いつか海に出る

 夏の夜明け前という時間に動詞を与えるのなら、「蟠《わだかま》る」というのがもっとも適切なのではないか、と煌木《きらぎ》は思う。夜という冷蔵庫でも冷やしきれなかった熱が、埃のように身体中にからまって、あたかも自分が、わたがしに刺されている割箸になったような、そんな気持ちだ。起き上がり、窓を開け放って見ても、事態がそれほど好転の兆しを見せないのは、夏の空が低すぎるからかもしれない。つまりは密閉度が高い、ということなのだけれども。
 爪先立ちで玄関まで行った煌木は、ドアーの鍵を開錠し、ドアーを開ける。そのいちいちの動作で、まだ眠っている火ノ都《ひのと》が起きてしまうんじゃないかと、煌木はどきどきしている。けんかをしたわけでもないのに、無事に部屋の外に出ると、抑圧からの解放感みたいなものをおぼえるのはなぜだろう? うーん、と伸びをすると、煌木は裸足のままアパートの階段を一段一段数えるようにぺたぺたと降りてゆく。昨日の雨で階段はまだ湿っているけれども、今日の天気は上々だ。アスファルトはもう乾いている。
「この道を」
 そう言いながら、火ノ都が腕をまっすぐに伸ばして道路の果てを指さしたのは、いつのことだっただろう。
「まっすぐ行くと海に出るんだよ」
 煌木は眼を細めた。道の脇にぎゅうぎゅうに建っているビルやアパートが、とたんに巨大な水に潰されて滲み出したかのように見えた。額の上に手を態《わざ》とらしく翳しながら、
「だから、この家に住んでる?」
 だなんて、よくよく考えれば、愚かな質問をしたものだ、と煌木は思う。ちょっと動かせば海に突き当たって果てる道なんて、この極東の島国にはごまんとあるではないか。でも、火ノ都はちょっと眉を動かして笑うと、
「そうだね」
 と、頷いた。その静かな声を聞いたとき、なぜか煌木は何度めかになる確信を抱いたのだ。すなわち、自分はこの男を好きになるだろう、という確信を。
 アスファルトの上へ、煌木は一歩を踏み出す。反対側の足も。そうして、少しのあいだ仁王立ちになってみる。けれども、今朝の街並みは、くっきりとした不動の輪郭を帯びたままである。そのことに、煌木は、果たして気づいていたかどうか。ふいにひゅっと、ちいさな冷たい氷の何粒かが煌木の身体の中に投げ込まれる。その感情が恐怖であることに、煌木は、果たして気づいていたかどうか。煌木はあわてて足を引っこめると、未舗装の土のうえに佇んだ。そうして、今しがたまで自分の眠っていた部屋をめがけてくるりと振り返る。いまもまだ、火ノ都が眠っている部屋を一瞬視界の隅に掠め、煌木はふたたび道路の果てへと目を凝らした。
 いつか靴を履いてこの道を歩いてゆこう。どこまでもどこまでも歩いてゆこう。火ノ都と一緒に、海にぶち当たるまで。そんなことを考えながら、煌木は階段の手すりに手をかける。ぺたぺたぺた、と煌木の足は一段一段階段を昇ってゆき、そうしてふいに画面から消える。


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サークル名:6e(URL
執筆者名:ロクエヒロアキ

一言アピール
小説(純文学、BL、幻想文学)、短歌、都都逸などを書いています。


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