雨が止む。雨季が終わる。しかし余所者であるトウジにはその空の機嫌を感じ取ることが適わない。
「明日の朝にはすっかり変わっているだろうよ」
 外も中もないような店から路上を眺めていたホアンは鼻を鳴らしてそう言った。無精髭が過ぎた時間の分だけ伸びている。髪は癖毛の所為なのかあまり変化が見られない。
「僕の言葉で通じるかな」
「元若社長が何を言うんだか」
「元、だからだろ」
 一年前まで工場を抱えていた国で、こうして人生のやり直しを図っている。ホアンにはわからないのだろう、一体何を生業にしているのかも知らないが。トウジは麦酒で濡れた三日分の髭と唇を舐め、顎に手を添えて撫でてみた。削がれきった気力を差し置いて、神経質がぶり返しそうになる。
「アポも取らない商談なんてな・・・・・・」
 首から直接響いた声音はわかりやすく腐りきっていた。矛先は情けない自分か境遇か。ホアンは短い煙草の根本を徒に噛んでいるばかりで、他人の不安などどうでもいいような顔だった。
「本当にこれ以上の情報はないんだよな」
「ああ、もう何度も言ったろ。何なら下見にまで付いて行ってやったじゃねえか。途中すっ転んだのには驚いたが……霞季に入ったら視界が悪いだなんてもんじゃないのによお。念押しするならまああれだ、品物の準備だけは忘れるなよってこったな。あいつらは実物を見なけりゃ気が済まねえ」
 ミャアオと相槌を打つように、野良のペックが卓に乗る。乾物の骨をくわえると、そのまま軒下を伝い去っていく。猫ならば、多少の言葉を解することにも違和はない。けれども、
「やっぱり想像もつかないな。人魚だなんて」
 ホアンは僅かに口角を上げてトウジを見やっただけだった。
 人魚と交易のできる町。町と呼ぶには村らしく、村と呼ぶには町らしい場所だが元工場長の女はそう呼んだ。問題は人魚と、交易。空想を現実に夢見る歳などとうの昔に越えている。悪ふざけにしても芸がない。しかしトウジは突っぱねることができなかった。例え人魚が現実であろうと関係なく、幻想だと笑える立場であれたらどれほどよかったことだろう。実際は、路傍の石ころひとつで転落するほどの体たらく。僅かに残された全財産をしても以前拠点としていた彼の国の中で生きて行くには足りなかった。浮浪者となるか、或いは、僅かな手持ちすら十分に感じられる国へと移り住むか。後者を選んだ更なる理由に人魚が挙げられるわけではない。それでもこうしてやってきてしまえば無視するわけにもいかなかった。今この手元にある不安は、疑心暗鬼であるだとか、未知に対する恐ろしさであるだとか、そうしたものとは恐らく無縁であるのだが。そもそも、人魚という存在がこの町に留まり、世界の編み目から逃れている、そのことが既に幻想の幻想たる所以ではないかと思われた。いや、世界どころかこの町の中ですらトウジは人魚という語句を耳にしない。ホアンと、元工場長と、たった二人分の幻だ。酩酊する市民を置き去りにしてこの国の暮夜はまだ続く。店内では閑古鳥が鳴いており、分厚い雨脚がシャッターの代わりを果たしていた。オーナーは端からやる気がなく、受けた注文を一通りこなすと締め作業のため背を向けた。

