帯を結ぶ

 緑の中に白と赤が動いている。
 そうだ、私も数年前はこの中にいた。
「ロロ様、お帰りなさい」
 その声に釣られて、あちこちの草陰から少女達が顔を出した。
「ねぇ皆、こんなに!」
 一番初めに私を見つけた子が先導するように声を上げた。
 わぁ、と少女達が走り寄ってくる。
 「りっぱなマス」「大きい」「よく太っている」「どうやったらこんなに釣れるのですか」と少女達の言葉が次々と私にかけられる。
 彼女達は藁に刺し繋いだ野いちごを白い腰帯にぶら下げている。どのくらい熱中していたのだろう、八つも野いちごの束を持っている子もいる。
「暮れだすとあっという間だから気をつけなさい」
 私の周りで子犬のようにじゃれていた彼女達が揃って短く返事をした。
 背中のマスを背負いなおして私は家路へ向かって再び山道を登り始めた。
 夏になると男達は山を下りて出稼ぎへ行く。この山に残っているのは年老いた男と子供、そして女だけだ。
 目印の赤い布を結んだ最後の木を通り過ぎれば岩山が見えてくる。
 それと同時に吹き抜ける風が冷たくなり、汗ばんだ首を冷やす。緑は消え、岩肌に添ってできた細道を登る。夏の間、娘達ははしゃいでここを走り抜けるのだろう。私は背中の重石のようなマスのせいでとてもそんなことはできそうになかった。一歩一歩最後の力を振り絞るようにして細道を上がっていく。岩山をぐるりと半周すると丸太を繋いだ簡素な門に着く。入ってすぐのところに座り込んで話をしていた女達が手を上げてくれたのに答える。
 利き手を上げて見せるのは武器を持っていないことを示す挨拶だ。武器を持たずに生きていること、相手に武器を見せなくてよいこと、それが私達の最上級の幸福だ。けれど一年のほとんどを雪に閉ざされる場所で生きていくには、斧や槍や弓が必要で、過去には砂鉄が取れる場所を奪い合うため、今は山を奪い合うため、私達は武器を持つ。私達は毎日手を上げて挨拶しながらけして武器を手放すことはない。
 正面に見える一際大きくてなだらかな屋根を持つ建物へ私は向かった。
 戸口に腰掛けて眠ってしまっている門兵代わりの年寄りに声をかけて私は背負ってきたマスをようやく下ろした。目を病んだ老女が二人静かにやってきて私へ手を上げて見せた。私は黙って手を上げた。老女達は私の手の平を見ることはできないが風の動き、衣擦れの音で私が手を上げたことが分かるのだろう。まるで目が見えているように私の挨拶を確認して六尾のよく太ったマスを軽々と抱えていった。
 よく磨かれた一枚岩の上へ腰掛けて膝下に巻いた布を解き、革の長靴を脱ぐと、先ほど戸口で居眠りをしていた年寄りが水桶を持ってきてくれた。濡らした手拭いで足を清めてから私は奥へ上がった。小さな扉を閉めてしまうと、一歩先に何があるかも分からない。ここが昼間でもこんなに暗いのはいつものことだ。それでも老女達はするすると自由にここを行き来することができるし、私もある程度は部屋の作りを覚えている。私はいつものようにゆっくり目を閉じた。ここでは目を開き、見ようとすれば迷ってしまう。
 すり足で進み、ふたつめの角を曲がり、小さな段差をいくつか越える。滑らかな木の肌触りが絹のような見事な毛皮の肌触りに変わり、特別な臭いがしてくるともうお婆の目の前だ。
「よく帰ってきなすった」
 お婆はいつもこんなことをいう。出稼ぎに行った男達が帰って来たならわかるが、半日湖に行ってきただけだというのにいかにも大げさすぎる。
「よく太ったのを六尾釣りました」
 そうかい、と答えたお婆がにこりと笑った気がした。
「今年は雪が深いかもしれないね」
 お婆が軽い調子でいった内容に私はどきりとする。お婆が雪が深いといえば、それはそのまま現実になる。
「冬の蓄えをしっかり増やします」
 そうだね、と答えてからお婆が手にした火打石から火花が散った。小さな体を丸めたお婆の姿が一瞬見えた。
「ロロ、お前さんいくつになった」
「十八です」
 冬には十九になる。
 お婆はそうかい、としかいわなかったけれど、私は胸を押さえるようにして声を絞り出した。
「早く帯を結びます」
 香ばしい匂いに私は目を開けた。一瞬皿の上に小さな炎がひらめき、薬草はあっという間に燃えカスになった。辺りは再び闇となったが私は目を開けたままでいた。
「帯は結ぶものじゃない。結んで貰うもんだ」
 髪を強くつかまれたように意識が後ろへ引っ張られていく。
「お前さんは誰に結んで貰いたい?」
 帯は何色か。赤か、緑か、紫か、もしくは青。
「山を下りてみる気はあるかい」
 村には妻を亡くした、かなり年上の男しかいない。
 向こうの分村には男がいる。
 でもあいつは嫌いだ。
 山を下りた生活をしながら山に居座っている分村に嫁ぐ気にはなれない。
 どうかこのまま、
 藁に通した野いちごを下げて、
 駆ける、
 娘達のまま。
「ロロ、お前さん、山を下りる気があるかい」
 山を下りる?
 私はもやを払うように頭を振った。
「……それは、どういう、意味でしょうか」
 舌がもつれてうまくしゃべれない。私は額の汗を袖で拭った。
「そのまんまさ、山を下りて生きる気があるかと聞いたんだ」
 親を亡くし、お婆に預けられた娘は二十を超える前に嫁ぐか山を下りなくてはいけない。山を下りた娘は麓の村で働くことができるが、それも長くは続けられない。家を見つけることができなければそこも出ていかなくてはいけない。その後の娘達がどうなるか、私は知らないし知りたくもない。
「山を下りては生きていけません。私はこの村の娘ですから」
 娘と名乗ることに少し恥ずかしさを覚えながら私はいった。
 体を揺すってお婆が音もなく笑う気配がした。
「そうさねぇ、お前ほど見事な弓の腕を持った娘はおらなんだ」
 冷えていく頭、込み上げる焦燥感、こぼれ落ちては渦巻く思考。
 あぁ、弓などできなくてよかったのに。
「ずぅっと昔さ、連れられてな、お婆もこの山へ上がって、ここで生きることができた。お前さんもどこでだって生きられるさ」
 堪えようとしたけれど私の体は勝手に震えだした。
「なぁんも、なぁんも」
 お婆が笑っている。
 私は両手を膝についたまま、激しくしゃくりあげていた。

