魔女と永遠
今日は散々だ、とイル・エウリは長い溜息をついた。歌い始めればみんな通りのいい高音部に聞き入ってくれるし毎日しっかり発声練習をしている伸びやかな高音は、ほんの少しかすれたって味だと思ってくれるけれど、本当は低音部のなめらかな厚みが才能だし、才能は訓練で身に着けるのは難しい。
最近確かに低音の維持がしづらいな、とイルはもう一度溜息をつきそうになり、気持ちを逸らすために大きく伸びをした。羽根がはたはたと背中で揺れてふくらはぎに当たり、ほんの少し、くすぐったい。
「イル、お疲れさま。ごはん、食べていってね」
出された皿に盛られているマキスの実は表皮に汗をかいている。本当は冷やしたほうがずっと美味しいのだけれど、イルの喉は商売道具だ。冷たいものは駄目、と店主のパルナは知っている。わざわざ氷箱から取り出して時間をおいてくれたのだ。
「ありがと、いただきます」
挨拶をして実をかじるとじゅわりと果汁がこぼれてきた。いそいで口元をぬぐっていると端布をさっと出してくれるからパルナは本当にすごいな、とイルは思う。
自分は歌以外のことはぼんやりの類で、気働きというのがとても苦手だ。察する、とか推し量る、とか、それらはイルの歌と同じくらい才能だと思う。
簡単に食事を済ませてイルは立ち上がり、今日の歌のことをもう一度詫びた。低音のことは朝からずっと苛立っていて、ついに本番で最低音部がかすれて飛び飛びになってしまった――ところまでは仕方がなくても、癇癪を起こしてしまったのは自分が悪かった。パルナは「調子の悪いときもあるわよ」と笑ってくれて、それに少しほっとしてしまったのも嫌な気分だ。
「帰りますね。おやすみなさーい!」
できるだけ明るく聞こえるように強い声を出し、イルはぱっと屋台から離れた。中央の小さな舞台を中心にした屋外の食事所は、いくつかの屋台の集合体だ。店主が替われば店も変わるし、新しい子が生まれたときは継がせることもある。
イルのところに継子はこないかもしれないが、歌を生業としているから仕方ない。いくつか、自分で作った歌を誰かが継いでくれたらいいんだけど……
そんなことを考えて、イルは口を曲げた。今日のような失敗と、失敗にふて腐れている自分が誰かを教えるなんてこと、できる気がしない。
エウリの家は食事所から少しだけ果樹園を歩いて目印のロクトの木を右に曲がり、短い曲をひとつ歌いきったあたりのところにある。妹たちはもう帰っているだろうし、今日の自分のことも何か言うかもしれない……もしかしたら、何も言わないかもしれないけど。みんな優しいから。
イルはまた溜息になった。優しいって温かでやわらかいのに、そのなかに埋もれて死んでしまうような気分になることは、時々ある。今日のことを何も言われなければ、多分。
イルは見えてきたロクトの木に視線をやり、歌い出した。
知っている歌はいくつもあるし、作った歌もたくさんある。
わたしは歌姫。イルは1番高い部分を歌う。
歌って、跳ねて飛んで、夜の灯火のきらめきや昼のまぶしい太陽の光に混じってきらきら輝くために生まれてきたの――
お気に入りの部分をぽん、ぽん、と跳ねながら口ずさむ。羽根はふわりと開き、はさはさ揺れて、自分の歌に合わせて踊っているときが本当に楽しい。イルの羽根は小さくて、本当は飛ぶことはできないけれど、いつかもう少し大きくなったらきっと、――……
そんなことを考えていると目の前にロクトの木があって、イルは太い幹に頬をよせてもたれかかった。
もうすぐロクトは花が咲く。白い花と赤い花がばらばらに咲く珍しい木だ。花が開く直前からなんともいえない甘い香りが漂いだして、完全に花が開くと中央には黄色くて丸い実のようなものがある。これを詰んで潰して蒸留して……イルにはよく分からない工程をいくつも重ねるとロクトの香り水になる。
