想像は小説の執筆に欠くべからざる力であるかのように思われている。
 小説を書いている者は世間では想像力が豊かと見なされているし、また書く側も、小説は想像力によってものされる技芸であると思いがちだ。それはおそらく誤りではないのだが、過誤といってもよいと私は思っている。
 小説にとって必要な想像力というものは多分に概括的な呼び方だ。よくよく了見してみると、執筆に注ぎこまれる力の大半は想像というよりかは、着想や構成、語彙(適切な言葉を選び取る)力、資料の収集と調査、活用力といった方が相応しい部分が多い。これらをひとくくりに想像力と言い切ってしまうのは、他の力にあまりにも無礼であろう。
 では小説において想像力をどういう箇所で用いるのか、私を例に雑に記しつつ、それをだしに話をずらしていく。
 結論から言うと私は想像力をほんの少しか使っていない。
 ちなみに私が思う想像力というのは、あまり理屈のない思いつき、順序だてて考えていない発想、といったものである。「前もってある結論」、「積み上げられる前から見えている落としどころ」みたいなものだ。そういう意味ではたまに耳にする『この場面が先に形としてあった』『この場面のために書いた』という『場面』は、まさに私が考えている想像力の賜物だと考えている。

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 私が想像の力をもっとも使役するのは、本文を書きだすよりもずっと前の段階である。この他に本文の進行に詰まった際にも、打開の手助けとすべく手を伸ばす場合がある。これらはいわば構想やその練り直しなどに該当する箇所だ。構想とは執筆の発起ともいうべき段階で、練り直しは構想の軌道修正をはかろうとする弥縫びほう策の別名である。
 実際に文章を書く際の中核を成しているのはプロットだ。私のそれは主題に与えた解釈や、その解釈を基に組み立てた必要部分の項目、資料からの羅列やまとめ、書くべき情報といった組み合わせから構成されている。この中で想像力が入り込んでいるのは解釈の部分である。先述の、もっとも使役する箇所だ。
 解釈がどれだけ飛躍するかはその時次第というのが正直なところである。しかし制約はあるもので、多くは元の主題や作品の性格、舞台、規定の字数などに縛られる。
 たとえば蒸奇じょうき都市倶楽部のスチームパンク的な世界を舞台にしている作品であれば、どれだけその作品世界に落とし込めるか、かつ現実の我々に通じる範囲に翻訳できるかという部分に重点が置かれる。現代を舞台にしたものであれば、あまり突飛なことをしたくはないので、私が主題にいだいている率直な部分が反映されやすい。
 こうして想像力に基づく下地が整えば、他の部分はそこに積み上げていくだけだ。想像はいらない。与件をもとに理屈と少しの感情の出番になってくる。

 ところで最初の節の終わりに書いたからお気づきだとは思うが、私が小説を語る際に用いる「想像力」は基本的に「落としどころ」にすり替えられている。そして制約とは外部的要因や、あらかじめ決まっている部分(蒸奇都市倶楽部の世界設定も原案は私ではない)であり、私の独断ではあまり変えられないものが多い。所与の要因に従い落としどころを設け、そこへ向かって仕上げていくやり方が私の執筆形式ということになってくる。主題の解釈についてもそうであるが、決まった枠の中で想像を使役しているにすぎない。
 そのうえで書くと、私は主題とそこから起こる自分なりの解釈が、最初から系統立てて考えられたものであれば、想像などほとんど必要がなくてもよいと思っている。「使役」や「手を伸ばす」と、他人のものであるかのような書き方をしたのも、想像との間にとりたい距離を示している。可能ならば必要最低限でよいと。私にとって想像力とは、与えられたものであり、思考よりも先だつものなのである。
 逆説的に言えば、私は想像力だけで作品世界を構築するのが苦手だ。

 むろん想像が作品の根源にかかわる、欠くべからざる要素であるのは認める。
 一方で、想像それ自体が作品全体の味付けや方向性となってはいけないとも考えている。小説とは想像だけで描かれるものではないし、それだけで書けるほど生半なまなかでもない(ものであってほしい)からだ。
 文章を書く、なかんずく小説を書くとは、読者にいかに「本物らしさ」を現出させられるかであろう。もちろん実際の真偽や法則に基づいている必要はない。『その世界における』という条件を満たしていれば十分だ。まったくの空想でも「本物らしさ」は感じられる。逆もしかりで、怪談や古老の語りなども、場合によってはそれだけで十分に小説として成り立つとも考えている。
 だが、多分に想像だけで書かれた小説は、おそらくそこから最も遠く、あばずれで、﨟次らっしもない文章の連なりであろうと考えている。「本物らしさ」を編みこむ過程がそっくり抜け落ちているからだ。張りぼてが見えている小説を読みたいという人は少ないだろう。
 では「本物らしさ」を生じさせる要素は一体なんなのか。これは小説とはなんであるか、小説とは芸術であるか、といった部分にもおよぶ火薬庫みたいな議題で、私が取り上げるにはあまりに過分なので逃げさせてもらう。そこはもう各々の思うに任せる。

