ここにいない君を想い

「左手しか無いんだから、左手で何でもできるようになりな」
 世話になっている家主兼主治医のユージンにミサクがそう言われたのは、息子が生まれてから四年の歳月が過ぎた頃だった。
 それまでは、色々と――本当に色々とありすぎて、彼女も、ぼろぼろになったミサクの精神の回復が最優先だと見逃してくれていた。だが、服薬せずとも悪夢の夜を過ごさないで済むようになってきた機を見計らって、少々手厳しくしても良いと判断したらしい。
 食事、洗濯に始まる日々の生活、右手用に作られた旧アナスタシア王国式の銃を左手で撃つ訓練。身に叩き込むべき習慣は腐るほどあった。
 とはいえ、料理については、アナスタシアの騎士時代にもほとんど他人任せで手をつけなかった過去が災いし、一から何かを作ろうとすると、壊滅的な物体ができあがる。これについては、自身も料理の腕前は何も言えないユージンが目を瞑ったので、早々に二人とも諦め、新たに開発された『魔律晶まりつしょう』の一種である『加温律』で温めるだけで美味しい食事が口にできる、瓶詰や缶詰に頼り続ける事にした。
 右手、あるいは両手で当たり前のように行っていた動きを、利き手ではない手だけで行う。精神が死にかけていた頃は気に留めすらしていなかった事が、こんなにも難しいのかと、焦燥と苛立ちを覚える事もあった。
 だが、慣れとは恐ろしいもので、ひとたび身につけてしまえば、それが当然のものとして機能する。性格はともかく身体的には、生来器用だったのも幸いして、半年も経つ頃には、大抵の事は左手だけで行う事が可能になっていた。
 そんな折、ユージンがスケッチブックと筆記用具を取り寄せて、
「絵を描くのは、精神の安定にも繋がるからね。気分転換にどうだい?」
 とミサクに渡してきたのである。

 息子を抱っこしたユージンがソファに腰掛けた向かいに、ミサクは椅子を引いてきて、そこに座る。スケッチブックを開き、肘までしか無い右腕で固定しながら、サイドテーブルに置いた筆入れの中から、芯が柔らかくて濃い鉛筆を左手で選びあげる。
 じっとしていられないのか、落ち着き無くきょろきょろと視線を巡らせ、「あそぶうー」とじたばた暴れる息子を、ユージンが苦笑しながら押さえ込むのを見れば、こちらも自然に笑みが零れる。そんな姿を見ながら、左手で、鉛筆を紙の上に滑らせた。
 しゅっ、しゅっ、と。
 線が引かれてゆく音と、時折息子が不服そうに唸る声だけが聞こえる、春の太陽光が差し込む、ほんのりと暖かい部屋。何気ない家族の昼下がりのようでいて、ここに血の繋がりのある者は誰一人としていない。数奇な縁があって集った三人が過ごす時間が、静かに流れてゆく。
 ミサクはほとんど迷い無く筆を走らせる。鉛筆を置いて消しゴムを取る事は、数分に一回。
 やがて、暴れる事にも飽きてきたのか、息子が大きな欠伸をして、うつらうつらと舟を漕ぎ始めたところで、ミサクは先の丸くなった鉛筆を筆入れに戻し、ひとつ、息をついた。
「どれどれ」
 ユージンが息子を抱えながら近づいてきて、スケッチブックを覗き込み、満足げにうなずく。
「うん、いい出来なんじゃないかい?」
「そうだろうか」
「アタシが美人に描かれてる」
 初めて左手で描いた絵の出来映えは、ミサク自身にはよくわからないが、確かに、初めてにしては「酷い」という評価を下すものではない。きちんと人の顔をして、身体のバランスも取れた、ユージンと息子の全身像が描かれている。
「これからも練習台になるけど、他にもあんたの好きなように描きな」
 ユージンはそう言い残し、「この子を布団に突っ込んでくるよ」と、すっかり穏やかな寝息を立てる息子を抱いて部屋を出てゆく。窓から差し込む光の中で、小さな埃が舞い踊るのをしばしぼんやりと眺めていたミサクは、不意にスケッチブックのページをめくり、先のすり減っていない新しい鉛筆を手に取った。
 空になったソファを見つめる。そこに、『彼女』が座っている姿を思い描き、手を動かす。
『ミサク』
 呼びかけて微笑む薄い唇。
『ありがとう』
 細められる碧の瞳。
 光の中で黄金色の髪が跳ねる。
 剣を握るにはあまりにも細い腕、女性らしさを感じる豊かな胸、くびれた腰。
 あの頃見つめていた『彼女』の全てを思い浮かべながら、一心不乱に鉛筆を紙の上に踊らせる。消しゴムも使わず、ただひたすらに。
 そして。

 ばきり、と。

 音を立てて、鉛筆が真ん中から二つに折れた。
「……違う」
 折れ目が刺されば怪我をするのにも構わず、左手に力を込め、呻くようにミサクは洩らして、ふるふると首を横に振る。
 違うのだ。どんなに思い出しながら描いても、ここに本物の『彼女』はいない。どんなに想っても、『彼女』が帰る事は無い。何度も、何度も、自分を納得させる為に言い聞かせた。それなのに、未練の鉛はこの胸に重たく沈んで、何度も、何度もミサクを責め立てる。
 あの日、『彼女』を一人で行かせなければ。あの時、右手を失っていなければ。『彼女』を追いかける事ができていたならば。全ては想像でしかなく、『彼女』はもういないという覆しようの無い事実は、ただただそこに横たわって、後悔を駆り立てるのだ。

 静かな嗚咽が、一人しかいない部屋に響き渡る。
 スケッチブックには、凜とした瞳でこちらを見つめる、かつて勇者と呼ばれた少女が描かれていた。


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サークル名:七月の樹懶(URL
執筆者名:たつみ暁

一言アピール
最終巻にあたる番外編が発行予定の『フォルティス・オディウム』より、こじらせ片思い野郎・ミサクの出番です。番外編でもいい具合にこじらせまくっておりますので、こやつの行く末を見守ってくださると幸いです。


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