桜雲石

 北の町を終着駅とする汽車は、客と荷を乗せ替えて再び首都へと戻っていく。
 威勢のいい蒸気機関の音を遠くに聞きながら、吉野は小さな旅行鞄を片手に駅舎を出た。曇天の向こう側に、煤けた朝日の存在を感じる。
 予想以上の寒さに思わず外套の襟元をかき寄せた。世界的に寒冷化が進んでいるとはいえ、初秋の早朝ともなれば首都とは気温差が大きすぎる。中央図書館の制服は冬仕様だが、それだけで寒風を遮ることはできない。
 朝が早いこともあり、さびれた駅前にまだバスは来ていなかった。数少ないタクシーは、先に出た乗客がさらっていったのだろう。
 あと一時間ほど待合室にいればいいのだが、帰ってすぐに手をつけたい仕事もある。夜行に揺られどおしだった頭を目覚めさせたいという気持ちもあったかもしれない。吉野は帽子をかぶりなおし、長身の姿勢を正してそのまま歩き出した。
 町なかにある職場までは、歩いても三十分ほど。雪が積もっていれば考えなおしただろうが、幸い初雪はまだだった。五十も間近とはいえ、ちょっとした運動を厭うほどに老いてはいない。
 以前はひっきりなしにバスが乗り入れていたターミナルも、今は一時間に一台、時間どおりに来れば御の字といったところ。北の町の玄関口も、汽車が発着するタイミング以外は閑散として人気がない。
 「黄昏の時代」とはよく言ったものだ、と町を歩くたびに思う。気温はじりじりと下がりつづけ、人口も下降線を辿りはじめて半世紀が過ぎた。住みやすい南へ移る者も多くなり、首都より北の土地ではどこも同じ状態だ。
 だが、まだ夜は来ていない。
 吉野はそうたやすく世界が終わるとは思っていないし、この故郷がなくなると考えたこともない。どれほど人が減り、さびしい町になろうとも、この地を離れるつもりはなかった。
 広い川にかかったアーチ状の橋を渡り、その昔繁華街だった通りを抜ける。看板はそのままでもシャッタが下りっぱなしの店は多いが、通りの屋台骨を支えるように書店が残っているのは、住民としても司書としても誇らしく思う。この町は、本を捨ててはいないという証だから。
 役場や公会堂と並ぶ、裁判所の前を通りかかった。
 いつもは意識することもなく車で通り過ぎてしまう場所だが、今日ばかりは足を止めていた。
 建物の横手に苔むした大きな石がある。大人の背丈ほどもあるその石は、しかし横にのっぺりと平たく、しかも真ん中から二つに割れている。庭石というにはあまりに巨大で不格好で、威厳ある裁判所の玄関前にはあまりふさわしくないというのが正直な印象だった。
 それでもこの石が撤去されないのは、町の古く大切な記憶をとどめるため。この町で育った者はくり返し聞かされる。吉野も例外ではない。
 かつてこの割れ目からは、一本の木が生えていた。石を割って芽生えた木は大樹となり、伸ばした枝にたくさんの花をつけ、人々を楽しませ勇気づけていたのだ……と。
「桜か……」
 そこにあった桜という植物を、吉野は写真や映像でしか見たことがない。吉野が生まれたころには、すでに絶えていた。その種にのみ感染する病原菌が大流行したためだという。この木も洩れなく感染し、根こそぎ駆除されてしまった。切り株でもあれば往時を偲ぶこともできただろうが、今ではただの「割れた石」しか残っていない。当時を覚えている者もかなり少なくなった。
 石を割って堂々と立つ姿も、春に満開の花を咲かせる姿も、すでにない。この先見ることも叶わない。それでも、写真が載っている本を開いてこの石と並べ、在りし日を想像しようとした。ずっと昔、まだ子供だったころの話だ。
 吉野はしばらくその石を眺めていたが、きびすを返し歩きはじめた。
 また橋を渡り、石畳を踏み、ガス灯を何本も過ぎ、煉瓦造りの銀行を曲がる。三階建ての小さなビルがあり、表には喫茶店の古びた立て看板が出ていた。ただしこの時間は、当然ながら「CLOSE」の札がかかっている。
 磨り硝子に「中央図書館 古書管理閲覧室 第七十二分館」と書かれている扉を開けて中に入り、冷たい外気から遮断されたエントランスで一息ついた。時計を見ると、四十分ほどかかったようだ。バスを待つよりは早い。
「いらっしゃいませ……」
 店に入ると、レジスタが置かれたカウンタの奥から喫茶店主が現れる。四十路とは思えない機敏な足取りでカウンタから出てきた彼……万尋は、吉野の姿を認めるなり親しげな笑みを浮かべた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 帽子を取りながら、吉野も微笑み返す。わずかに漂う珈琲の香りを感じ、改めて帰ってきたと実感する。
「夜行で帰ると知らせてくれれば、迎えにいったのに」
「ちょうど開店準備中だと思ってね」
 カウンタ横の階段から、吹き抜けになっている地階を覗く。壁一面の本棚、いくつかのテーブルと椅子。ここが吉野の職場たる「図書室」であり、同時に万尋が取り仕切る「喫茶店」でもある。
 開店前といおうか、開館前というべきか、どちらにしてもまだ客はいない。万尋は竈に火を入れ、吉野はいつもなら仕事前に一服している時間だ。
 外套を脱いで階段を下りていこうとする吉野を、普段は黙って見送る万尋が呼び止めた。
