妖精標本
パトロンの館は秘密でいっぱい。
昼下がりの光を受けた、足が沈みそうなほどに柔らかい絨毯の廊下を、フィスチェは歩く。真っ黒なフリルがたっぷりとあしらわれた服はパトロンのお手製、パニエで膨らんだスカートの裾を翻し、ぷらぷらと歩く足に明確な意志はない。
「夕食の仕込みがあるので、適当に時間を潰して頂けませんか?」――申し訳なさそうに笑いながら言われた言葉に頷いたはいいものの、歩く速度を緩めてフィスチェは周囲を見渡す。相応の距離があるとはいえ、扉は等間隔に並んでおり、廊下の突き当たりは遙か向こう。
フィスチェは旅をしている。何処にあるかも分からない探し物を見つける途方も無い旅路を支えているのは、探し物に興味を覚えたというパトロンの善意。そんな彼が唯一課した約束が『定期的に館へ趣き、旅の話をしてもらう』こと。彼は今も、フィスチェの話を聞きたいが為に手の込んだ料理を作っているのだが、手伝いさえ低調に断られてしまった当人としては手持ち無沙汰以外のなにものでもない。
地下の空間と、最上階にあるパトロンの私室以外は自由に出入りしてもいいと許可を貰っているため、フィスチェの足は近くに迫っていた扉の一つを横にして止まる。三階中央部分、この部屋は確か、吹き抜け構造の倉庫となっていた筈。躊躇いなく、金のドアノブを握って開けた。
見上げるほどに高い嵌め込み窓は収納物を日光で痛めないために薄いカーテンで覆われ、中は埃っぽさを感じないものの、締め切った空間独特の空気が沈殿している。室内に等間隔で並ぶ棚には、一見しては価値の掴めないものが隙間を作って置かれており、フィスチェは眼帯に覆われていない左の青い目で室内を見渡した。以前見た時と変わらないと、思えたのは僅かな時間であった。
気付けば、眼前にくすんだ金色の木が生えていた。光を通しきれない窓硝子を背にして、真鍮にもよく似た材質の細い木が生えているのだ。オブジェにも見えるそれに暫し目を丸くさせたフィスチェだったが、次の瞬間彼女は眼帯越しに右目を押さえ込んだ。
細い木から、葉を一つも付けない代わりに、鳥籠を提げた枝が生えている。それだけなら『物を引っかけるオブジェ』と認識するに留まったが、中身が見つからない鳥籠が揺れているのだ。普通では無い。
あの中に、鳥籠の中に、何かがいる。右目を押さえていた指先を動かし、ちらり、とだけ眼帯を持ち上げた。隠している右目にあるのは、不可視のものを可視させてしまう力。自分のみならず周りに影響を与えるため普段は封じているが、今はフィスチェしかいない。
はたして、鳥籠にいたのは、鳥籠の細い金属の檻を握り揺らすは、小人であった。
「妖精……?」
姿形は一定でなくとも、掌に収まるほどに小さな存在を、大分類して妖精と呼ぶ。乏しい光源を背に、水晶を薄く切ったかのような胡蝶の羽を震わせ光らせる様は、何かに怯えるようにも、乞うようにも映る。羽以外は人間と殆ど変わらない姿をしたそれは、巨大な青い目を動かしてフィスチェを見ている。
「えぇと……こんにちは……?」
出入りを許可した場所に置いているものなら、害はないだろう。曰く地下にはよろしくないものをふんだんに置いているので出入り禁止、と言っていたパトロンの説明を思い出し、フィスチェは眼帯から指を離して声をかける。
風の動きがない室内に、無音の時ばかりが刻まれる。どうしていいものか掴めず直立不動状態と化したフィスチェを暫し見つめ、妖精は口を開く。全ての歯がギザギザに尖った紅色の唇が、にこやかに持ち上がる。
『ンギャフガンギャンギャ』
右目は不可視のものを見せはするが、全ての言語までに対応していない。ふがふがと奇妙な声を上げるそれは、何故か嬉しそうに頬を染めて笑っているが、見当が付かない。
『ンン、ンフヌフルルガフギャク、ヌギャヌヌヌル』
自らの胸に白い手を当てて、妖精は名乗るような仕草をする。
この場合、名乗る方がいいのだろうか。しかし、幻想の生き物相手に下手に名乗るのは良くないとパトロン含め複数の知人に言われている。不可視を可視に変えるほど強大な力を持っているので、尚更引っ張られやすいから気を付けろ、と。
名乗らずとも、何か聞いてみるのも手かもしれない。どくどくと響く胸元と、それによって苦しくなる呼吸を頭の隅に追いやって、フィスチェは鳥籠へ近付き――。
「わっ」
「ふぇっっ!」
後ろから両肩を捕まれた衝撃に仰け反った。
口から何かが出そうになりながらも、フィスチェは仰け反った姿勢のまま背後の人物を見上げる。フィスチェの深い青とは反対の、澄み渡る青い瞳が、苦笑気味に細められている。