まだ少し早いのか、香りは控えめだった。つぼみを見ようとイルが視線をあげていると、目の端にちらちらと灯りが揺れるのが見えた。
この木の先を曲がらずにまっすぐ行くと魔女の森だった。
そこから帰ってくるのは1人だけだ。
「リズ! 今帰り?」
声をあげて手を振ると、灯りがちらちらと答えるように揺れ、ほどなくリズがイルの前で足を止めた。
「こんばんは、イル。今帰りなの?」
「うん、ちょっと、遅くなっちゃって」
「今日も素敵な歌だったのね」
微笑まれてイルは曖昧に口篭もった。どうせリズもアルトの家に戻れば今日のことくらい聞くかもしれないし、無闇に虚勢を張るのも、自分の失敗を人に話すのも、どちらも気が進まなかった。
リズはイルの煮え切らない様子で何か察したらしい。
「ごめんなさい、私、何か余計なことを?」
僅かに目を伏せると、リズが下げている手提げ灯の光は一層陰鬱な影になり、ひどく悲しそうに見えた。イルは慌てて
「大丈夫、ごめん、何も心配してもらうようなことはないの」
と言い、それから
「……最近、ちょっと、その……低音がね、やりづらくって……」
核心ではなくても事実の部分を口にした。
「まあ」
リズは軽く目をみはり、深く頷いた。
「私、今、アムのところから戻ってきたのだけど……」
リズが振り返り、黒々と広がる森を見やる。
「アムなら喉にいい薬かお茶を持っていると思うわ。あの子は本当に物知りだから……」
「え、でも……」
イルは困惑してリズを見返した。
アムネジアとは仲良くない――悪くもないけど。
イルたちの村から離れてひとりで暮らしているのは彼女の方だし、友達だってリズひとりだ。魔女と名乗っているからには魔法は使えるのかもしれないが、付き合いもなかったし少々とっつきにくい雰囲気がある。いつも長外套を巻きつけていて、滅多に森から出てこない。長外套をまいているのはリズも同じだけど、……けれど、アムネジアは『違う』。何が、といわれても明確に回答がないが、どうしても自分たちとは『違う』のだ、という気分になる。好きや嫌いではなく、違和感というのが近いのかも知れない。
「わたし、全然話したこともなくて……」
イルの戸惑いをリズはすぐに「気にしないで」と笑った。
「アムだって、みんなのこと嫌いなわけじゃないの。ちょっと人見知りするだけ。さっき別れたばかりだし、まだ起きてると思うわ。それに彼女、とてもいい子なの。話したらすぐ分かるわ――ね、一緒にいきましょう?」
言いながらリズが華やかに笑った。数歩いって、イルを待つように振り返る。仕方なしに一緒に歩き出して、それでもイルはほっと肩から力を抜いた。
魔女の家は森に入ってすぐだった。もっと奥地にひっそりと住んでいるのだと思っていたイルは拍子抜けする。想像していたよりも簡素で小さな家屋だ。まだ灯りがゆらゆらしているから、リズの言った通り起きているのだろう。
ノックをするとすぐに扉が開いてアムネジアが顔を出した。栗色の短い髪だ。いつも外套を着込んでいるから肩の長さに揃えているのだろう。
「リズ……、イル?」
アムネジアの目がこちらを見て、イルは背を伸ばした。
「最近喉の調子が悪くて、お薬かお茶がないかしら、って」
言いながらリズがすたすたと中へ入り、アムネジアはドアを開けたまま突っ立っている。自分が中に入るのを待っているのだと気付き、イルは急いでリズに続いた。
「喉の薬ねえ……」
アムネジアが呟き、「ロット!」とひと声かけると、足元を何かが素早く動いた気配がして、イルは小さく声を上げた。
毛玉だ。真っ白な、毛玉。
「ロットっていうの。アムの使い魔」
いたずらっぽくリズが囁き、アムネジアがほんの少し顔をしかめてリズを睨む。
「別に使い魔ってわけじゃ……家についてたの。それだけよ――ロット、喉のお茶」