 頼んでいた小麦や芋の数を増やしに一日かけて山を下りなくてはいけない。お婆が見事な刺繍ものを出してくれた。これで今年の冬を越すのに十分な量の食料が買えるはずだ。
 冬がくれば、私がこの村で過ごす最後の年が始まる。
 帯が何色か、どんな男が結んでくれるのか、私は想像できない。
 私の手にはよく手入れされた弓とまっすぐに飛ぶ強い矢しかない。

 それでも私は夜には夢を見る。
 白い闇を照らす光だ。
 嗅いだことのない良い匂いがして、私は冷たい鼻を押し付ける。
 弦をかき鳴らすような、聞いたことのない声がする。
 何をいっているのかも分からない。
 体の中を何かが駆け巡っている。
 酷く苦しい。
 私は、見つけた、と思う。

 けれどそれも夢の中のことだ。
 朝になれば、私は弓と矢を持ち、帯をしめずにでかけなくちゃいけない。
 時々私は、見ようとしているのに目を閉じているような気になる。
 目などなければよかった。
 そうしたら私は見ようとしなくていいのだから。
                              (了)


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サークル名:ミツモト時計店(URL
執筆者名:ミツモト メガネ

一言アピール
「ルーシィと緑の杖」の続編予定「アルバートと白の杖」のヒロインロロのお話です。テキレボ9で出せたらいいなぁ。きっとロロは帯を結んで貰うんじゃなくて自分の手で帯を結ぶでしょう。


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