「シェスターナー……さん?」
「はい」
青いリボンで纏めた金髪を揺らし、フィスチェのパトロンは応える。
「あれ? えぇとどうして」
「すみません、ここに一時保存していたものと貴女との相性の悪さに、今気付きまして……しかも既に引き当ててしまっているとは」
糊の効いたシャツに、細身のベストとスラックスに身を包んだ男は、二度フィスチェの肩を叩いた後に扉へと促す。
「私はこれの片付けをしますので、もう暫くは別の部屋で待機をお願いします」
「あぁ、えと、はい」
何かが違うような、釦を引っかけ間違えたような違和感を燻らせる間にも、フィスチェの足下は廊下のふかふかとした絨毯の上にあった。しかも、気になって振り向く前に扉は閉められていた。
「シェスターナーさん……」
「はい、どうかしましたかフィスチェさん。あぁ丁度良かった、少し早いですが準備が整ったので呼びに来ました」
「はい、分かりま……ええっ!?」
廊下から、扉の向こうに行った筈のシェスターナーが此方へ歩いて来たではないか。姿格好まで全く同じ彼は、扉と彼を交互に見ては怪訝そうにするフィスチェの顔色から何かを読み取ったのだろう。ふむ、と一つ頷いて、彼は扉へと進みドアノブを握って顔だけ室内へと入れる。それすらも一瞬の出来事で、すぐさま扉を閉めた彼は一頻り唸ってからフィスチェへと向き直った。
「何かいますね」
「……はい」
「見なかったことにしましょうか」
口は、はい、と動いたとは思うものの、果たしてそれでいいのかどうか。
「――たまに、の話ですが」
惑うフィスチェをよそに、シェスターナーは来た道へ戻りながら此方へ手招きをする。拒否する理由もないため付いて行けば、彼は続きを口にする。
「この館、あらゆる世界と繋がってはいますが、どの世界にも属さない狭間の立ち位置です。これは以前お伝えしましたね?」
最果てのない、館の外に広がる山へ向かっても館へ戻ってしまう特殊な空間。身をもって経験していたフィスチェは頷いてみせた。
「そんな場所ですので、時折変なものが迷い込んでしまいまして。ええ、先程のようなものがですね――最初は額縁に入れた、ただの標本だったのですが、私が目を離している隙に……申し訳ない」
心からそう思っているのだろうと伝わる声で言われ、フィスチェは慌てて首を振るも、見てしまったものを思い出して息が詰まった。
不可視の、やけに耳に残る声を出す、妖精のような生き物。ぎょろりとした青い目が、遠く離れた扉越しから見ているような、気が、して。フィスチェはひっそりと手で肩をさすった。
怖じ気づくフィスチェを見下ろし、シェスターナーは苦微笑を薄く乗せる。
「大丈夫でしたか?」
「はい。その……止めて? くれたので」
心身に自覚出来る範囲の異常は見当たらず、フィスチェは大人しく思ったことを口にする。引っかかる疑問の響きごと。
「あの、シェスターナーさん」
「はい」
歩みはゆっくりとはいえ、止まらない。逆にそれがいいのかもしれない、立ち止まったら異様な眼差しと声をしっかりと思い出してしまいそうだから。
「さっき、部屋にいたのは」
目の前にいる彼なのか、はたまた別の存在か。
「私ではありません」
言い終わる前に、彼はあっさりと回答を唇に乗せる。
「ただ……そうですねぇ、悪い人ではないですよ」
「じゃあ」
やけに含みのある、知っていそうな物言いが気になって、フィスチェは顔を上げて問いかけるも、彼の唇には人差し指が添えられていた。
「内緒、です」
「ないしょ……?」
「ええ。知ってしまってはいけないことが、世の中にはごまんとありますから」
含みでいっぱいの声は絨毯のように柔らかいのに、真鍮のように冷ややかで固いものがあった。
「分かりました」
「よろしい」
素直に従えば、彼は満面の笑みを浮かべた。
悪い人では無い――見返りなしに旅の出資をしてくれる人だ――が、時折見せる笑みに、どうしても人間ではない何かの気配を感じてしまい、フィスチェは竦みそうな足を動かすよう意識を注ぐ。
「それでは、早めの夕餉にしましょうか」
「はい」
返事をすると同時に、空っぽになっていた腹部が切なく鳴った。シェスターナーが笑い声をかみ殺す横でフィスチェは上気した頬を手で仰ぎ、ふと気付く。
廊下に斜陽が差し込んでいた。
パトロンの館は、当人も含めて秘密でいっぱい。
サークル名:雫星(URL)
執筆者名:神奈崎アスカ
一言アピール
地に足付かない幻想系から、地に足着けた冒険譚まで。異世界幻想を中心に、二次創作鈍器も錬成する。新刊は風習から世界まで多種多様な滅びを綴った短編集。またの名をシンカントテモシロイホン。