「はい、ご主人様」
どこから聞こえたのかも分からない声がして、イルは今度こそ驚いて
「喋るの、それ!」
と叫んだ。リズが弾かれたように笑う。
「初めて見るとびっくりするよね!私も同じこと言ったもの!」
「そう……なの?」
イルのおっかなびっくりの言葉にリズが頷き、大丈夫よ、と優しい声を出した。毛玉がくるりと回転し、「以後、お見知りおきを」愛想を言う。
ロットとよばれている毛玉は倉庫のどこに何があるのかを全て把握しているらしく、番号をするすると唱え、アムネジアは淡々と何かを計り、混ぜ、煎じてイルの前に置き、最後に数滴の水を垂らした。 ぱっと立つ華やかな香りはロクトだ。香りを入れて飲みやすくしてくれたのだな、ということは分かる。
口にしてみるとわずかに苦みは残るが優しい味だ。
「味は大して調整できないんだけど……」
アムネジアがつぶやく。
「ロクトの香り水ならみんな持ってるだろうし、苦手ならもう少し香り水を足してもいいわよ」
「うん……ありがとう」
「どういたしまして」
淡々と返答し、アムネジアは片付けをするのだろう、背を返した。
何となくそれを見送って、あわててイルは目を逸らした。背中を見るべきではなかった。いつも彼女が長外套を着込んでいる理由も分かってしまった――
イルは2度すばやくまばたきをして、いそいで茶を飲むふりで視線を落とした。リズは自分が気付いたことに、気付いていない。そしてリズも長外套だ……何かを気付いてはいけない気がして、イルはそれ以上の考えをやめる。
調合された茶の袋を持ってリズと一緒に帰る道は、来たときよりも長い気がした。
さっき見て『しまった』もののことは忘れられないと思う。そして忘れなくては、と思う。優しくてまっすぐで綺麗なリズのことが大好きで、リズが大好きだというアムネジアのことも、嫌じゃない、から。
何かの考えにまとまってしまうまえにイルは歌をうたう。囁くような、このしんしんとした黒い森に染みこむような、優しくて小さな歌だ。
「……いい歌ね」
リズがつぶやいたのが聞こえた。
「旅立つまえに誰かに教えていってね。私はあんまり歌は得意じゃないから……」
「ありがと」
イルは少し笑う。自分にできるのは歌で、それは例えばアサルのスープを作るのが得意だとか、空を飛べるだとか、そんなことと同じくらいのことだ。
「多分、もうすぐだと思うんだけど……ねえ、『旅立ち』が決まったら、リズ、お別れ会に来てくれる?」
「もちろん! ……アムも誘っていい?」
「いいけど……でも、あの子、わたしより年上だよね……? あの子の方が早く『旅立つ』と思うけど……」
旅立ちの日は誰にも分からない。けれど、いつか必ず分かる日が来る、と聞いている。どんなものなのか、どうやって訪れるのか、経験していないイルには分からない。
「アムは『旅立たない』と思うわ――」
リズが低く言い、それからイルの目をのぞき込んだ。
「見ちゃったのね、イル? お願い、誰にも言わないであげて。とても気にしているの……でも、彼女はずっとここにいるわ、きっと、永遠にね――」
永遠、と口にしたときのリズがあまりに寂しそうだったから、イルは深く頷いた。永遠、と口の中で転がすととても寂しい言葉に聞こえた。
「わたしたち、大人になんて、ならなければいいのにね……」
リズの言葉が自分の胸にほどけていって、イルは同意も否定もしないまま、自分がここにいると言うかわりにリズの手をぎゅっと握った。
サークル名:ショボ~ン書房(URL)
執筆者名:石井鶫子
一言アピール
創作ファンタジー小説と刀剣乱舞で活動しています。これは新作百合SF「アムネジア」のさわりてきな何か。ほかに妖精屋の3が新刊であるはず…のであるはず…多分…きっと…信じる…