携帯電話を取り出す。電話から伸びたコードは、晋の耳のイヤホンに繋がっている。今は、イヤホンの向こうからは息遣いさえ聞こえてこなかった。ただ、相棒の目はこの屋上を捉えているはずだ。
 少女は晋の手の中の携帯電話に目を向けて、胡乱な顔で目を瞬かせた。
「……電話」
「インターネットです」
 絞り出すような少女の言葉ににべなく返して、晋はポケットに携帯電話を戻した。
「ネットワークを介して認識は高速で広がり、より多くの人間に消費されることで、設定は強化されていく。しかも、働きかけもきわめてしやすい」
「……ああ、そういえば、近頃はそこから生まれてくる連中も多いって聞いたかね。『まいこん』でやるもんだとばかり思っていたが……そうか、今は電話で……」
「〈神究会〉では、『これ』があなたのような古い妖怪にも通用するのではないかと考えています」
「なるほどねえ」
 頭に手をやってぶつぶつと、眉間に皺を寄せてつぶやいていた少女は、晋の言葉を聞いて顔を上げる。その口元には、皮肉っぽい笑みが浮かんでいた。
 下ろされた手が、ふと刀の柄にかかる。
「京の坊主どもがやっていたことを思い出すよ。
 怪異の噂をいいように書き換えて、自分たちが奉る伝来の何某であれば治められますとか嘯いていたっけ。
 でもそれは畢竟、人の意識の底にあやかしの種を埋める行いだ。ひとつひとつは小さくてつまらない怪異でも、節操なく埋めて芽吹けば、いずれ御するなどとは言っていられなくなる……」
 抜き放たれた刃が、月の光を受けて白々ときらめいた。
「それに、書き換えるにも限界はある。人間を喰ったあやかしなんかは、人の口を借りたところで容易には動かせない。其方も知っているだろう」
「『自分の夢を見るようになるから』ですか」
 頷く少女の姿が、陽炎のごとくゆらゆらと揺れた。
 じんわりとした圧力と息苦しさは、緊張からだけ来るものではない。彼女が刀を抜く前から、濃厚な気配としか言いようのないものがこの屋上で膨れ上がっている。
 それが何なのかを、晋は知っている。
「サテ、では首尾を見てみようじゃないか。其方が広めた噂がどう作用したか。風で桶屋が儲かるように──」
「撃てッ!」
 晋がナイフを抜き放ちながら叫び、身を翻す少女の足元を銃弾が穿つまで、瞬きほどの間もない。
《外した!》
「視線外せ! あとはこっちでやる!」
 シーツを翻し、晋はナイフを構えて大きく踏み込んだ。向こうから、相棒が慌ただしく場所を移す音が聞こえる。
「派手だね、どうもッ」
 身を低くしてフェンス沿いに駆ける少女の声は、囃し立てるように弾んでいる。晋は答えず、息を詰めて少女を追った。
 気配はますます辺りに凝り、頭痛さえ感じるほどになっている。だがそれも、この場に居合わせているからこそだ。少し距離を置けば、ここまで嫌な気が漂っているにもかかわらず、何も感じ取れなくなってしまう。
 だからこそ、この夜のためにコントロールが必要だったのだ。
「『満月の夜に、ビルの屋上で』……」
靑鱗せいりんッ」
 呪文を唱えるような晋の声と、名を呼ぶ少女の怒鳴り声が重なった。
 嘘だろ、という言葉を、晋は何とか噛み殺す。
 空気が渦を巻き、血煙のような朱を纏った。皓々たる月光の下でもどす黒く暗いそれは、屋上で渦を巻くうちに巨大な人型を為し、アスファルトの上に這いつくばる。
 ──異様に長い首がぐんともたげて、ぐずぐずに崩れた顔がこちらを向いた。目に鼻に、口、パーツ自体は揃っているが、それぞれがてんでばらばらに設置され、それぞれがぐちゃぐちゃに歪んでいる。
 それを目に入れた途端、脂汗が全身から噴き出し、凍えるような怖気が走った。
「んぶっ」
 込み上げたものを吐き出すと、それは血であった。構わずに、晋はさらに踏み込む。
 少女はフェンスを背に立ち止まり、刀を正眼に構えたままだ。その姿が再び熱風の向こうにいるように揺らいだのは、彼女が妖怪というあやふやな存在だからではない。
 ……こちらの方が速い。
「いいや、仕掛けは此方が早かった」
 赤い化け物の顔がめりめりと裂けた。
 無理に作られた口腔から、ぞろりと生え揃った牙が覗く。なおも喉元に血が込み上げて、毛穴からさえ血が滲んだ。だが、そんなことはどうでもいい。問題は。
 口が。
 こちらへ向けて牙を見せつけるあやかしの背後から、巨大な口が現れる。
「まだ!」
 叫び返す声は濡れてくぐもっている。
 シーツに隠したナイフを振りかぶり、晋は長々と伸びた首元にざくりと刃を突き立てた。
 耳障りな金切り声。
 天を仰げば、月の光を覆うように、蟒蛇うわばみの上顎が、

 ――――ばくんッ。

 ◇ ◆ ◇

「『満月の夜に、ビルの屋上で』」
 刀を納め、フェンスに背を預けた少女は、呆れ果てたと言った風だった。
「時間と場所だけ動かして、あとは私が見つけるのを待っていたのか。
 途中まではいいんだが、死なずってのはどうも詰めが雑だね」
「力業はお互い様だと思いますが……」
 血と唾液に塗れたズタズタのスウェットを引っ張って、晋はため息をついた。屋上には、巨大な蛇の這いまわった跡が残っている。ビルの上であれば大蛇を出すのを躊躇うかと思ったのだが、甘かったらしい。
「でも、仕留めたのは俺です」
「頑張り過ぎだとは思わないかい。若造同士の張り合いだろう」
「死亡条件はかすってません。別に無茶じゃないですよ。それに、こっちは縄張り争い以上の理由があるので」
「ああ成る程、難儀な……」
「ところで」
 フェンスから背を離した少女に晋は声をかける。ぬるついた手を、再びナイフの柄にかけて。
「……あなたは、自分の夢を見ているんですか?」
 それは、肚を決めた質問であったはずだった。
 だが、夜闇にぼんやりと白い髪を浮かばせた少女は、揶揄うような笑みを浮かべただけだ。
「いいや、私は同じ夢を見ているだけサ。しかし、見たら死ぬ呪いなんて気軽に広められたら、たまったもんじゃないね……」
 背を向けて去っていく少女を、晋は無言のまま見送った。
 空には月が出ている。


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サークル名:イヌノフグリ(URL
執筆者名:ω

一言アピール
イヌノフグリは若い男を苦しめる品質保証サークルですが、見た目が若いだけの男も含みます。


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