「おもしろいものを手に入れたんですよ。お仕事前に、少し見ていきませんか」
 彼がそんなことを言うのもめったにあることではなかったから、招かれるまま厨房に足を踏み入れる。
 開店前だから、光サイフォンもまだ稼働してはいない。
 ここのサイフォンは炎ではなく、特殊な燃料を使って光で珈琲を抽出する。開店中は常に光に照らされているフラスコが、大きな電球のように見える光景は、店のちょっとした名物にもなっていた。
 万尋は吊り戸棚から細長い箱を二つばかり下ろした。箱を開けると、マッチ箱程度の包みがキャラメルのようにいくつか収まっている。固形燃料のようではあるが……。
「光サイフォンの燃料か?」
 しかし普段使われている燃料の包みよりもかなり小型で、ラベルも見たことがない意匠だった。
「普通のものとはちがって、首都ならともかくこんな地方までまわってくることはほとんどないんです」
 ここにあるのも、行きつけの商店で倉庫の奥から見つかったデッドストックだという。この町で光サイフォンなど他にはないから、店としても万尋以外に引き取り手がいなかったのだろう。
「首都ではたまに使っていたのですけど、ここでは初めて見ました」
 このご時世に首都からわざわざ北の地へ移住してきた彼は、若い時分には首都の大きな喫茶室で珈琲を淹れていた。七つの光サイフォンが店の売りで、この特殊な燃料を使うことも多かったらしい。
 吉野はマッチ箱大のキャラメルを手にとって、そのラベルを眺める。
「エドヒガン……」
「こっちはソメイヨシノ。昔あった花の名だそうですよ」
 奇しくもそれは、ついさっき吉野が痕跡だけを見てきた「桜」の名だった。
「稀少品なのはわかったが、どうちがうんだ」
 吉野の問いに、万尋は含みのある笑みを見せて、光サイフォンに向きなおる。
「では、吉野さんの名前が入っているほうで」
 彼が「ソメイヨシノ」をセットすると、コンロはぼんやりと白い光を放つ。これが熱源となる。と同時に、ガラス容器の中で沸き上がった水が、褐色の珈琲となってフラスコへ下りてくるさまを照らし出すのだ。
「これは……」
 吉野は息を止めて見入る。その光を集めたフラスコの球体は、見慣れた電球色ではなく淡い薄紅色に光っていた。
「きれいでしょう?」
 どこか得意げな一瞥を投げた万尋は、慣れた手つきで桜色に照らされた珈琲を小さなカップに注いだ。
「味見を」
 勧められるまま、カップを口元へ持っていくが、香り自体はいつもと変わりない。そのまま口に含むと、鼻腔の奥に別の味……いや、未知の香りをかすかに感じた。
「ほう」
「不思議ですよねえ。光には植物の成分なんて入れ込みようもないのに、なぜか花の香りがするんです。……お口に合うようなら、下に持っていきますね」
「うれしいな、ありがとう」
 地階のフロアに下り、司書のカウンタに入って旅行鞄から仕事道具と本を取り出す。開館前に、首都での仕事の後処理を済ませておきたい。
 すぐに万尋がポットとカップを銀のトレイに乗せて階段を下りてきた。閲覧用のテーブルでカップに例の珈琲を注ぐ彼を見て、今さらではあるが気になったことを尋ねてみる。
「特別な日にとっておかなくてよかったのか」
 ここでは手に入りにくい、稀少な燃料だと言っていた。だが万尋は穏やかに笑っただけだった。
「この珈琲をこの店であなたにふるまえたことが、特別なんですよ」
 友人の名を持つ花の香りを、首都ではなくこの北の町で。
 その味を今度はじっくりと楽しむ。滅んだ花の見た目は本で知ることができても、香りまではわからない。だがその花の名を冠する以上、これはきっと「桜」なのだろう……。
 はっとして、仕事もそこそこに壁の書架へと歩み寄った。狭い図書室だから、どこになにがあるかはほぼ把握している。
 引き出したのは大判の写真集。
 テーブルに置いて開いてみせると、万尋も興味深そうに覗き込んできた。
「これは……」
「桜だよ。これはエドヒガンという種でね」
 もう一つの燃料のラベルにあった名だと、万尋が驚く。
「石の上に咲いているように見えますが……」
「いや、石を割って咲いているんだ」
 枝を広げた木が、満開の花をつけている写真。この石ばかりではない。どこにでもある木だった。どこにでもあって、春になるとその全てが薄紅色の雲をそこかしこに作り出していたのだ。
 吉野は目を閉じ、先ほど見たあの石を思い描く。その石の上に、花の枝が影を作るのを。それを見上げる、幼い自分を。
 鼻先をあの香りがかすめる。
 舞い散る花びらが、瞼の裏にふわりと現れて消えた。


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サークル名:アールワークス(URL
執筆者名:シロジクロエ

一言アピール
現代日本と別レイヤーの異世界という設定で、具体的な地名は出てきませんが主に東北地方を舞台に、スチームパンク風ほのぼのディストピアを書いています。
この話は既刊「エクスリブリス・クロニクル」の番外編となります。基本的には図書館の話なので、本好きの方にはお楽しみいただけるかと思います。


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