 朝目を覚ますと、いや、目を覚ました筈だと思ってリネンの皺を確かめると、そこには確かにリネンの皺が感じられた。彼の夢には触覚がない。トウジは確かに目を覚ました。ただ、開いた目に映る寝室ごと、薄暈けた白の世界だった。そもそも寝室と判じる手立てはまだ慣れない寝具の他にない。パステルブルーの壁の色も、その影すら伺い知れなかった。遠くただの言葉であったその二文字に、漸く実態がついてくる。雨季が過ぎ、霞季が来た。南国の暑さにありながら、視界ばかりはホワイトアウトの世界だった。寝台を降りて二歩行くと、薄らブルーが浮かび上がる。手の先までならさほど問題もないけれど、足先は一寸頼りない。半径身の丈の内側はまさかそこだけが澄んでいる理屈もなく、あやふやな空気が息を潜めたようである。慣れない視界に落ち着かない。仮に町の一切、人間の全てが忽然と消えていたとして、それを疑おうと思えないほどには非現実そのものの白だった。人魚の幻が近くなる。他方、己すら己の気がしない。知らない世界に知らないものが暮らしている。それだけで幻想は現実味を帯びた。
 シェーバーを手にするトウジの前にはいつもと異なる鏡がある。手工業を取り纏めていた男と見るには堅物さや気難しさに欠け、控えめに言っても印象の薄さを否定することはできなかった。ひげ剃りを数日さぼったところで人相が悪くなることもない。明らかな気概や狡猾さ、敏腕性、目の前の男といくら睨めっこしてみても、そこからそれらを読みとることはできなかった。嘗ての鏡にはもう少し、理想が映ってはいなかったか。シェーバーは何度か細かな凹凸に戸惑い剃り損ね、トウジはその度持ち手を強く握りしめた。楽な半袖を頭から被り外へ出ると、落ち着いた朝食を摂っていく代わりに果樹の実りを当てにする。一歩一歩が恐ろしい。はじめに緑の葉が突きだし、続いて中心の幹が来た。淡い黄色に右手が彷徨い他へ伸びようとするものの、終いには結局はじめの果実へ戻ってくる。香った甘さがやや薄い。それが堪らずかぶりつき、果肉と果汁のとろける密度にむせ返った。種を吐き出し溝をまじまじ覗き込む。どこかから蛙のだみ声と、サンダルを鳴らす呑気な足音が聞こえたが、どちらもトウジの目に映る前に薄れていく。正午を回れば嫌でも見る顔と知りながら、足が向くのは一町歩離れた隣の家、近づいていくとこれもまた、ぬっと出るので驚いた。町は消えてはいなかった。パステルグリーンの壁と霞の境界が、空気の流れの悪戯の所為か右へ寄ったり左へ寄ったり覚束ない。近づいてみると戸口と四つある窓の全てにヴェールが取り付けられていた。緑青色のそれらはよく注意しても隙がなく、常ならば覗き放題の家の様子がまるでちっとも掴めない。影くらい映っても良さそうなものだと思うけれど、期待に反して霞の白色が薄くなったり濃くなったりするばかりだった。生活音さえ聞こえない。戸口を叩いて呼んでみるほどの用でもなく、逡巡はもはや諦めるための足踏みに過ぎなかった。それでもトウジは視界の悪さを理由にして、健康な足を摺っていく。引き返すうちに見咎めるものなどいやしない。納屋と呼んでも差し支えのない離れには、ささくれた木の戸がささくれたままで嵌っている。今はその戸が押し戸であるのが嫌だった。
 板張りの壁が奥に見える。けれども、雨季には雨漏りもしていた荒ら屋のことだ、決して密閉されているわけではない。トウジは溢れたバケツの水から反対側の壁へと目を移した。這い出そうとする霞の白さは弱々しく、僅かに侵入し棚引くそれらが増える気配はみられない。材木が霞を受け流し、屋内は異様に澄んでいた。これはこの土地のものだろうか。何てことのない木目の揺らぎに握り拳が隙を作る。トウジは作業台に放られてあった図案帳の余白を見つけると、それらの形を写し取るため鉛筆を軽く動かした。乾燥棚には注文を受けた器が幾つか休んでいる。早くから微睡む習作を両手にトウジは背中で戸を押した。雨の日の、梅雨の窯なら慣れたものだが霞季の窯などわからない。視察に来たのは乾季であったしその上工場の中だった。午後には隣の家の田圃で中干しの手伝いが待っている。青い稲田とそれを侵食する霞、ささめく二色はときに干渉しときに拒みあいながらもその茫漠たる姿を深めていく。トウジの視界の限りでは精々稲の数株を認められればいい方だろうと思うけれど、幽玄は確かにそこへ広がっているのだった。荒ら屋の外景、窯の外にある色。ただ正午を知らせる時計ばかりがこの澄んだ部屋の中に掛かっている。

 泥と汗と、更には霞の水気にまみれてトウジは母屋へ帰ってきた。人魚など、交易など、もうどうだっていい。関心を割くような余裕など、もう欠片も残っていなかった。しかし埃を被った花瓶は窓辺で物言いたげな目をしている。気配だけではあるけれど、その目がトウジには見える気がした。正直なところ今はただただ真っ直ぐに寝台へと倒れ込みたい。人魚がなんだ。交易がなんだ。トウジは張り付く服を剥がして頭から冷たい水を浴びた。稲作は過酷だ。それはこの数か月で身を以て感じていたけれど、遠くから聞こえた声の持ち主が殊の外近くにいただとか、指示された場所へ向かっていたのが実は一反間違っていただとか、少しは慣れたかと思えた矢先にこれは手も足も出なかった。出しっぱなしの冷水の刺激もショートした身体を起こさない。洗剤に浸かった陶磁器のほうがまだ余程官能をわかっているだろう。ただ無心で身体を清めていくばかりのこの時間に、付随するのは冷感が捉える煩わしさの幾ばくか。もう、一度寝っ転がってしまったら起き上がる気になどなれないことは必至だった。トウジはのろのろ一張羅のスーツを身に纏い、無難なネクタイで息を詰める。鏡に映ったその男からは覇気も余裕も失われ、かつての忙殺具合に音を上げていった部下の顔や、左遷されていった後の爺さんの窶れた姿と重なった。金継ぎの皿に石鹸がこびり付いている。捨てられなかった彼らは黙って耐えていた。それが時折重荷だった。動く理由もわからない中始まりの言葉を思い出す。
「ここは人魚と交易ができる町ですね。でも、私言うよりトウジさん言ったほうがいいところちゃんと伝わります。だからこっちきて次の商談成立してください」
 彼女は、社員全員に退職金を出した後、掛けた電話相手の一人だった。特に目を掛けていたわけではない。ただあくまでも社長と社員の関係で、工場長という肩書きが少し無視をするには重かった。その世辞を言う口調が思いがけず本気であったことは、この国を選んだ理由の一つに数えてもきっと間違いではない。我が身の明日で手一杯な声が続く中、それは一聞して流しそうなほどの声だった。風俗はわからないけれど、行政ならそれなりにわかるだろう。一番の理由を携えたトウジに彼女は弟を紹介し、おかげでこうして何とか食いつないでいる。
 斜陽、夕暮れ、黄昏時。
 風化するにはまだ早い。その苦い色の中に何を見て、何を語ればいいのだろう。疑心暗鬼で止まったまま、彼らを肯定しあぐねる。先の見えないあぜ道と、霞季を迎えた鍾乳窟、そこでもう一度踏み外すことを今は何よりも恐れている。


Webanthcircle
サークル名:波の寄る辺(URL
執筆者名:桜鬼

一言アピール

念願の初直参加です……!
好きな小説家は梶井基次郎、好きな詩人は三好達治、といいつつラノベから純文学まで大体美味しくいただきます。
ジャンルは不明ですがイラストレーターで例えると背景描きでしょうか。そこに描かれる人物は後姿であったり横顔であったり……つまり中々どうして目が合わない系……(?)


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