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 私は本来的な意味での想像に寄りかかるのを恐れている。これをほしいままにするのを避けている。落としどころという言葉にすり替えたのも、本来的な想像を警戒し、これを安易に持ちださないようにするためだ。(よって以下では、落としどころにはすり替えられない。)
 本来的な意味での想像、言い換えればオリジナリティある発想などないと思っている。
 ある作品の発想にせよ内容にせよ設定にせよ、その作者が世界で最初に編み出したものだと思っている人はいるだろうか。どんな作品であってもそれらのほぼ全ては、作者が過去に体験してきたありとあらゆる媒体のあらゆる作品や出来事に由来しているといってよい。もちろんそれを作者が明確に記憶しているかは別だ。(当然のこととして断っておくが、むろん私は元ネタ探しをしようとか、元ネタがあると疑って作品に接しろと言っているのではない。)
 そんなふうに考えている私からすれば、想像という言葉とイメージ・ソース、あるいは元ネタという言葉はほとんど等号で結ばれているといってもよい。
 想像を恣にするというのは、元ネタを暴露させているにも等しいし、寄りかかるのは元ネタが持つ力に頼っているということにもつながってくる。
 いずれも私自身に関して言えばあまり認めたくない類の事象だ。仮に伝わってしまうとしても、そうしたものは私が好んで明かすものではなく、わかる人がわかればよい、あくまでマニア的な要素であった方がよいと思っている。
 こうした姿勢の根本には、作品を元ネタと結び付けられたくなく、そんなものはないという顔をしたいからという見栄がある。
 おわかりだろう。
 オリジナリティなどないとうそぶいている私自身が、他ならぬオリジナリティがあるかのようにみせかけようとしている、この痛々しい構図が。

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 想像力を必須とするのは作者よりも読者であろう。
 でなければ、たかが紙面にあらわされた活字の連なりを導き手として、諸事万物に一喜一憂したり、あたかも実地に見聞したかのごとく感得したり、はたまた感銘を受けるはずがない。読者こそが真に想像を駆使して、その紙面で自由に遊び、「本物らしさ」を本物に変換する資格を有しているといってよいのだ。
 読者との対比に立てば、作者などというのは自分の作品を「大体こういう方向で読んでほしい」と、読者が自由に遊べる範囲の大枠を指定して柵で囲って世に送り出す役割にすぎない。主題の設定などはその最たるものだろう。
 しかし読者は小説を闊達自在に読むのに長けているから、作者の想定していなかった感想をいだいたり、意図しない方向ではあるものの鋭い示唆を与える人もいたりして、こうなっては作者が用意する柵などほとんど効用をなしていない。読者をある程度の枠で閉じるために用意したしがらみに囚われているのは作者ばかり、という事態に陥っているわけである。
 これは私に言わせれば、そもそも作者が用意した柵に、意図せぬ読み方ができる隙間があったというにすぎない。
 もっとも読者と読みあいの競争をしているわけではないから、自らの作品の穴ととって悔しいととらえるか、そういう読み方もあるのかと膝を打つのかは作者次第。狙い通りに読まれず悔しいと感じたのならば、次はそうならぬように磨いていけばよい。読者は引き続き作者の存在などまったく意に介さないで好きに読めばよい。
 こういう具合になるのは、作品を最終的に委ねられるのは読者であるという、絶対に避けえぬ図式が存在するからだ。これはどちらが偉いという話ではない。
 作品を形にするのはいうまでもなく作者であるが、彼が関われるのは書きあげる部分まで、あるいは送りだす部分までである。小説というものは、いや創作物というものはすべて受け手が存在して初めて完成する。小説においては本が開かれて読まれ、読者が生じて初めて完成形に至るといえる。
 作者は作品をどう読まれようが、読者の読み方にとやかく言える義務を負っていない(作品を読んでもらった義理はあるので、それでお礼などを言う作者はいる)。読者としても小説の内容を作者の意図通りに受け取る責は負っていない。
 先ほども書いたが、勝負でも何でもないのだから自由でよい。読者はただ想像力を大いに発揮して好きに読めばよいのである。

 むろん書く人間も、別の作者に対しては読者となる。
 私は自ら想像力を恣にするのを戒めているが、読む時にはそれを発揮してよいとも考えている。そうして奮われた想像力と読書経験が次第に涵養されて、あたかも食物連鎖や水循環のように、着想や語彙、構成といった小説を書く力の下地になると見ている。想像力は次の創作の母でもある。
 想像は創造に通ず。
 こんな洒落が「落としどころ」だ。
 余談であるが本稿はこの落としどころを思いついてから書きはじめたわけではないので、ほとんど想像を使役していない。

 しかしそもそもこの文章の連なり自体が想像だけで書かれているんじゃないのかって話で、読んでの通り﨟次もない。


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サークル名:蒸奇都市倶楽部(URL
執筆者名: シワ

一言アピール
想像の限界とはその人自身の限界である。――シワ


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